小さな勝利
間もなく、アトラスは更に見晴らしの良い場所に到着した。大きな一枚岩が、宮殿のテラスのように山の南の斜面に張り出していた。十人ほどの人が立てる広さがあって、そこからの眺めが良い。
アトラスは身をかがめながら兵にも命じた。
「身をかがめよ。敵に姿を晒してはならぬ」
アトラスたちから眼下の敵がよく見える。逆に敵からはアトラスたちの姿は木々に隠れて見えにくいだろうが、注意すれば気づくかも知れない。まだ、敵に存在を気づかれたくはない。
兵士の一人が、斜面に近い土の地面に何かの印のように置かれていた石に気づいて言った。
「これは何だ?」
アトラスは振り返って、石を持ち上げようとしていた兵士を叱責するように命じた。
「それを動かすな」
言葉の激しさに、他の兵士や指揮官のクセノフォンまで驚きの表情を見せた。アトラスは言葉を継いだ。
「フローイ国の王子、グライス殿の墓標だ」
ネルギエの戦場でアトラスの左腕を奪った男。王都の攻略戦では、アトラスと一騎打ちをし、傷ついた身を引きずるようにしてここまで来た。戦の後、遺体は眼下に見える湖の畔に埋葬され直したが、その石はグライスが妻に見守られながら亡くなった記憶を刻む。
アトラスはこの場所に記憶があった。フェミナがアトラスをこの地に誘った。あの時の彼女の言葉を覚えている。
「私と息子には、アトラス様にとって、その価値があることを理解いただきたいのです」
アトラスは剣の束を指先で撫でた。はめ込まれていたアクアマリンは約定の品としてフェミナに託した。
「私はフェミナ様と、そのお子を守ると約束したのだから」
そう呟きながらも、その母と子から父の命を奪ったのが自分だという罪悪感があった。アトラスは決心したように呟いた。
「ここに留まるわけにもゆくまい」
「とりあえず、物見を先行させます」
道を下って行くにしても、先の様子を探っておかねばならない。そのクセノフォンにアトラスは頷いて同意した。
戻って来た物見の報告は、アトラスたちを喜ばせると共に驚かせもした。
「それほどの量なら、敵は兵を一月は養えるでしょう」
報告を評したクセノフォンに、アトラスは敵の意図を読み解いて言った。
「食料をその一カ所にため込んでいるのは、長期戦の覚悟を決め、そこがよほど安全な隠し場所だと確信をしている。そして、物資を調達する補給源が遠く、補給路にも不安があるということだ」
アトラスの言葉に頷きながらも、クセノフォンは首を傾げた。
「それほどの蓄えをする場所に、護衛の兵が僅か二十とは」
「普通の武人に、よもや山の奥から二百の山賊が沸いて出るとは思うまい」
ひょっとしたら、アトラスが敵の立場でも、行き止まりの道の尾根を越えて敵が現れるなどと想像もつかず、多くの衛兵を置くく事はするまい。
クセノフォンが言った。
「しかし、敵の食料庫を襲った後は? 敵は怒り狂って我らに襲いかかって参りましょう」
「まずは、敵の糧秣を焼き払うことを考えよう。後の事は逃げてからまた考えるさ」
「逃げるので?」
戦うつもりではなかったのかと首を傾げるクセノフォンに、アトラスは朗らかに笑いながら言った。
「勇敢な奴だな。二百の兵で三千の敵を相手にするのか? 私は嫌だぞ」
もし、この場にフローイ王女リーミルが居て、アトラスの笑顔を眺めれば、兄のロユラスを思い起こして眉を顰めただろう。今のアトラスは、亡くなった兄のロユラスが、悪巧み隠す時の善良そうな笑顔を浮かべていた。
アトラスは言葉を続けた。
「とりあえず、敵の指揮官のことがわかるだろう。食料を焼き払えば三千の敵は飢える。敵の指揮官が慎重なら包囲を解いて退却する。王都を落とす決意が固ければ、損害を覚悟で総攻撃をかけて王都を落とし、その物資を奪おうとする。やっかいなのは……」
「やっかいなのは?」
「混乱しなければ、後方に別の大部隊が居て、新たな物資を送り込んで包囲を継続する」
「そんな大部隊が?」
「これほどの兵力。これはフローイ国内部の領主の叛乱ではあるまい。敵はレネン国かヴェスター国。どちらにせよ、これは国と国の戦争という事になる」
戦場慣れしたクセノフォンは、アトラスの意向をくみ取りながら、兵に下すべき命令を組み立てて言った。
「それでは、兵はここで休息を取らせ、夕刻に出立。麓近くで隊列を整え、夜が更けるのを待って敵の食料庫を襲うということで」
アトラスは同意して頷きながら、兵士たちに呼びかけるように言った。
「良いか。それまで我らの存在を敵に気づかれぬよう注意せよ。」
アトラスが直接下した命令は、山道に長く並んだ兵の前方から後方へと申し送りされるように後尾まで伝わった。
彼は笑顔で命令を付け加えた。
「目の前の敵は二十。我らは二百。我らの勝利は間違いない。刃向かってくる敵兵は斬れ。しかし、逃げる敵は追うな。我らの目的は敵の糧秣を焼く事だ。そして、その焼き払う時……」
その夜、天候はすっかり回復して、雲のない空に月が見えた。月の光だけで人影が確認できるほどの明るさだった。月の明かりの下、アトラスは隊列を整えさせた。
闇の中にかがり火が見える。物見の兵が探ってきた敵の物資の貯蔵場所に間違いがない。アトラスとクセノフォンに率いられた二百の兵は、森の木々の闇を背景に身をかがめながら、そっとその明かりに接近していった。ちらほらと敵兵の姿が見えるが、月明かりの下とは言え、かがり火の明るさに慣れた敵には、闇を背にしたアトラスたちを判別する事は難しい。
一呼吸で駆ける事が出来る距離に迫った時、アトラスは剣を抜いて叫んだ。
「裏切りだぁ。味方が裏切ったぞ!!」
アトラスは予め兵に命じた言葉を、彼自身が叫びながら敵の姿を目指して切り込んでいった。それが合図だった。
「裏切りだ。味方の裏切りだぞ」
兵士たちは口々に裏切りを叫びながらアトラスの後に続いて行った。
アトラスは口には出さなかったが、余りにも少なすぎる敵の警護の兵がただの囮で、もっと多くの兵が居るのではないかと危惧していた。しかし、それもただの不安に終わった。物見の兵は忠実に任務を達成し、報告通り、この食料庫の警護は二十人ばかりだった。間もなく、闇の中響いていた敵の驚きや恐怖、苦痛の声も途絶えた。
物資が炎上する中、その明かりでクセノフォンがアトラスを見つけて報告した。
「敵の死体は七体。残りは逃げ去ったようです。我が方は負傷者が数名」
「逃げ去った兵が多い。敵の士気は低い」
敵が自分の任務の重要性を理解していれば、何とか物資を守ろうとしただろうが、アトラスたちの襲来を知り、恐怖に駆られて逃げた者たちが多いということである。逃げた者たちは、味方の陣に逃げ帰って事の次第を告げる。上手く行けば、敵将は味方に対して裏切りの疑心暗鬼に陥る。敵将が冷静であっても、裏切りの噂は敵陣に広がって兵を動揺させる。敵の士気が低ければ更に効果が上がる。
もう一つの危惧があったとすれば、数日来降った雨で、濡れたかも知れない物資を焼き払えるかという事だが、目の前で燃え上がる炎を見ると、その不安も吹き飛んだ。蓄えられていた物資は、食料のみではなく多量の矢の束や、火攻めに使うつもりだったろう数多くの油の壺など、全ての物を炭に変える燃料には事欠かなかった。夜空に燃え上がる炎の明かりは、敵陣からも見えるだろう。
異変に気づいた敵将が物見を出し、こちらから逃げた守備の兵士の報告から事態を察して、軍勢を送ってよこしても、物資は既に焼けてしまっているし、アトラスたちも逃げ去っている。ただ、逃げ去る前にまだすべき事がある。
「荷車に残った物資を少し積め。それをいくつか街道の北に出して焼いておけ」
意図が分からず首を傾げたクセノフォンにアトラスが説明した。
「敵の裏切り者が、この物資を運ぼうとして間に合わず、焼き捨てて北へ逃げたように見える」
アトラスたちは東の湖の畔にある森へと身を潜めるつもりだが、敵の目をその東から北へ逸らすというのである。クセノフォンは笑いながら、アトラスの知恵を山賊に例えて評した。
「さすがは、我らが親分は悪知恵が回る」
「私の兄ロユラスには及ぶまい」
アトラスも笑ったが、この小さな勝利に残念な事があるとすれば、敵の捕虜が得られなかった事だろう。捕虜を捕らえていれば、敵の所属や状況などを聞き出せたはずだった。ロユラスは王位継承権から外れているという気安さから、商人の身なりでアトランティス全土を旅して回っていた。もし、ロユラスがいれば、敵の死体が身につけた甲冑の様式から、レネン国に併合されて消滅したアルム国の兵士だと見当を付けていたかも知れない。
もしよろしければ、過去のエピソードも読んでくださると嬉しいです。
○フローイ国王子グライスと妻の永遠の別れ 「反逆児アトラス」第二部173話「十七歳 最後の約束」
○アトラスとフェミナの約束 「反逆児アトラス」第二部446話「若き王母の願い」




