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アトラスの思い

 アトラスたちは自分たちの背負い袋に食料を補充し、残りは全て焼いた。最後に数十のワイン壺を叩き割って、ここでの仕事を終えた。アトラスたちは長居するつもりはない。アトラスは数人の物見を物陰に伏せさせたあと、湖の北岸に沿って歩き始めた。

 間もなく空も白んで景色は色を取り戻した。前方には深い森があって二百の兵が身を隠すのにちょうど良い。右手の方には湖の対岸に村が見える。土地の人々はその小さな村を王妃のナクミラ・スタジールと敬愛を込めて呼んでいる。

 背後に隊列をなして続く兵たちの中に、その村を熱心に眺める者たちが居た。振り返ってそんな兵を眺めたアトラスに、クセノフォンが説明した。

「あの村に家族が居る者たちがおります」

「そうか」

 アトラスの返答は短い。入り乱れる思いを言葉にして紡ぎ出す事が出来ない。こんな時、アトラスは無意識に右手の指先で左胸を撫でる。その甲冑の下にはエリュティアが彼に託したお守りを身につけ続けている。

 船はなくとも湖の畔をぐるりと巡れば、半日であの村に着く。以前、兵士が家族に会う機会があったのは一年前、運悪くその時に機会を失った者は、二年以上も家族に会えぬまま、命がけの戦場を転戦してきた。そして、村には既に亡くなった兵士の帰りを待つ家族もいるだろう。

 アトラスは兵士たちの目をそんな景色から隠すように、森の奥へと入り、この夜の宿営地と決めた。兵たちが宿営の準備を整えるのを待って、アトラスは兵士たちに語りかけた。

「よいか。我らに食料を焼き払われた敵は飢え、王都カイーキの包囲を解いて撤退するかも知れぬ。我らはまずそれを待つ」

「我らが王よ。王妃のナクミラ・スタジールも近うございます。足の達者な者を使わせば、何かの知らせをもたらしてくれましょう」

 兵士の言葉に指揮官のクセノフォンも頷いていた。出来るだけ情報を集めるというのは戦術上の常識だった。しかし、アトラスは即座にそれ否定した。

「いや。いかん。我らはまず集積所に来る敵の様子を見る」


 物資の集積所近くに潜ませていた物見が戻ったのは、明くる日の朝だった。

「早いな」

 それがアトラスたちの印象だった。敵はアトラスたちが糧秣の集積所を立ち去ったあと、月が中天に差し掛かる深夜には現れたという。敵兵は夜明けまで集積所に留まって、もはやそこには居ないアトラスたちを探し求めたり、焼き払われた物資の状況を確認していた。夜明けと共にその兵の数を確認すれば千人近い。

 報告を聞いたアトラスはクセノフォンに尋ねた。

「どう思う?」

「敵兵の士気は高くなかった。そんな兵を即座に纏めて送り込んできたのは、よほど戦慣れした将が居るようです。ゲルエナサスとか申す男でしょうか」

 アトラスはその言葉に頷きながら物見に尋ねた。

「その敵はどうしている」

「既に立ち去り、今は一人も残っておりません」

王都カイーキの包囲を解いて、北へ向かったか?」

「いえ。元の陣へ戻ったようです」

「敵は王都カイーキへの総攻撃の決意を固めたか。では、敵の包囲の様子も探らねばなるまい」

 アトラスが当然の事を言った時、兵士たちの表情に不満と不審の色がうかがえた。もし、アトラスが昨日に兵士の提案を受け入れていれば、王妃のナクミラ・スタジールの様子と同時に、王都カイーキを包囲する敵の様子も探ってくる事も出来たに違いない。

 アトラスは改めて王都カイーキの様子を探る物見を出すように命じた。それも、湖の北岸に沿って進み、敵の状況と同時に、城壁に味方の軍旗が翻っているか確認せよと命じたのみだった。

「我らが王よ。物見なら湖の南を通り、王妃のナクミラ・スタジールを通った方が王都カイーキに容易く接近で来るかと……」

 クセノフォンの提案をアトラスは短い言葉で否定した。

「くどいぞ」

 まるで、王妃のナクミラ・スタジールを避けよという自分の判断の誤りを認めたくないと言わんばかりの態度に見える。


 その夜、アトラスたちの宿営地には重苦しい雰囲気が漂っていた。王都カイーキを包囲する敵が総攻撃に移る可能性があり、陥落すれば兵士の家族を含めて人々の命も危うい。アトラスは兵士たちに漂う雰囲気を振り払うために言葉をかけねばならなかった。

「よいかっ、我らが聖都シリャードを攻めたときのことを考えてみよ。十倍の兵でも攻めあぐみ、陥落させるまでに一年以上も要した。今の王都カイーキには、フローイ軍の正規兵に加え、我らの本隊も加わって千の兵が居る。三千の敵で攻め落とせるはずがないであろう」

 アトラスの言葉にはいくつかの誇張がある。城壁にかかげられた旗の中にルージ軍の旗があるかどうかは確認できていない。本隊を率いて行ったテウススたちが敵の包囲を破って王都カイーキに入ったかどうか、確証はないのである。

 しかし、今のアトラスには王都カイーキの中にいる家族を思う兵たちにそんな言葉をかける事しかできない。言葉は空しく、アトラスの思いも迷いから覚めない。


 明くる日の早朝、王都カイーキを包囲する敵の様子を探らせにやった物見が無事に戻って告げた。

「敵は包囲を継続しております。攻撃も退却も、動く気配を感じさせませぬ」

「やはり、北に敵の別働隊が居て補給の心配はないと言う事か」

 クセノフォンの言葉に、アトラスは話題を変えて物見に問うた。

「我が軍旗はどうであった」

「フローイ軍を示す緑ばかり、我が青紫の旗は見かけませなんだ」

「テウススたちも王都カイーキに入れていない公算が高いと言う事だな」

 うつむいて考え込むアトラスにクセノフォンが問うた。

「どういたしましょう」

「今しばらく、様子を眺めねばなるまい」

 ここで機会を待つというのがアトラスが下した決断だった。しかし、クセノフォンは別の提案をした。

「王よ。対岸の村なら、身も隠せ、油断する敵の側面を突くことも出来ると兵たちが申しております」

 ここに居るより敵との距離が近く、敵の動静を探りやすい。村人たちはフローイ国の民か、アトラス配下のギリシャ兵の家族で信頼もおける。戦術上、絶好の宿営地に見える。

「いや、いかん。絶対にいかん」

 普段は配下の者の進言に素直に耳を傾けるアトラスが、この時は即座に拒絶した。彼の口調の激しさに、クセノフォンはそれ以上言葉を続ける事は出来なかった。


 この日も何も出来ないまま夜が更けた。普通なら王にふさわしい幕舎を設営するのだが、山越えで余計な物資は持参していない。アトラスは兵士と同様に食料の入った布袋を枕にマントにくるまって寝る。

 寒さや飢えを兵と共に味わえと言うのが、父が彼に与えた教えで、アトラス自身も兵と同じ生活をするのは気にならない。ただ、十数人づつに別れて小さな焚き火を囲んで夜を明かす兵士たちは、突然に焚き火の明かりに姿を見せて気さくに声を掛けて行くアトラスに驚かされる事がある。

 今も、十数人の兵士が小さな焚き火を囲んで世間話に興じていた。

「しかし、王妃のナクミラ・スタジール大丈夫だろうか。敵に襲われて住民が皆殺しになりはしないか」

「怖い事を言うな。俺の家族もいるんだ」

「長く離れていたが、俺の子どもがよちよち歩きをしているはず」

「息子か、娘か、どっちだ?」

「いや。俺が村を出る時には、まだ妻の腹の中だった。すくすく育っていればどちらでも良いさ」

「こんな近くに居るのに、何も出来ないのがもどかしい」

 話をしているのは王妃のナクミラ・スタジールに家族が居る兵士たちだった。しっかりとした城壁に守られた王都カイーキと違い、城壁もなく守る兵士も居ない。この時、アトラスに気づいて兵士たちの表情から笑顔と会話が消えた。

 アトラスは兵士たちの不安を振り払うように言った。

「心配するな。ここに来るまでに眺めたであろう。漁師が舟を出している気配があった。村人は平穏な生活をしていると言う事だ。敵も意味もなく民を傷つける事はすまいよ」

 アトラスはそんな言葉をかけたが、心の中に彼自身が説明できない思いがわだかまっていた。


 この夜、アトラスは兵士たちから少し離れた焚き火の側で、マントにくるまった身を地に横たえた。待つだけの時はアトラスの心を惑わせていた。

 アトラスは一人呟いた。

「何のための戦だ……」

 望郷の思いはアトラスも同じだが、兵士たちにとけ込めない孤独が募った。故郷が海に沈んだという知らせは受けていても、故郷と時と距離を置くにつれて、否定したい知らせは、アトラスの記憶の中で薄れていた。

 夜空を眺めて思い起こされるのは母と妹、亡くなった父や兄の笑顔だった。そして妻と共に帰国する故郷の海や山の香り。

 気づいてみれば、森の中に獣の声が響く事がある。風に撫でられてざわめく木々の葉。アトラスの周囲は生あるものに満ちていた。風のような自然現象にさえ精霊の息吹を感じる。アトラスは一人ではなかった。誰にも頼れない孤独感でさえ、アトラスがこの世界の一部だと教えてくれた。

 夜空には混沌の裂けヒュリシアル・レクスが横切っていた。現在の私たちが天の川と呼ぶ銀河の光だった。

 生きとし生けるものはあそこから生まれ、あそこに戻っていく。一人の人間としてのアトラスも、その人生も、やがては静寂の混沌ヒュリシアンの調和の一部になる。

 この時、アトラスの心を惑わせていたいくつもの不安や怒りや不満、運命への恨み、そう言うものが崩れて融けて一つになった。そこから一つの思いが精錬されて浮かび上がってきた。

「私はアトラス。他の誰でもない。私はこの世界の誰かに動かされながらも、自分の道を歩く」

 アトラスはこの混乱の世界で自分の道を歩もうと決心した。

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