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山中の彷徨

 敵の背後を突くべく山岳地帯に踏み込んだアトラスは、心の中では自らの判断の甘さを後悔しながら、兵に動揺が広がるのを恐れて口からは勇ましい言葉を吐いていた。

「良いか。あと五日だ。五日でこの山岳を抜けてグラフラの町に着く」

 グラフラの町というのは、フローイ国を南北に貫く街道にある町で、そこを押さえれば、今王都カイーキを攻めているはずの敵の補給を絶つ事も出来、反乱軍に混乱を引き起こせるに違いない。その混乱に乗じて王都カイーキの兵も攻撃に転じるというのがアトラスの想定だった。ただ、その行軍も進まない。

 クセノフォンが詫びた。

「我らが王よ。すみませぬ」

「クセノフォン。そなたのせいではない」

 アトランティスの大地は繰り返し大きな揺れに見舞われていた。アトラスは既に多くの事を知り、彼自身も経験していたはずだった。アトランティス各地の沿岸部が巨大な波に呑まれ、フローイ国の北にあるラフローイ、マナフローイと呼ばれる巨大な島が海に沈んだ事も知っている。ゲルト国攻略後にシュレーブ国へ移動した街道が崖崩れで閉ざされた事も経験していた。

 彼は、その経験をこの山岳地帯に当てはめて考える事も出来たはずだった。今のアトラスが進むべき道は、過去のいくつもの大地の揺れで無数の倒木で塞がれていたし、山の斜面に刻まれた道は崩れて失われていた。

 アトラスは今になって呟いている。

「どうして、私は戻る決断をしなかったのか」

 山岳地帯に踏み込んだ最初の日に、アトラスはこんな状況になる事は予測できた。引き返していれば、テウススが率いた部隊の後を追って王都カイーキにも入っていられたろう。

「私は焦っていたのか?」

 早くエリュティアが待つ聖都シリャードに戻って彼女を安心させてやらねばならず、その後、彼女を連れてルージ島に渡って母と妹に会う。滑稽な事に、アトラスはルージ島が沈んだという知らせを受けていながら、その情報の真偽を受け入れられずにいた。

 高低差のある地形の中を道を失って低木や枝をかき分けながら歩く。体は疲労し、全身から流れる汗は衣類を濡らした。降り続く雨は、暑く火照った体を冷やしてくれるばかりではなく、雨よけのマントを重く濡らして兵の疲労を増した。

 アトラスは苛立ちを深めて言った。

「無用にせい!」

 先導役の兵士が、アトラスの前の草木をかき分け、斜面を登るアトラスがふらつかないように支えていた。その気遣いが、左腕のないアトラスには同情にも感じられた。ただ、すぐにいつものアトラスに戻って言った。

「いや、すまぬ。気にするな」

 疲労の中で苛立ちを深めているのは、アトラスばかりではなかったろう。兵士たちも口には出さないが、指揮官のクセノフォンやアトラスに不審の目を向ける事がある。三日で到着すると聞いていたソウソス川にたどり着けない。彼らは昼は山中をさ迷い、夜は足を伸ばして寝ることもできず、マントにくるまって樹にもたれて眠った。

 雨が止み、空が赤く変わっても、密に茂る木々に遮られて、どちらの方向に太陽が沈んでするのか分からない。


 ただ、その一行に蔓延しかけた不穏な空気も水が流れる音に導かれて収まった。

「これがソウソス川か」

 アトラスがようやくたどり着いた水の流れを指して尋ねた。雨が何日か降り続いた。川は増水しているはずだが、目の前の川は膝まで濡らせば渡れる深さである。降り続いた雨で増水した川を、どうやって兵士を渡らせるかというのはアトラスとクセノフォンの密かな悩みだったが、目の前の川は川幅は広くとも膝まで漬かれば対岸に徒歩で渡れそうだった。

 しかし、クセノフォンは眉を顰めて言った。

「ソウソス川にもいくつかの川が流れ込んで一つの川になります。その支流でなければ、ここはソウソス川のかなり上流かと考えられます」

 クセノフォンは、一行が進むべき方向を見失っているのかも知れないという意味を言外に込めた。アトラスもそれを理解した。ソウソス川はフローイ国を南北に貫いて海に注ぐ。その川も上流では東西に流れを変える。彼らが眺める川の向こう岸は、目指していた西の方向ではなく、南の方向かも知れないと言う事である。

 しかし、アトラスは決断した。

「ここで渡るしかあるまい」

 

 彼らは更に斜面を登り、いくつかの高低差を乗り越えたが、西に進めば必ず現れるはずの街道に出会わない。そして、一行はいくつかの峰を越えた後、斜面の眼下に湖を見つけて、初めて自分の位置を知り、想定のコースを大きく外れた事を認めないわけには行かなかった。

 峰から少し降りたところで、彼らは人の気配とも言える道を見つけた。道が麓から山へ分け入って、何処に行き着くともなく途絶える。たどり着いたのはそんな道だった。道は複雑に折れ曲がって、下る先は木々の向こうに消えて見えない。

 ただ、山道の南側は視界が開けて麓まで良く見える。湖の西には城壁に囲まれた都市が見えた。アトラスはここから眺める景色に記憶があった。眼下の都市は彼らの目的地になる王都カイーキに間違いはなかった

「この道はどこへ続いているのでしょう?」

 クセノフォンの問いに、アトラスは記憶を頼りに応えた。

王都カイーキの北東。湖の近くを抜ければ、すぐにあの敵と出くわす位置だ」

 アトラスは兵を率いて王都カイーキの北の街道にでて、敵の補給路を遮断し、敵の混乱を誘うつもりだった。その想定も大きく崩れた。


 南の麓を眺めれば、 王都カイーキが、その周囲から城壁の中まで一望の下に見える。そこに住む人々の表情まで判別は出来ないが、その姿で兵士と民の区別はついたし、彼らの動きから戦の緊張感まで伝わってきた。そんな距離感だった。

 そして、王都カイーキの周囲を眺めて、クセノフォンが肩をすくめてありがたくない光景を評した。

「ずいぶん多いですな」

 眼下に見える敵の事である。しかし、その口調に恐れはなかった。

「ひょっとすれば、テウススたちの増援も、あの包囲に阻まれて王都カイーキに入れずにいるやも知れぬ」

 反乱軍の数など、多くとも千を少し超える程度と甘く見ていたが、王都カイーキを分厚く囲む敵の兵士は、ざっと見ただけでその三倍はいるかも知れない。

 

「味方の兵は二百。いかがいたしましょう」

 クセノフォンの言葉に、アトラスは黙って兵士たちを眺めた。木々の間を抜け、山道に整列するともなく姿を見せていた。アトラスはその姿を眺めて笑いながら言った。

「なんとまぁ、酷い姿だ。山賊と変わらぬ」

 雨の中山の中を彷徨って、甲冑ばかりかマントも衣服から露出した顔も泥まみれだった。アトラスは言葉を継いだ。

「しかし、皆、勇者らしいいい顔をしている」

 兵士たちの泥まみれの顔の中で光る目に戦意を感じ取る事は出来ても怯えはない。兵士たちの多くはあの王都カイーキの中に家族が居る。戦に真剣にならざるを得ない。クセノフォンはその気負い立った気分をほぐすように言った。

「山賊と言えば、我らが王こそ、山賊の頭目に見えます」

 薄汚れているのはアトラスも同じだと言う。クセノフォンの反論に、兵士たちの中に笑いが広がっていった。

 しかし、アトラスはこの二百の兵で勝利のきっかけを作らねばならない。

(サレノスなら何と言うだろう?)

 アトラスは、実戦の戦術では、アトランティスに名が轟いた勇将の顔を思いだしたが、既に過去の人だった。

(ロユラス兄。貴方ならどう戦う?)

 ロユラスは僅か三千の兵で広大なフローイ国を屈服させる戦略を練り上げて弟のアトラスに託した。そのロユラスも既にこの世を去った。過去の激戦でアトラスは彼を導く人々の多くを失っていた。

 王都カイーキとそれを包囲する反乱軍を眺めて、アトラスはふと気づいて尋ねた。

「荷車は何処だ? 食料を運ぶ荷車があるはずだ」

 敵兵の動きを見れば飢えている気配はない。兵士たちに滞りなく与える食料がどこかにあるはずだが、アトラスたちの視界には、兵士たちが休む幕舎はあっても、食料を備蓄している場所がない。

 見晴らしが利く範囲に、あるはずのものが見つからない。

「見つからないとすれば、敵の食料庫はこの道を下ったところだ」

 アトラスの判断にクセノフォンも同意した。

「間違いないでしょう」

 木々の幹や枝の隙間からの視界は利いても、足下を辿って眺める西の麓は、木々が密に茂って見えない。そこに敵の三千の兵を養う食料庫がある。


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