悪鬼(ストカル)の姿
次の朝、アトラスは兵が慌ただしく走り回る足音で目が覚めた。間もなくクセノフォンがやって来て告げた。
「兵が十七名、無断で宿営地を離れました」
穏便な言い方だが、短く言えば軍規を破って脱走したと言う事で、見せしめの斬首にも相当する重い罪だった。姿を消した仲間を捜し求めていた兵士たちが、戻ってクセノフォンの周りに集まってきた。その数を眺めれば、確かに昨日より少ない
「臆病故ではないと考えます」
クセノフォンは兵が戦に怯えて脱走したのではないという。アトラスは怒りを込めて言った。
「分かっている。あの村の家族に会いに行ったというのであろう。しかし、何と言う事をしたのだ」
アトラスの怒りの意味が分からず、クセノフォンや兵士は首を傾げた。アトラスはそんな彼らに言葉を続けた。
「あの村に我が兵士が居ると敵に気づかれれば、あの村は戦場になる。村人は戦に巻き込まれ、お前たちが大事にしている人々も死ぬ」
兵士たちはアトラスが自身の不利を被っても、村を戦火に晒す事を避けようとしていた事を知った。しかし、それを説明しなかったのは何故だろう。アトラス自身にも分からない。彼は彼自身が望まなかったにしても、今までいくつもの戦で多くの町を戦火に晒し、家を焼き、老人や子どもまで死に至らしめ、多くの人々から悪鬼や邪悪な精霊と蔑まれている。今更、一つの村を戦場にしたところで、アトラスの過去の罪が拭われるわけではないだろう
クセノフォンが尋ねた。
「では、どういたしますか」
「村に行った連中を追うぞ」
「しかし、我らに気づけば、敵は即座に千の兵を差し向けて参りますぞ」
クセノフォンの言うとおりだろう。実際に物資の集積所を襲われた事を知った敵は全軍の三分の一にも当たる兵を差し向けてきたし、その決断をする指揮官もいる。三分の一とは言え、アトラスの部隊の五倍もの兵との直接の戦いになれば、不利は免れない。勝利の見込みは少なく、有能な指揮官なら戦いは避けるだろう。
しかし、アトラスは戦いも辞さぬと短く言った
「いや。行かねばなるまい」
「どうして、今、そんな無理を?」
クセノフォンの問いに、アトラスは合理的な説明に困り、首を傾げて妙な例えで答えた。
「泥まみれ、汗まみれの私を見よ。兵士たちと変わらぬ。仲間や村人を救出するのに理由がいるのか」
アトラスの戦術上の目的は、脱走した兵士を収容して戻る。しかし、もし、戦闘が起きていれば介入するというのがアトラスの当面の行動目的だった。アトラスはクセノフォンに足の達者な兵二名を選んで軽装で村に向かわせよと命じたあと、他の兵士たちにも出発の準備を命じた。
クセノフォンはアトラスと並んで隊列の先頭を歩きながら提案した。
「王よ、もう少し急がせては」
村で戦闘が始まろうとしている。行軍の速度を上げて出来るだけ早く戦場に着きたい。そんな彼にアトラスは短く答えた。
「いや無用に」
アトラス自身、兵士と共に歩きながら兵士の疲労を感じ取っている。急がねばならない。しかし、これから想定する戦闘に備えて、兵を疲れさせすぎるわけにもいかない。アトラスは勝利も見いだせない戦に臨み、戦術の常識を無視しながら、兵を疲れさせてはならないという戦術の常識を守ってもいる。矛盾を自覚しながら、アトラス自身にも判断の理由が分からない。
太陽の光さえ遮るほど密に茂った枝や葉は前方の視界も遮って、唯一視界が開けた湖の方向に見える景色から自分たちの位置を知る。湖の畔に沿って進む先は南から西へと折れて時間も過ぎた。目的の村は間近なはずだが、未だ森は途切れることなく続いていた。
突然、アトラスは何かに気づいたように立ち止まって、くんっと鼻を鳴らした。やや滑稽な表情だったが、クセノフォンもまた鼻を鳴らした。
「どうだ?」
短く問うアトラスにクセノフォンが答えた。
「村は近いが、戦場になっていると言う事でしょうか」
前方の視界は閉ざされ、森の外の物音も拡散されてアトラスたちに届かない。ただ緩やかな風に乗って煙とも言えない香りが届いていた。この香りはアトラスたちは経験がある。村や町人の生活が焼き払われる臭いだった。
アトラスは短く命じた。
「急ぐぞ」
クセノフォンが兵士たちを振り返って、アトラスの命令を伝えた。
間もなく、先に遣わした物見の一人が戻ってきて告げた。村が敵に焼かれ、村人たちは村を離れて森に隠れたと。そして村人たちはアトラスの脱走兵と出会ってアトラスの存在を知り、庇護を求めてこちらへ逃げてくると言う。
アトラスが首を傾げて呟いた。
「早すぎるな」
村に到着した脱走兵の存在に気づいて敵が兵を動かしたにしては、姿を見せるのが早すぎる。間もなく脱走兵たちに守られた村人たちが姿を見せ始めた。その数はざっと数えて二百ばかり。もう少し時間が立てば老人や子ども連れの女など、か弱い者が加わって、避難民の数も増えるだろう。
アトラスは幾人かの男に見覚えがあった。昨夜アトラスの陣にいてアトラスが声を掛けた兵士たちだった。彼らの故郷と家族を懐かしむ会話が記憶に残っている。しかし、アトラスは彼らの脱走の罪を問わねばならない。彼らも自分たちの罪を自覚するようにアトラスから顔を背けていた。
この時、一人の初老の男が片腕という特徴でアトラスに気づいて進み出て、片膝をついて頭を垂れた。
「勇者よ。アトラス王よ。村長のテクザスと申します。村の者どもを代表し、我らを救いに来ていただいた事、感謝申します」
この時、傍らにいたクセノフォンが何かを思いついたように口を挟んでテクザスに言った。
「我らが王は先に遣わせた兵だけでは足りぬとお考えになり、王自ら本隊を率いて来られた」
彼はそれだけ言って、アトラスに視線を向けて、勝手な事を言った事を謝罪するように頭を下げた。アトラスは察した。脱走兵たちも村人を保護しながら戻ってきた。クセノフォンの嘘を受け入れて、脱走ではなくアトラスが遣わしたと言う事にすれば、脱走はうやむやにして、彼らを処罰せず受け入れる事が出来る。
アトラスはクセノフォンに頷いて見せてから、村長の肩に手を添えて立たせ、気がかりな事を尋ねた。
「何故、敵が村に?」
敵が現れたタイミングを判断すれば、脱走兵が村に行ったせいではない。村長が語った。
「彼らは民家まで襲って食料を奪い、隠した食料を出さねば家を焼くと脅して、私の家に火をかけました」
村長の言葉に、アトラスとクセノフォンは顔を見合わせて首を傾げた。アトラスたちは敵が備蓄する物資を焼き払ったが、敵は撤退する気配もなく、王都を強襲して陥落させて王都から食料を得ようとする気配もなかった。ということは、後方に充分な物資の蓄えがあり、即座に前線に物資を届ける事も出来る体勢にあるはずだ。敵が飢えて村を襲ったというなら、理由は分からないが、敵にとって思いも掛けず、後方から物資の供給が途絶えていると言う事だ。
アトラスは村長もう一つ尋ねた。
「その兵の数は?」
「いや。我らは兵に怯えて、その数など数える余裕もございませんでした」
村長の言葉ももっともだった。突然に村を襲われては数を確認する余裕もあるまい。しかし、間もなく先に出した物見が戻ってその情報を告げた。
「家々の陰に隠れて正確には数えられませなんだが、百五十から二百。多くとも二百五十を越える事はございません」
「多くとも二百五十か」
考え込むアトラスの決断を促すようにクセノフォンが尋ねた。
「いかがするので?」
「目の前の敵は、我らと同等の人数で、盗みに夢中で油断もしていよう。我らは有利に戦えるという事だ」
アトラスの決断にクセノフォンもにやりと笑って答えた。
「はい。血がたぎりますな」
その言葉を聞いていた兵士たちも頷いていた。
アトラスたちが敵に戦いを挑んだのは、日暮れ前の事だった。敵は物資を家々から運び出し、運搬のために荷車に積むのに忙しく、戦闘の決意など心の片隅にもなかっただろう。そんな敵に戦意が溢れんばかりのアトラスたちは怒号を挙げて斬りかかっていった。敵は思いも掛けず起きた戦闘に驚き慌て、それが恐怖に変わった。
何より、まるで深い森の中から突然に沸いて出てきたような不可思議な出現の仕方と、その先頭の人物が片腕だという特徴で敵の兵士は次々に叫んだ。
「悪鬼だ。悪鬼が出たぞ」
アトラスを嘲る悪鬼と言う言葉が、いつしかアトランティスの人々の間に恐怖の象徴として根付いていた。敵はそのアトラスの異名に更に混乱した。襲いかかるアトラスたちに反撃する決意を定めぬまま、振りおろされる剣を防ぐために彼ら自身の剣を抜いた。剣を交わす音が戦場に広がっていったが、地に倒れる者の大半は敵の兵だった。敵の一部は逃げ去ったがアトラスは追わせなかった。
荒い息を整えながら次の命令を発しようとするアトラスの姿は泥と汗に加えて敵の血に染まって真っ赤だった。クセノフォンは敵が恐れた悪鬼という化け物がこの世に居るなら、アトラスのような姿だろうと思った。
第二部から、今回のエピソードに登場するストカルの説明です。
『伝説の昔、アトランティスの大地にストカルという名の神々の寵愛を受けた勇者が居たという。平和の中で過ごしていたストカルの部落の者たちが、敵対する部族の奇襲にあい、ストカルを残して皆殺しにされた。ストカル自身も腕を失うという重傷を負いながらも、復讐に凝り固まり、仲間を殺した者たちを、一人、また一人と殺害した。敵の部族を女子どもまで含めて皆殺しにし終わった時に、その姿は神々の寵愛を受けた勇者ではなく、憎しみと怒りに狂って姿も心も悪鬼に変貌した。狂ったストカルの刃が平和な人々にまで向いたため戦の女神がこの悪鬼を誅した。彼の死後、パトロエの剣ニメーシの慈悲で元の人間の姿に戻り、アトランティスのいずこかの地にニメーシと共に葬られているという。』




