レネン国からの使者
その日も、エリュティアは庭園の東屋で過ごしたいと言った。ユリスラナがエリュティアを支えながら庭園へと一歩踏み出してみると、頬に感じる風が身震いするほど冷たい。秋の女神は彼女の門を閉じて、冬の女神に季節を引き継いでいた。
アトランティスの人々は、冬の女神が厳格な中にも春に芽吹く命を見守り続ける無言の優しさを持っていると考えている。風はいつしか庭園を被った野草に吹き渡って、草花の精霊に冬の心構えを命じているようにも見えた。
冬になっても緑を絶やさない野草の生命感を眺めて、エリュティアは呟いた。
「あの方が戻ってくるまでに、私も体調を回復させなければ」
エリュティアはアトラスがフローイ国から戻って、二人でルージ島へ行く事を夢見ている。冷静に見れば奇妙な事だった。ルージ島が海に沈んだという知らせはずいぶん前に届いていたし、ルージ島があれば届くはずの様々な知らせも途絶え、こちらからの知らせを届けようとした使者も空しく帰って来ている。
しかし、それでもエリュティアの願望は、いまだルージ島が存在し、そこには夫の母や妹がいて、エリュティアの来訪を笑顔で待っているかのような期待感が抜けない。
奇妙と言えば、この聖都も奇妙だった。旧シュレーブ国の中央に位置する町だが、真理の女神の下、アトランティスの国々を纏める宗教国家だった。しかし、今はその仕組みも壊れた。
次の春には各国の国王がこの地に集う。彼らが推挙した最高神官が神託によって新たな神帝を選ぶ。神帝の下、アトランティスの国々は以前の平和と調和を取り戻す。今、彼らの身の回りで起きている災厄も、調和が失われた人々に対する神々の警告に違いない。
アトランティスに調和を取り戻せば、神々の怒りも解け、海に沈んだ土地も人も蘇るにだろう。人々は密かなそんな願いを抱いていた。
しかし、この日、大地の神が妄想に浸りきった人々に目覚めよと命じるように大地を揺らした。あるいは、これから訪れる本格的な災厄に、冥界の神の笑い声が地を揺らしたのだろうか。
エリュティアが住まう舘は、先の王ジソーが聖都に集う各国の国王を招いては自慢するほどの美しい庭園を持っていた。しかし、先の戦いで聖都が敵に包囲された折、庭園の樹木を切り倒して薪にしようとした。滑稽な事に、切り倒した樹木は充分に乾燥させることできず、切り払った枝を薪にしただけで、太い幹は庭園の隅に転がっている。聖都陥落の直前に舘は僧兵に襲われて、そこにいた者たちの多くが殺された。庭木の世話をしていた園丁たちも亡くなってこの庭は世話をする者も居ない。
そんな庭園は人の手を離れていつしか野草に被われて緑に染まった。ユリスラナはエリュティアを慰めるように言った。
「でも、私はこの景色も好きですよ」
ユリスラナは人の秩序を失った庭園も、自然の摂理に戻っているという。エリュティアも頷いて言った。
「そうね。風に吹かれていると、まるで花の精たちが踊っているのが見えるよう」
聖都を襲った大地の揺れの混乱と、時を合わせるように、レネン国王デルタスから使者が遣わされてきた。
「デルタス様らしい」
使者一行を受け入れたエリュティアが、笑顔を浮かべてデルタスの人柄を評した。子どもの頃から人を驚かせる事が好きだったということである。使者は十人の供を連れ、更にその後ろに樹木を積んだ荷車を三台連れている。その賑やかさはまるで小さなパレードのようだった。
館の入り口で出迎えを受けた使者は、荷車を曳いたり押したりしている人々を振り返って言った。
「聖都のエリュティア様の舘に届けると聞いた人々が喜んで協力してくれましたよ」
この樹木がデルタスの贈り物の一つだった。使者はレネン国から聖都に向かう途中、通りかかった森で、樵たちに、エリュティアが住む館の庭園に植える樹木を求めた。その名を聞いた樵たちは喜んで斧を鋤に持ち替えた。使者が指定した樹を根っこから掘り起こして荷車に積んで運んできた。
樵たちは、使者の指示したとおり、樹木を庭園へと運び入れて帰って行った。エリュティアのために何かが出来たという喜びを感じ取る事が出来、エリュティアが彼らにかける労いの言葉も自然だった。使者はそんな様子で、エリュティアが民から慕われ続けている事を確認した。すべて、デルタスの指示通りだった。
使者の目は彼を舘の広間へと導くエリュティアの姿を密かに注意深く観察していた。民や使者に不安を与えないよう気丈に振る舞っているが、時折、傍らの侍女が彼女を支えようとする素振りを見せる。まだ彼女の体調は万全ではない証拠だった。
広間に通された使者は、デルタスからの二つ目の贈り物として、レネン国から伴ってきた十人の供を紹介した。
「では、この者たちをお召し抱えください。庭園の手入れでは信頼がおける者たちです。舘に寝泊まりする一室と食事を与えていただければ、この者たちは舘の庭園を元の姿、いやそれ以上に蘇らせてくれるでしょう」
自然の摂理に戻った庭園に、人の手で秩序と美を取り戻すと言う。
「先代の王の思い出が取り戻せるとは、嬉しい限りです。デルタス様にはエリュティアが心から礼を申していたとお伝えください」
「今回はこちらに参る都合がつかず、使者の私をお立てになりましたが、デルタス様も折を見てエリュティア様の元を直々に訪問したいと仰っておりました」
「まぁ。それは大歓迎です」
「つきましては……。すれ違いになるのも無用な事。エリュティア様はルージ島へ行かれるとか、その予定を聞かせていただければ、エリュティア様が旅に出立される前、あるいはその後に訪問するよう取りはからいたいと存じます」
使者の言葉にエリュティアは口ごもった。ルージ島に渡り、アトラスの肉親との面会を楽しみにしている。一方では、そのルージ島が海に沈んだという知らせにも接していた。彼女は不安な思いを全ては夫のアトラスが戻ってからと思い定めて不安を心の底に沈めていた。
「全ては我が夫が戻ってからの話です。デルタス様には改めて使者を立ててお知らせいたしましょう」
使者はエリュティアの言葉ではなく、戸惑う表情から事実を読み取って考えた
(やはりルージ島が海に沈んだというのは誠であったか)
使者はデルタスから命じられた本来の役割を負え、丁寧に一礼し、園丁たちを残して帰って行った。
館の隅に以前の園丁が寝起きした部屋の他、庭木の手入れ道具を治めた倉庫がある。エリュティアが衛兵に案内を命じようとした時、園丁の中からリーダーらしい初老の男たちが進み出て言った。
「ゼルダスと申します、お見知りおきを。早速ながら、仕事に取りかからせていただきます」
生真面目で仕事熱心な男たちだったが、既に許可も得て仕事にとりかかることで、誰からも反対できない館の中の居場所を確保したとも言える。デルタスが密かに命じていたとおりだった。彼らを舘から追い払う者は居なかった。
屋根を支える柱だけで周囲が良く見渡せる東屋の中で寛ぐエリュティアに、ゼルダスが運んできた樹木を指さして言った。
「高さはそれほどではありませんが、幹の太さや見事な枝振りなど、数年も経てば庭園の美しさを引き立てる見事な姿になるでしょう」
地を被って緑に染めていた野草が引き抜かれ、地が露わになった。園丁たちは人の手で美を見いだす事にのみ興味があるようで、引き抜く野草の命を省みる様子はなかった。
仕事熱心な男たちの手でこの日のうちに庭園を巡る小道と花壇が露わになった。庭園の片隅に山積みになった幾種類もの野草は、多くの花の精の死骸のようにも見えた。
しかし、舘の警護に当たるシグリアスは、いいしれぬ不快感を感じた。この舘は各国の王が聖都で開かれるアトランティス議会に集う時だけ利用される仮初めの宿だが、王が住まう舘だけに壁や兵の防御は頑強で、少数の者たちの見張りでも、不審者の侵入を防ぐ事も出来る。しかし、園丁という立場で、エリュティアへの忠誠も定かではない者たちが十人も館の中に常駐するようになった。
舘の外に漏れては困る密談の内容を探る者も居るやも知れず、エリュティアの命を狙う者が混じっていれば、彼女の身も危うい。
レネン国のデルタスは、エリュティアの心の油断につけ込んで、実質上の密偵を送り込んだとも考えられる。




