王家の誇りとエリュティアの誇り
この日、ハリエラナは町の中の散策に出かけたエリュティアに同行する事に同意した。エリュティアは舘で静養する日々が続き、体調がどの程度回復しているか知りたかったのだろう。具体的にと問われれば説明しがたいが、ハリエラナはエリュティアが少し見ぬ間に自我を持った大人の女性に変わった事を感じ取っていた。彼女は手際よく手配して、エリュティアにハリエラナ自身を含む十人の侍女団を伴わせ、五人の兵士の護衛を付けた一行を編成した。
ハリエラナは町の中で民の変化を知った。エリュティアの存在に気づいた民は笑顔を浮かべて、エリュティアに手を振って応えようとした。口喧嘩をしていた露天商と客でさえ、エリュティアに気づいて喧嘩を止めて笑顔を浮かべた。もし、ハリエラナがエリュティアの傍らで王家の威厳に踏み込んでくる者たちに厳しい視線を注がなければ、民はエリュティアの健康を気づかう言葉を親しく投げかけ、エリュティアも気さくに言葉を返していただろう。
アトランティスに君臨したシュレーブ国王族の血筋の誇りを守りたいハリエラナも、その雰囲気の心地よさを感じ取っていた。エリュティアと民の心に距離はなく、民がエリュティアに向ける敬愛には濁りがなかった。
ハリエラナの心に疑問が湧いた。
(私たちは、何を誇りとして受け継いでいけばいいのでしょう)
振り返って考えれば、彼女が守ろうとしているのは、シュレーブ王家の威厳だった。しかしそのシュレーブ国も今は分割されて他国に吸収された。亡国の姫エリュティアはルージ国王アトラスに求められて王妃となった。その経緯はその場に立ち会っていたデルタスから聞き及んでいる。
ただ、エリュティアはルージ国の誇りを振りかざす気配はない。エリュティアは民に溶け込みながらも民の敬愛を集める存在感を放っていた。前方に見える十字路に近づくにつれて、町の雑踏の中から伝わってくる声の一つが判別できるようになった。
「みずー、水はいらんかぁ」
荷車に瓶を積んで、聖都で生活する者たちが飲料や食事を煮炊きに使う水をルードン河から運んで売る。水屋と呼ばれる貧しい商人の売り声だった。
その男の売り声に少女の声が混じって響いた。
「みずー、水はいらんかぁ」
エリュティアとユリスラナはその声の主を予感して顔を見合わせて微笑んだ。何も出来ないと無力感に悩んでいたエリュティアに、生きる指針を与えた二人だった。その二人にとってエリュティアとの再会は突然だった。十字路に立ち止まって驚いて笑顔を浮かべた二人に、エリュティアが親しげに二人の名を呼んだ。
「やはり、ガウススとチッチナではありませんか」
並んでいれば仲の良い父と娘に見えるが、孤独な二人はこの聖都で出会って親子になった。
「仲良く暮らしているようですね」
微笑むユリスラナに、ガウススは眉を顰めて近況を語った。
「今はルードン河の血の臭いがするようです。死臭がない上流で水を汲んでいます」
「死臭ですって?」
仲の良い親子の雰囲気に似つかわしくない言葉に驚いて問うエリュティアに、チッチナは父に寄り添い、ガウススは娘の手を握って答えた。
「ヴォロルやニナロスから.ルードン河を渡って逃げてこようとする者たちが居ます。グラト国が各地で兵をかき集めてラルト国との戦場に送っているのです」
「戦が始まったというのですか」
「そのようです。対岸に渡った渡し船や漁師の船は壊されて、民がここへ逃げる方法はなくなりました。チッチナも故郷に帰してやりたいのですが、それも出来なくなりました」
「この子の故郷はルードン河の向こうですか」
「幼くて定かな村の名は覚えていないようですが、戦の中、あちこちと父母と共に彷徨って母を失い、この聖都にたどり着いた後、父親も亡くしたと」
少女が経験した悲惨な運命と向き合うように少女を眺めたエリュティアに、少女は思い詰めたような視線を向けて呼びかけた。
「エリュティア様」
エリュティアは少女の前に片膝をついて視線の高さを合わせて尋ねた。
「なあに?」
「どうか、河の向こう岸の人たちが幸福になれますように」
少女の願いは自分の事ではなく、誰か他の人々の事だった。
「分かりました。力を尽くすわ。だから貴女もお父さんと微笑みながら生きて」
エリュティアは静かに頷いて立ち上がった。立ち去っていく親子が、時折別れを惜しむように振り返ったが、無力なエリュティアは幼い少女との約束を果たす目処もなく、二人と視線を合わせる事が出来なかった。
「みずー、水はいらんかぁ」
親子の売り声が路地の一つに入って消えた。
エリュティアは立ち止まったまま考えていた。彼女は夫アトラスがフローイ国の内紛を終わらせて帰ってくるまで、ここで待っているという約束を守っていた。しかし、それも共にアトラスの生まれ故郷のルージ島へと渡るため。彼女はルージ島が海に沈んで失われたという知らせに目と耳を塞いでいた。
その間にも北はヴェスター国の圧政と住民の蜂起。南はグラト国とゲルト国の新たな戦。収まったはずの戦火が形と場所を変えて燃え広がりかけていた。
旧王都が敵に陥落した後、各地に身を寄せていた旧臣たちは、聖都に居たエリュティアの下ではなく、今のこの国の政治の中心になったパトローサに戻った。家臣たちがエリュティアの政治的な能力など認めていない証拠だった。
彼女は呟いた。
「私は待っているだけ? いえ、何かをしなくては」
彼女がここに留まっている今も、夫のアトラスは剣を手に命をかけてけて戦っているのだろう。
彼女は決意して言った。
「ハリエラナ。私はパトローサに戻ります」
ハリエラナはその言葉に頷いて受け入れた。しかし、彼女はこの聖都の地で過ごすエリュティアの姿に望ましいと考え始めていた。彼女をパトローサに戻せば、どろどろとした政治の世界に巻き込まれる。
パトローサに戻るルートは二つある。エリュティアを人足が担ぐ輿に乗せて陸路を行く。危険は少ないが、時間がかかり、体調が回復しきっていないエリュティアが、狭く揺れる輿の中で疲労するかも知れない。もう一つは船に乗ってルードン河を遡る。事故の危険性はあるが、この晩秋に吹く西風はエリュティアを二日もあればパトローサへ運んでくれるだろうと思った。彼女は船旅を選んでエリュティアの許可を求め、船の手配をした。
エリュティアが聖都を離れるという情報は、瞬く間に聖都の中を駆けめぐった。
明くる日、館の周囲をエリュティアに聖都に留まってくれと懇願する人々が厚く囲んだ。人々懇願の声は塀を越えて館の中にも届いていた。エリュティアは黙って旅装を整え、ハリエラナたちは彼女に従って舘の門を一歩出た。集まった人々はエリュティアの姿を見て息を飲んだ。彼女の表情からいつもの穏やかな微笑みは消え、まっすぐに前を見つめる視線に、固い意志が籠もっていた。
いつしか懇願の声は薄れ、民衆は黙って彼女に道を空けた。彼女はハリエラナたちを引き連れて聖都の南門を抜け、ルードン河の入り江の桟橋へと足を運んだ。彼女に続く人々の列に切れ目がなかった。
入り江にハリエラナが乗ってきた元シュレーブ王家の船が停泊していた。聖都が解放された後、入り江に戻って来ていた漁師の船は見かけない。ガウススの言葉の通り、避難民たちを運ぼうとして対岸で破壊されてしまったという事だろうか。
「エリュティアさまぁぁぁぁ」
船に乗り込んだエリュティアに、川辺に集まった人々の中から彼女の名を呼ぶ者が現れ、その声は人々の間に広がっていった。エリュティアは表情を崩しては居なかったが、ぎゅっと握りしめた拳が震えていて、人々がエリュティアに寄せる願いの重みを感じているようだった。
甲板の下の漕ぎ手たちの左右十本の櫂が水面を叩き、船は入り江からルードン河の緩やかな流れへと漕ぎ出した。ふと仰ぎ見れば、マストの上に今は滅んだシュレーブ王家の大きな旗が翻っていた。
「姫さま。いえ、王妃様には、勝手ながら……」
船長は無断で旗を掲げたという。その旗が示す王家の血筋を引く者はエリュティアだけ。船長は旗を掲げた意図を語った。
「対岸にいる者たちも、ここにエリュティア様が健在だと言う事を知れば、元気づけられるでしょう」
船長の言葉の通りだった。対岸の土手にいた一人の男がこちらに気づいた素振りを見せたかと思うと、背を向けて土手の下へ姿を消した。間もなく十数人の人々が土手に姿を見せてこちらを眺め始めた。声は届かないが、何かを叫んでいる者も居れば、跪いて祈りを捧げる姿勢を取る者たちもいる。
風は帆を膨らませ、水夫が漕ぐ櫂の音が響いていた。風が止まれば、水夫たちは船の舳先に繋いだロープを川岸を歩いて曳く。そうやって、エリュティアを乗せた船はルードン河を遡っていった




