ルミガスの謀(はかりごと)
「シフグナの地の統治官はルミガスと言ったな。テウススよ。ルミガスと面会し、我らはリーミル王女の追悼をし、フローイ国内のギリシャ人たちを移送する予定だと伝えよ」
「フェミナ様の事は伏せておくのですか?」
テウススの問いにアトラスは黙って頷いた。その王の表情に心根を読み解いて問いを重ねた。
「わかりました。ルミガスの動向を探ってこいと?」
ルミガスがフェミナに害意のある人物か、アトラス一行の通行を黙って許す人物かどうか探らねばならない。アトラスはもう一度頷き、テウススは迷うことなく連絡用に連れていた馬の一頭に跨ったかと思うと、軽快な蹄の音を響かせて西へ姿を消した。陽が中天を過ぎる頃には統治官の館にたどり着き、その腹の内を探って明日には戻ってくるだろう。
この日、アトラスは夕暮れを前にしてシフグナとの境に着いたが、それ以上兵を進めず夜営の準備に入った。一刻も早くフェミナが待つ王都へと行きたいところだが、ルミガスの腹の内一つで敵地になるかも知れない場所に踏み込んで行くには警戒を要する。
夜半、テウススが向かった西ではなく、東の闇の中から馬蹄の音が近づいてきた。近づくに連れて二頭の馬が駆ける音だと判別が出来た。緊急事態を告げるような慌ただしい音に驚いて、兵士たちもそれぞれの幕舎から姿を見せていた。
闇の中に、パトローサに残ったはずのラヌガンの声が響いた。
「我らが王よ。アトラス王よ。いずこにおられましょうや」
「おおっ。私はここに居るぞ」
スタラススたち近習とクセノフォンを迎え入れた天幕の中、アトラスたちはラヌガン自身が使者を同行してきた重要性を理解した。
ラヌガンに促されて事の顛末を報告した使者に、アトラスは怒鳴り声に近い声で尋ねた。
「それではルージ島まで海に沈んだというのか?」
使者の返答を待たずスタラススも尋ねた。
「リネ様やピレナ様は?」
「分かりませぬ」
その短かすぎる返答が状況を物語っていた。ヤルージ島に続いてルージ島も消滅するように海に消えた。それ以外に今の状況を判断できる情報はない。
「いかがいたしますか?」
レクナルスの問いに、未だ混乱から覚めないアトラスは聞き返した。
「いかがとは?」
「一度お戻りになられては?」
東のパトローサか聖都に戻ればもっと情報が得られるかも知れないという。アトラスは歯を食いしばって天井を睨み、決断を下した。
「いや。戻っても、私に出来る事はない。今はフェミナ様の求めに応じてフローイ国の安寧を図ることこそ先決」
戻っても得られるかどうか分からぬ知らせを待つ事しかできない。アトラスは状況を伝えに来たラヌガンに向き合って命じた。
「ラヌガンよ。ルージ島の事、後はそなたに託すしかない」
「ラクナル殿やリシアス殿たちにはいかがいたしますか?」
シュレーブ国領主の中にアトラスに寝返った者たちもいる。ルージ島が消滅したという話を聞けば、その者たちが再び寝返りはせぬかと言う事である。アトラスは断言した。
「隠さずとも良い。いずれ彼らも知るところとなる。真実ならなおさらだ」
それ以上議論を進める術もなく、重い沈黙が続いた後、アトラスは配下の者たちを見回して言った。
「後は、一人にしておいてくれ」
アトラスに言葉をかける雰囲気ではなかった。家臣たちは一礼をして王の天幕を去り、孤独な王は一人取り残された。故郷が多くの民と共に海に沈み、母や妹の安否も分からない。突然に信じられない出来事を背負った王は平静を保っているように見えた。
しかし、間もなく天幕の中からベッドをひっくり返すように音が響いたかと思うと、うめき声とも悲鳴とも怒鳴り声ともつかぬ声が響き渡った。背負いきれなくなった哀しみと不幸を吐き出す声だった。家臣たちはアトラスの心を慰め支える術もしらず、ただ黙って顔を見合わせるしかなかった。
明くる朝、西の方から馬の蹄の音が響いてきて、アトラスは動揺を心の底に封じて幕舎から姿を見せた。テウススは一人の初老の男を背後に乗せていた。意外な事に、テウススがその腹の底を探ってくるはずのルミガスだった。
彼は初対面の挨拶もそこそこに提案した。
「この地は未だ充分に人心が収まりませぬ。何かあっては大変。私がシフグナの西まで同行いたしましょう」
未だ心の中の混乱が収まりきらないアトラスは作り笑顔で応じた。
「それは心強い事だ」
ルミガスは人の良い有能な官吏に見えた。アトラスたちは敢えてフローイ国内の情勢に触れないまま彼の先導に付き従って歩き続けた。元はシフグナの領主だったパロドトスの舘の前を通り過ぎる時に、ルミガスに二人の従者が加わっただけで、アトラスがたまに命じる大休止の時以外、行軍の足が止まる事はなかったし、家族との再会を望むギリシャ兵たちは行軍の足を止める事も不満のようだった。
ルミガスは一行の先頭に立ちながら、振り返りもせず周囲の景色を説明して歩いた。
「このシフグナの地はフローイ国の歴代の王が欲した地です」
「フローイ国が中原に出るのに不可欠な地だからな」
アトラスの返答にルミガスが言った。
「歴代の王が欲しても得られなかったものをリーミル様は得られた」
振り返ったルミガスの笑顔で、彼の先代の女王への忠誠心が知れた。
今は亡きリーミル王女は、僅か数年でフローイ国からアトランティスの中原への出入口とも言えるシフグナの地とその周辺の領地を手に入れた。更に南のゲルト国半分を併合し、フローイ国は一挙に領土を広げた。他国だった土地を治めてフローイ国の臣民として民心を安定させるために、彼女は国内の有能な官吏と忠誠心に富んだ指揮官に兵を与えて各地に派遣した。フローイ国も国内に有能な人材が枯渇した。
リーミルの野望は彼女の死と共に失われ、道半ばの彼女の意志には混乱が残り、今のフローイ国の不穏な雰囲気を終わらせる事が出来る者も居ない。ルミガスの話の中に、忠臣として織り込まれた哀しみが伝わってきた。
しかし、アトラスは別の事を考えていた。アトラスが歩く街道の南には、リーミルが旧シフグナ王国の王女パレサネと戦った戦場があり、負傷した彼女はアトラスたちがこれから通過する関所に運ばれて、アトラスは彼女の死を見送った。振り返れば未だ真新しく心に刻まれた記憶だった。
「間もなくシフグナを抜け、ルウオの砦に続く隘路に出まする。ルウオの砦なら兵士に一夜の宿にする充分な宿舎もございます」
そう言うルミガスは関所で足を止めようとせず歩き続けていた。宿営するには未だ陽は高く、関所にはアトラスが率いてきたギリシャ人部隊を休ませるほどの宿舎はなかった。もっともだと思えるルミガスの言葉に、アトラスは足を止めて言った。
「リーミル殿とパレサネの戦場の地も眺めたいが、今はその時間もない。しかし、リーミル様が亡くなったこの場所で、一時、リーミル様を偲ぶ時間はある」
アトラスの言葉を背中越しに聞いたルミガスは静かに振り返ってアトラスの表情を眺め、謝罪するように跪いて頭を垂れた。
アトラスは短く尋ねた。
「私を試したと言う事か?」
「申し訳ございませぬ。我ら、リーミル様に忠誠を誓う者。フローイ国に害意ある者どもの侵入を許すわけには参りませぬ」
「かまわぬ。我らもそなたの本心を探っているところであった」
「しかし、どうしてルミガス殿の本心が?」
首を傾げたスタラススにアトラスが答えた。
「ルミガス殿の危惧は、我らがフローイ国に侵入し、その土地を奪う気で居るかどうかということであろう。私にその気があるなら、追悼など気にせずルミガスの案内のまま関所を通過していた」
アトラスの言葉にルミガスが頷いて言った。
「アトラス王はここに兵を留め、リーミル様の追悼をすると言われた」
「リーミル殿には、私の乱れる心を何度も導いていただいた。私にとって姉のようなお方だ。追悼もせずこの地を去れようか」
アトラスの本音だった。もし、今、リーミルが彼の傍らにいたら、迷うアトラスをどんな言葉で叱咤しただろうとも考えていた。
ルミガスが舘から伴ってきた従者に何かを囁くと、従者は早足でルウオの砦へ向かう隘路へと姿を消した。ルミガスは言った。
「砦の指揮官にもルージ軍を通過を認めるよう伝えさせました」
その言葉でアトラスたちは立場の危うさを悟った。シフグナからフローイ国の王都までは、兵が二人並んで行軍するのがやっとという隘路が続いている。アトラス率いるギリシャ人部隊がその隘路に入り込んだ後、ルミガスがその入り口に柵を築き百の兵で守るなら、アトラスは砦を落とすのも難しく、戻る事も出来ず自滅していた。
しかし、今のルミガスは、アトラスがその危険を冒してでも、王都のフェミナと幼い王を助けに行こうと決意している事を知った。
そのアトラスが意外な事を言った。
「テウススとスタラススに五百の兵を預ける。ルウオの砦から王都を目指し、フェミナ様の兵と合流して王都を守れ」
「我らが王はいかががされるので?」
テウススの言葉にアトラスが答えた。
「私は残りの兵と今しばらくここに留まる。ここに幕舎の設営を」
ルミガスは首を傾げた。アトラスが彼を信用せずこの地を監視するのかも思えたが、違うらしい。




