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リーミルの夢

 部屋に案内されたアトラスは周囲を見回した。あの日の雰囲気はとうに薄れて消え、窓の位置でようやくあの部屋だと確認できただけだった。

 彼は人払いをし、一人になったのを確認するとベットに椅子を寄せて座った。

「リーミネ、リーミネ」

 アトラスは小さく呟いていた。あの日、ベッドに横たわっていたリーミルは、アトラスに彼女を本当の名で呼ぶ事を許した。

 記憶を辿れば、初めて正体を明かした日から、彼女はアトラスがつかみ取るべき選択肢を示し、歩み続けさせた。彼が兄のロユラスを失い立ち止まった時には、厳しい姉のような態度で叱咤したのも今では懐かしい思い出だった。もし、彼女がこのベッドにいたら、母国を失い、母と妹も行方不明の状況に心が乱れるアトラスにどんな言葉をかけただろうか。


 アトラスの微笑みを浮かべた表情の中で、瞼がいつしか閉じ、頭も垂れた。膝の上にあった両手も緊張感が薄れて、右手は膝からずり落ちて肩からだらりと下がった。王として心の不安を知られれば、周囲に混乱が広がる。それを恐れて本心を隠すことのみ気がかりで心を休めることも出来なかった。今ようやく一つの部屋で、彼と彼が心を許せるリーミルの記憶の二人きりになることができた。背負い続けた緊張感が薄れ、体と心の疲労が、今の彼を心地よく眠りに誘った。


 アトラスは夢の中でリーミルがその名の秘密を明かした時の記憶を彷徨っていた。あの時、彼女はアトラスの首に腕を回して耳元で囁くように言った。

「アトラス。貴方はこの行軍で、フローイ国に戻るんじゃない。貴方の過去に戻らなければならないわ」

 今の夢の中のアトラスは問う。

「過去の私だって?」

 思い起こせば彼が直接に眺めた敵味方の死は数えきれず、その兵のたちの家族の哀しみや憎しみを一人で背負わねばならないと考えていた。しかし、思い起こしてみれば、一時は敵だったリーミルさえ、気づいてみれば彼を支える存在だった。アトラスの傍らにいたテウススたちの存在はなおさらだし、クセノフォンたちは家族のために喜んで今回の戦場に赴く。

 アトラスは思った。

「私は他の者たちと共に歩けばいい。ただし、いつもその先頭に立つ」

 窓から差し込んだ朝日がアトラスの目を射て、彼は目覚めた。もちろん目の前のベッドにリーミルの姿はないが毛布には彼女の体温が残っているかのような気がした。


「さあ。行くか」

 この日、兵士たちと共に朝食を終え、兵士たちに語りかけるように命じたアトラスに迷いは見られなかった。ただ、わずかに疑問があるとすれば、夢の残滓に何故かレネン国王デルタスがやや邪悪なイメージで混じり込んでいた事だろうか。


 アトラス一行は、西側に山の麓の景色が延々と続く街道を北に向かって歩き続けた。その距離の長さで、この山岳地帯がフローイ国と隣接するシュレーブ国を戦もなく隔ててきた事が良く理解できた。密に茂る木々に被われた山岳地帯は、踏み込めば太陽すら見えず、方向すら見失ってしまうだろう。軍隊の通行を固く拒む防壁だった。

 空を見上げれば、厚い雲に被われて、太陽の位置で時間を時間を計る事は難しい。行軍に先行して前方を探っていた兵士が戻ってきて、見つけたと短く報告した。

 その場所にたどり着いたアトラスに、クセノフォンが指さしていった。

「この辺りから山を越えられます。あそこの樹の幹にゴルスス様が刻んだ傷が」

 山岳地帯を越える道の出入り口ということである。その出入り口は幹に刻まれた傷と切り払われた枝だけ。しかし、その傷も三年近い時に癒されていた。

 アドナはゴルススが刻んだという傷跡を撫でて尋ねた。

「ゴルスス様はここを越えたのか?」

 斜面を見上げれば緩やかだが、その向こうに崖と呼んでも言い急峻な斜面が立ちふさがっている。そうと言われなければ、ここにフローイ国の中心部へ続く道があるとは気づくまい。アトラスは言った。

「その通り。ギリシャ人たちに言われるまでは、ここに道があるなど誰も考えなかった」

 クセノフォンが付け加えていった。

「そして、ゴルスス様が居なければ、この地を踏破する事は出来なかったでしょう」

 狩人が獲物を追う事は出来るかも知れないが、敵と戦う意志を持った多くの兵士が集団で通過するには、よほどの統率力を持った指揮官が必要だという事である。

「しかし、やっかいな空模様ですな」

 クセノフォンが顔をしかめて言い、アトラスが頷いた。この日の出立の時には晴れ上がっていた空に、今は夕焼けの空の赤さを遮るほどの濃い灰色の雲が広がっていた。彼らは高低差がある山岳地帯の細い山道を雨に打たれながら歩く不快感を何度か経験していた。その不快な記憶に気を取られ、アトラス主従が見落としていたとすれば、抉られたように見える前方の崖の土の色が真新しい事だったろう。


 闇の中、山岳地帯を彷徨う事を避けて、日暮れには未だ間がある時間帯だが、アトラスたちは宿営の準備を始めた。この地で荷を積んできた馬車を捨て、兵士たちがその荷を担ぐ準備が要る。

 明くる日は、アトラスたちの期待も空しく、雲はいよいよ濃さを増して朝日も見えなかった。

 兵士たちは各自食料を背負い長い行軍の準備を整えていた。干し肉や干しイチジクも二十日分となれば嵩張るし重い。そして険しく細く長い道を進むには、それ以上背負う事も出来ない。アトラスにとって心に秘めた決意は、その二十日で戦の決着を付けると言う事だった。


 先の戦でフローイ国王だったボルススが戦場へと動員した兵力や、その後、王位を継いだリーミルが指揮した兵士の数を元に、アトラスはフローイ国が動員できる総兵力はどんなに多くとも五千と見ている。その兵力も先の戦で減っている。更に、戦で得た新たな領地の治安維持のために兵を割いている。

 反乱軍など兵力をかき集めてせいぜい千人を超える程度。アトラスたちはそう推測している。

「あれから3年」

 アトラスが三千の兵を率いて、当時は敵だったフローイ国に攻め込んだ。当時の王都カイーキは名ばかりの都で、旧都ランロイに集まる物資に依存していた。アトラスの兄ロユラスは、フローイ国を南北に貫く街道を遮断し、旧都ランロイを占領させて、王都カイーキを孤立させた。

 現在、再建されつつある王都カイーキは、その都としての体裁も整い、税収も全てその地に納められて、王都カイーキを孤立させる事は出来ない。

 反乱軍はアトラスの真似をして王都カイーキを攻める事も出来ず、力づくで攻める事しか出来ないだろう。アトラスは王都カイーキ攻めで苦戦する敵の背後を突くつもりでいる。

 しかし、今のアトラスたちの困難は、前方に広がる山岳地帯だった。彼らはそこでアトランティス全土が繰り返し激しい地の揺れに襲われ続けているということに気づくことになる。三年前、ゴルススがギリシャ兵を率いて通った道は、うち続く地の揺れで寸断されていたのである。

 これから直面する困難に気づかぬまま、アトラスは聖都シリャードの方向を振り返った。山岳地帯に突入すれば、味方との連絡を取る事は出来なくなる。

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