約定の宝石(アクアマリン)
明くる日、アトラスたちがパトローサに着いたのは、陽が西に傾きかけて、空が赤く変わる頃だった。赤い空を背景にすると町は戦乱の日を思い出させる。この町が戦火に見舞われて既に二年になる。町は活気を取り戻しているようだが、ジグリラスによれば未だ元の賑やかさの半分にもならないという。
アトラスの顔を知る町の住人は少ないが、片腕という特徴でアトラスに気づく者も居る。恐ろしげに視線を避ける者ばかりではなく、敵意を見せる者たちもいた。王宮へ続く幅広い街道を歩みながら、アトラスの護衛を務める者たちの間に緊張感が隠せない。露店の果物売りが使うナイフがきらりと光って、アドナが剣の束に手をかけた。アトラスはそんなアドナに首を横に振って見せて無用だと伝えた。
一方、エリュティアがアトラスと結ばれたという知らせは、パトローサの人々にシュレーブが元の栄光を取り戻すという期待を抱かせてもいる。そんな旧王都では、密かな噂が流れていた。ルージ国王アトラスがルージ国の都をバースからこの地に遷都する。その中心にある宮殿はアトラスとエリュティアという新たな主を迎えて王宮になると言う。
人々の憎しみや期待を浴びながらたどり着いた宮殿で、アトラスは奇妙な謁見をした。ライトラスが傍らに控えていた事で、上半身を固く縛られて連行されてきた男が、王の命を狙って待ち伏せをしていた者と知れた。男は縄じりを掴んだライトラスを引きずるようにやって来て跪き、紹介しろと言うようにライトラスを振り返った。
ライトラスは言った。
「この男。バラナスと申し、この度、王のお命を狙った者たちの首謀者でございます。元はジソー殿に仕える近衛兵の一員でありました。」
「私の命のこと、助命は乞わぬ。アトラス殿に言いたきことがある」
バナラスの言葉にアトラスは短く尋ねた。
「何か?」
「ライトラス殿の説得を受け入れ、我らはライトラス殿に帰順する。この度の罪は儂一人の事。儂の命と引き替えに他の仲間の罪は免じていただきたい」
ライトラスは男の生真面目さと頑固さに手を焼くと言わんばかりに肩をすくめた。アトラスは男の言葉を面白がるように言った。
「ライトラスに仕えるというなら、私が勝手にそなたの命を奪うわけにも行かぬ」
「しかし、儂は王の命を狙ったばかりではない。過ぎる年、イドポワの門の戦いでは王の父君の軍と戦い、リダル殿を敗死に追い込んだ」
「我が父を殺したというのであれば、私は戦で数多くの者たちの家族を奪ってきた。このパトローサにも私に家族を奪われた者も多かろう。私はその者たちの命や憎しみを背負わねばならぬと考えている。そなたも罪を背負ったというなら、贖罪に見合う生き方をせよ。その手助けならしてやろう」
バナラスは心に染みこんでくるアトラスの言葉を味わうように黙っていたが、突然に首を振って勢いよく立ち上がり、叫ぶように言った。
「ええい。止めた。ライトラスよ、そなたに仕えるのは止めたぞ」
彼が帰順するという意志を飜したのかと、広間に緊張感が広がったが、バナラスは言葉を続けた。
「儂は部下を率いて、アトラス王にお仕えする事に決めたぞ」
ライトラスよりアトラスの方が信頼して仕えられるという。彼はさらにアトラスへ忠誠を誓う言葉を吐いた。
「我らが王よ。フローイ攻めの際には是非とも先鋒を賜りたく」
フローイ国を攻めるという意外な言葉に、アトラスがピクリと反応した。
(フローイ攻めだと? この男の知恵ではあるまい)
アトラスはライトラスに視線を注いで言った。
「ライトラスよ。フローイ攻めとはそなたの知恵か?」
沈黙を保ったのがライトラスの返答とも言えた。アトラスは広間に集うにいる者たちを見回して言った。
「よいか。皆にも言うておく。フローイ国はリーミル殿以来、我らの信頼できる盟友である。私が王である限り、盟友に攻め込み、その領土の一部たりともかすめ取る事はあり得ぬ」
怒りさえ感じられるアトラスの言葉に、広間に集まった者たちはただ頭を垂れて受け入れるだけで言葉を返す者は居なかった。
心の底に疲労を隠すアトラスにとって、戦乱が続くなど考えたくはない。次の春のアトランティス議会で新たな神帝を選出し、各国は神帝の元に集う。彼は過去の平和な体制を夢見ていた。ライトラスとジグリラス親子はそんなアトラスの心の底を見抜くように黙ってアトラスを眺めていた。
そんな広間に、次の知らせをもたらす使者が到着した。母国ルージからという知らせに、広間にはヤルージ島が海に呑まれたという知らせの続報かと緊張感が走った。通信文が記載されたスクナ板を包む布には王家の紋があり、王家の者から王に宛てた親書だと分かる。アトラスは緊張感を滲ませながら、受け取った包みを解き、家臣たちもその中から現れる知らせを固唾を呑んで待った。
スクナ板に記載された内容に目を通しながら、アトラスの固い表情が緩んで懐かしさを滲ませた柔和な表情に変わった。アトラスの表情に配下の者たちは不安を打ち消すように考えた。
(ヤルージ島が消失したというのは、誤りであったということか)
そんな安堵もすぐに勘違いだと分かった。アトラスは傍らのテウススにスクナ板を手渡して笑いながら言った。
「私もオルエデスは嫌いだ」
受け取ったスクナ板の文面を眺めたテウススも笑った。
「ピレナさまらしい」
スタラススがテウススから受け取って眺めたピレナからの通信文は短く簡潔で、しかし強い意志と怒りが込められていた。
『私はオルエデスは嫌いです。もし、嫁がねばならぬなら、私は真理の女神の神殿で巫女になります』
巫女になるというのは、彼女が幼い頃からの抗議の口癖だった。短い文面から怒りに燃える目で、唇をとがらせ頬を膨らませる幼い頃の彼女の表情が思い起こされる。不快感を感じるとすればピレナ自身ではなく、ピレナばかりか王たるアトラスの意向さえ無視して彼女の婚礼を進めようとする者たちの存在だった。
ただ、首を傾げたくなる点がある。この親書は海に沈んだと言われるヤルージ島に触れていない。その不自然さが、文末の日付で理解できた。日付は先の知らせより古い。重大事を知らせる通信が、他の通信より優先されて先に届いていた。
時の流れが逆転し、各地の情報が入り乱れて、アトラスたちを混乱に追いやっていった。
更に同じ日の夜、聖都にいるエリュティアを経由してアトランティス大陸の東岸部の領主たちから災厄に見舞われたという知らせがもたらされた。ヤルージ島が海に呑まれたというなら、その余波がアトランティス大陸の東岸を襲っていても不思議ではない。
もはやアトラスたちは、信じられないとは言わず、伝えられた知らせを事実として受け入れ始めた。振り返れば、過去にアトランティス大陸の北西部にあったラフローイ、マナフローイと呼ばれた巨大な島が住民と共に海の下に消え、対岸のフローイ国の北岸は巨大な波に襲われていた。しかし、彼らはヤルージ島ばかりか、ルージ島まで災厄に見舞われているのではないかという不安を必死に振り払っていた
しかし、その絶望的な知らせに触れる前に、西の国から使者が訪れた。
ライトラスたちシュレーブ国の旧臣たちは、このパトローサこそルージ国の新たな都だと言わんばかりに、王の帰還の宴を開いた。
その宴の席上、取り次ぎの役人が現れ、何かの品をジグリラスに見せて囁くように用件を伝えた。ジグリラスはアトラスに歩み寄って言った。
「今、フローイ国の使者と申す者が来たとの事。粗末な身なりですが、このような物を」
ジグリラスが差し出したのは見事な装飾が施された短剣だった。庶民が持てる物ではないが、フローイ王家を示すにはその紋章がない。しかしアトラスは即断して言った。
「使者殿を広間にお通しせよ」
アトラスは宴会を中止させ、主だった者たちと共に広間へと移動して来客を迎えた。広間に通された男は貧しい商人の身なりで、取り次ぎの役人が不審がったのが理解できた。アトラスたちルージ国の者は通信文を記載したスクナ板を青紫色の布で包んで王家からの通信の印とするように、フローイ国では濃緑色の布に包んで届ける。アトラスは共に戦ったリーミル王女がスクナ板を受け取る様子を何度か眺めた経験がある。しかし、使者を名乗る男が携えたスクナ板は、その王家の通信だという事実を隠すように粗末な麻布に包まれていた。
使者はその不自然さを説明するように、幼いフローイ国王の母の名を挙げて言った。
「フェミナ様から内密の知らせでございます」
その一言でアトラスは事情を察した。フェミナとその息子の幼い王の周囲には信頼できる者が少ない。誰にも知られずアトラスに使いを出そうとすれば、使者も姿を偽らざるを得ない。
アトラスは手渡されたスクナ板に記載された文面に目を通し、思いを巡らすようにため息をついて周囲を見回して言った。
「既にエリュティアから知らせて来たとおり、フローイ国には幼い王とその母君を除こうとする者たちがいる。今回の知らせはその者たちが兵を挙げ、王都に迫っているとの事だ。フェミナ様は我らに救援を求めている」
いつもなら明快な決断をするアトラスは迷っていた。他国の王位争いに首を突っ込むのは内政干渉になりかねない。更に、やっと訪れた平和を破壊し、再び民を戦乱に巻き込む命令を出さねばならない。
この時、使者が懐の中から小さな革袋を取り出し、その中身を手の平に受けてアトラスに差しだした。親指の先ほどの大きさの石が受けた光を反射して青く輝いていた。
「あれは?……」
アトラスが幼い頃から共に過ごしてきたテウススたちも知っている。アトラスの剣の束にはめ込まれていたルージ王家を象徴する宝石だった。
使者は言った。
「フェミナ様の手を経由してリーミル様の墓に供えられていたもの。フェミナ様の使いの証として持参するようにと」
リーミルの墓に供えられていたというのは初めて聞く話だが、この宝石はアトラスが約定の品としてフェミナに託した物に間違いない。この青い輝きによって、彼の心はフェミナやその息子、そしてリーミルとも繋がっている。
宝石を見たアトラスは即座に決意した。
「本日から十日で王都にゆく。フェミナ様にはそうお伝えせよ」
アトラスの言葉を聞いた使者は、感激のあまり泣き崩れるように膝を床につけて感謝の言葉を繰り返した。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
使者の嬉し涙で、彼の忠誠心とフェミナがこの男を信頼して使者として遣わした理由が知れた。
アトラスは命じた。
「ラヌガンよ。そなたの部下に使者殿を馬でフローイへお送りさせよ。」
ラヌガンは奇妙な命令だと言わんばかりに首を傾げてアトラスを眺めた。
今回登場した宝石にまつわるエピソード。ご興味があれば読み直してみてくださいね。
第二部第446話 「若き王母の願い」・・・フェミナとアトラスに関わるエピソードです。
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第一部第5話 「アトラスとの出会い」・・・アトラスとリーミルの出会いのエピソードです




