ビメルサネとの再会
アトランティスの大地が揺れた。いくつかの小さな揺れの後、人々の足下がふらつき、ルードン河の川面が波立つほどの揺れが起きた。しかし、人々はこれが何度目の地の揺れか数えるのは諦めた。地が揺れる都度、人々はこれが邪悪な冥界の神が人々の運命をあざ笑う声なのか、大地の神が人々に発した何かの警告なのかを考える。神々と人々の距離が縮まった。
不安に駆られた人々が、巡礼者として聖都を訪れる姿が増えた。アトランティスの国々を統率する政治的な雰囲気は薄れたままだが、聖都は人々の信仰の中心地として蘇りつつある。
そんな中、一人の貧しい巡礼者の身なりの若い女が舘の門に現れて、エリュティアへの取り次ぎを求めた。たまたま居合わせたハリエラナが驚いて、庭園の東屋にいたエリュティアに引き合わせた。
「まぁ。ピメルサネではありませんか」
女は貧しい身なりを装っているが、コモラミアの地の領主の娘で、ゴダルグの領主の息子エルグレスに嫁いだ。彼女はその出自らしい礼儀正しさで答えた。
「お久しゅうございます」
この女性はエリュティアの命の恩人とも言える。彼女は敵に包囲されたリウダの町からエリュティアを逃がすための身代わりになった。振り返れば二年近い過去の記憶になる。彼女はそれ以降の事を短く語った。
「リウダの町の包囲が解けた後、夫の実家のゴダルグの地で夫の帰りを待って過ごしておりました」
「エルグレス殿は?」
「弟君のお二人と聖都の守りについているのかと考えていたのですが」
ピメルサネの言葉にエリュティアは残念そうに首を横に振った。ピメルサネは寂しげに頷いてエリュティアの言葉を受け入れてから、話題を変えた。
「今日は養父の代理で参りました」
「養父というと、ゴダルグのストラタス殿?」
「はい。シュレーブ王家にもっとも忠実な方です」
「代理の用件というのは?」
「ヴェスター国の圧政で民が苦しんでいます。畑は戦火で焼かれ、僅かな食料も長い戦の中でヴェスター軍に徴集されました。そしてヴェスター国に併合された後も、重税と過酷な労役。民は今年の冬も越せないのではと嘆いています」
シュレーブ国が分割された後、ヴェスター国に併合されたゴダルグの民の過酷な状況については、先日、リシアスから聞いたばかりだったが、ピメルサネ自身が目撃し体験した状況は更に過酷だった。あの時、エリュティアはリシアスの求めに応えて人々を救う手段を講じる事は出来なかった。今、何も出来ない惨めさが蘇った。エリュティアは話題を変えるように言った。
「どうして、私のところへ?」
「レネン国の使者の方が、我が舘にお立ち寄りになった時に、エリュティア様に事情を話しておすがりしてはどうかと」
エリュティアの元を訪れたレネン国のデルタスの使者が、リマルダやゴダルグの地でエリュティアの名を出している。ひょっとしたら、帰国途上の各地で彼女の名を囁いて帰ったのかも知れない。
(デルタス兄さまは、この私に何かをしろと言うの?)
幼なじみの親しみを込めてデルタスの顔を思い起こしたが、彼の意図は読み解けない。ピメルサネは言葉を継いだ。
「養父も、もともとお歳を召したうえ、二人の息子は亡くなり、我が夫は行方知れず。力を落としておられます。願わくば、エリュティア様にもご助力を」
ピメルサネの言葉に、エリュティアは頷く事しかできない惨めさを感じていた。
「夫はヴェスター国王とも親しい間柄。フローイ国から戻って来しだい、統治について申し入れをいたしましょう」
言い訳じみた言葉はピメルサネの心に響いては居ないだろう。彼女も今のエリュティアが無力な事はよく知っている。
エリュティアは話題を逸らした。
「これからどうするのですか?」
「巡礼の姿で参りましたが、関所で足止めされました。民が国境を往来する事は禁止だと。輿入れの時、実の父からもらった短剣でコモラミア領主の身内だと証明して関所を抜けました。今は養父が居るゴダルグに戻る事も出来ません。この地で夫の消息を探して回ろうと存じます」
ピメルサネはそれだけ言うとベンチから立ち上がり、エリュティアに一礼して背を向けた。エリュティアはそんな彼女を引き留める事が出来なかった。
エリュティアがピメルサネの後ろ姿から目を逸らした時、ふと園丁の一人と目があった。園丁はエリュティアを観察していたかのような鋭い視線を慌てて逸らして庭木の水やりを始めた。気づいてみればエリュティアの視線の範囲に四人の園丁が居て、その内の二人は東屋の会話が聞き取れる位置にいて庭木の世話をしている。レネン国から来たとは言え、レネン国の気配を絶っている男たちだった。
東屋に残された女たちの中、ハリエラナもじっと考えていた。記憶を遡れば、これから夏が始まる頃だった。三年にわたって続いた戦も終わり、解放された聖都を訪れたレネン国王デルタスは、帰国の折に何かのついでのように気さくにパトローサの王宮のハリエラナの元を訪れ、エリュティアの安否を告げた。その時、彼はまるで予言者のように言った。
「この地は再び乱れ、民の怨嗟と血にまみれる」と。
今のエリュティアの周囲で、彼が語った状況が繰り広げられている。
この明くる日、デルタスの予言を更に裏付ける知らせが、意外なところからもたらされた。
その日も、庭園の東屋で過ごす事を望んだエリュティアのために、ハリエラナは季節に配慮した衣類を整えさせ、ユリスラナだけでは不充分だと言わんばかりに、彼女自身がエリュティアの話し相手を引き受けた。
ただ、そんな彼女の心にデルタスの言葉がわだかまっていた。いつしか会話が途絶えて物思いにふけるハリエラナはエリュティアの声で我に返った。
「あれはヒクズスではありませんか」
エリュティアは裏木戸から出て行こうとする行商人の姿を見つけて、ユリスラナに命じて呼び止めた。ハリエラナは眉をピクリと動かすに留めた。エリュティアの変貌ぶりには驚かなくなったが、王家の誇りを守ろうとする時、この男は一国の王妃と面と向かって話が出来る身分では無かろう。
男は被り物を取り、指先で髪を整えた。これが彼が貴人に接する礼儀だった。
「エリュティア様にはお久しゅう存じます。エリュティア様のご様子を伝えてやれば、町の皆も喜びまさぁ」
侍女を仲介せず、エリュティア自身が彼に声を掛けた
「お仕事の様子はどうなの?」
「さっぱりでさぁ。往来が自由になったとは言え、聖都の中は、まだ落ちつかねぇ。買う者もいなけりゃ、私が売るものもありませんやね」
彼は小間物を商っていたが、戦の中で元手も無くした。何か欲しい物はないかと尋ね回って、希望の物を手に入れてくる。それが戦の中の彼の商売になった。町の中で様々な噂話を拾って王家の舘の使用人たち相手に披露して一片のパンに与る事もした。
ユリスラナはそんな噂話の客とも言える。ユリスラナが首を傾げて尋ねた。
「でも、町の中はずいぶん賑やかになっているようだけど」
「賑やかになったのも、流民がなだれ込んできてるからでさぁ。残念だが、彼らは貧しくて私の客にはなってくれません」
彼の言葉に今度はエリュティアが首を傾げた。
「流民?」
「ご存じないのですか? 貧民窟が、また賑わってまさぁ。ラマカリナやラマリスにイリロス、たぶん、他の地方でも、ヴェスター国の圧政に叛旗を翻した者たちが、ヴェスター国の役人を殺し、軍の駐屯地を襲って武器を奪っているとか。その見せしめに、ヴェスター軍に皆殺しにされた村や町もある」
「それは本当ですか?」
「聖都になだれ込んできているのは、そんな村から逃げてきた奴らの生き残りでさぁ。国境には関所もあると言うが、国境も長い。関所を避けて国境を越え、あるいは越えようとして役人に捕らえられて殺される。女や子どもも関係ねぇ、皆殺しだ。酷でぇ話です」
ヒクズスはそこまで言って、自分の話でエリュティアが沈痛な表情に代わったのに気づいて恐縮した。先日、ピメルサネから聞かされた話はゴダルグの地のみならず、今はヴェスター国の版図に入った元シュレーブ国の領地全域の出来事だという事だった。
彼はそれ以上語らず、ぺこりとお辞儀をして去った。
ヒクズスが語った悲惨な境遇にある者たちも、元はシュレーブ国の民、エリュティアが保護すべき人々だった。しかし、今のエリュティアには、新たに引かれた国境線の向こうの人々を救済する力はない。
「私には何も出来ないの?」
そう呟くエリュティアの無力感は、聖都が敵に包囲された時の未熟な彼女の姿だった。
「ユリスラナ。また、貧民窟に行ってみましょう」
そこは過去にエリュティアの生き方を変えた場所だった。




