破滅の訪れ
アトランティスの人々は、この時期に北から吹く風を、冬の女神がやってきたと称している、地面を撫でて土の香りのする風は、農民たちにとって麦を蒔く季節の到来を教えていた。
アトラス一行はそんな風に撫でられながら、西のパトローサ目指して歩いていた。700人ばかりのギリシャ兵の先頭から背後を振り返ったアトラスに、近習のテウススがその心情を察して言った。
「今頃は聖都でアレスケイアが寂しそうにしておりましょう」
アトラスの妻の事には触れにくい。彼は残してきたアトラスの愛馬の名を口にし、アトラスは比喩に気づかぬふりを装って、愛馬の事を語った。
「やむを得ぬ。彼も老いた」
アレスケイアはアトラスが子どもの頃から共に過ごした親友で、近習にさえ話せない心の闇をはき出せる存在だった。しかし、今は毛並みに昔の色つやは失せ、アトラスを背に乗せて軽く走っても、昔ほどの持続力がない。息が上がる自分の老いた体を嘆く嘶きが哀れにも思えるほどだった。
近習たちはアドナを眺めた。こういう場合、彼らが言えない事を率直に語る女だった。いつものアドナなら、馬に向ける愛情を妻のエリュティアにも向けろと直言していただろう。しかし、今のアドナの視線はアトラスが右手の指で撫でる胸元に向けられていた。アトラスはその上着の下に、エリュティアから受け取ったお守りのを身につけている。一言言ってやりたい気もするが、今のアドナはアトラスのその指先で、彼の愛情表現の成長を認めてお小言を言うのは止める事にした。
前方を眺めれば、聖都とパトローサを結ぶ街道も半ばを過ぎで夕刻にはパトローサに到着できるだろう。ギリシャ人部隊の先頭に居たクセノフォンが言った。
「我らか王よ、ご安心くださいませ。身辺は我らがお守りいたしますので」
冗談が通じにくいほど生真面目な男に、アトラスは笑いながら言った。
「何を言う。今や戦も終わり、荒ぶる人々の心を治めねばならぬ時だ」
事実、アトラスはこのギリシャ人部隊も既に軍隊ではなく、移住する民の集団のように考えていた。配下の者たちは、アトラスが勇敢で賢明な王だと信じて疑わない。しかし、そのアトラスは前方を眺めては居てもその視点は定まらない。
街道沿いに旅人に食事や飲み物、時に娼婦と一夜の寝床を提供する店が点在して町とも言えない小さな集落を作っている。しかし、そんな店もアトラスが蛮族の兵を率いて来ると言う噂がいち早く広がっていて、空いている店はない。そんな無人の店の軒先のベンチに、二人の男が世間話でもするように座って街道を眺めていた。
通りかかったアトラス一行を眺めた若い男が叫ぶように言った。
「おおっ、来おった」
言葉に侮蔑的な雰囲気がある。さらに年老いた男が列の先頭を指さした。
「やあやあ、あの片腕の若造こそ、アトラスとか言う反逆者であろう」
「なるほど、恐ろしげな面相で。子どもたちがその名を聞いただけで泣き出すのも無理はない」
憎しみや侮蔑の視線には慣れていたが、これほど大っぴらな侮辱に近習たちは耐えかねた。アトラスが制止する間もなく、テウススが怒鳴った。
「お前たち。我らが王を侮辱するのは止めよ」
「さっさと、どこかへ行くがよい」
スタラススの怒りを込めた怒鳴り声に、二人の男は声を上げて笑った。
「おおっ、なんと愚かな家臣だ」
「王ばかりか、我ら家臣まで侮辱するか」
スタラススの言葉に二人の男は肩をすくめて笑った。
「我ら二人を追い払うと? 王の命を救おうという我らを? 王も家臣も愚かだから愚かだと言ったのだ」
年老いた男はアトラスの命を救うという。意外な言葉に口ごもった近習たちに若い男は侮蔑の言葉を続けた。
「しかし、その愚かな悪鬼が、どうやってエリュティア様をたぶらかしたのやら」
その言葉は街道に響き渡って、男たちを無視して歩き続けていたアトラスにも届いていた。男たちの口からエリュティアという言葉を聞いたアトラスは、右手を挙げて、背後の兵士たちに行軍中止を命じた。
そして彼自ら男たちに歩み寄って静かに言った。
「エリュティア様はたぶらかされる人ではない。そなたが言う恐ろしげな面相の王を導いている」
「ほぉ、それは興味深い事だ」
若い男の言葉を聞き流すように、アトラスは話題を変えた。
「そなたたちは、私の命を救うとか」
「おおっ。その事よ。エリュティア様が悪鬼を導かれるなら、我ら二人はその悪鬼の迷いをといて正しい道を示してやろうというのだ」
「正しい道だと?」
「左様。この先に、街道から北へと延びる道がある」
年老いた男の言葉を最後まで言わせず、スタラススが言った。
「我らが王よ。このような者に惑わされてはなりませぬ。このまま西へ進めば目的地のパトローサは間もなく。無駄な回り道など無用の事」
「我らが王よ。スタラススの申すとおりでございます。一刻も早くパトローサでの用を済まし、聖都に戻ってエリュティア様とルージ島へご帰還なさいませ」
テウススがそう言うのは、早くエリュティアをルージ国の正式な王妃の座に就け、アトランティス本土に得た新たな領地の安定を図り、次の不測事態に備えねばならない。不測の事態といえば不吉な気配を伴って、妄想と片づけられない考えが浮かぶ。
各国は笑顔の裏で互いにアトランティスの覇権を窺っている。ルージ国はヴェスター国と王家同士の血縁関係にあって友好関係は強固に見える。しかし、その二国ですら、新たな領地の境界や民の貴族を巡っていくつもの火種を抱えている。
そればかりか、戦火に見舞われた地では今だにアトラスに対する怨嗟の声は収まっていない。アトラスの命を狙う者たちもいるだろう。この二人の男がそうではないとも限らず、この二人が示す北の先にあるアトラスを葬る罠に誘い込もうとしている不安もあった。
「分かった。北へ行こう」
笑いながら言ったアトラスをクセノフォンが引き留めた。
「我らが王よ。なりませぬ。危険です」
「いや、良いのだ。北には賢者の親子の庵があるという。行ってみるのも悪くあるまい」
アトラスがちらりと眺めた二人の男は、アトラスの予想通り親子と言う言葉にピクリと反応した。
「しかし、北と言っても広うございます。その庵とやらが何処にあるのか」
スタラススの言葉にアトラスは男たちを眺めて言った。
「本人たちが案内すると言っているのだから、間違いあるまいよ。そうだな? ライトラスとジグリラス」
一呼吸の間をおいて、年配の男が静かに笑って尋ねた。
「ほぉ、何故、そうとお分かりで?」
「ガルラナスたち地方領主に比べれば、そなたたちは長らく王宮勤めしていた頃の堅苦しい物言いが抜けて居らぬ。エリュティアを通じてシュレーブ王家への忠誠は感じられるが、ジソー殿への尊敬は感じられぬ。そして、私に向けた王を王とも思わぬ罵詈雑言。ジソー殿を見限った時にもああいう言葉を吐いたか。とすれば、そなたたちの正体も分かろうというもの」
アトラスはなるほどと頷く親子に、首を傾げて言葉を続けた。
「しかし、分からぬ事もある」
首を傾げるアトラスにライトラスが尋ねた。
「なんでしょう?」
「何故、この場所で北へ向かえと?」
「王よ。王の命を救うと称したのは嘘ではございませぬ。民の憎しみは未だ収まらず王のお命を狙う者たちがおります。そのような者たちがパトローサの手前の森に潜んでおります」
「その為に我らが王を護衛しているのです」
ギリシャ人部隊指揮官クセノフォンの言葉に、若いジグリラスが答えた。
「いや。王は軍を率いて常にその先頭にいる事は知られている。街道沿いの森に潜み、通りかかった行軍の先頭に一斉に百人が百の矢を放てば、王も避けきれぬであろう。しかし、それも彼の待ち伏せが成功すればのこと。王が目の前に現れねば待ち伏せなど意味はない」
「迂闊であった。たしかにそなたたちに命を救われたようだ」
死の危険にさらされていたと言う事さえ笑い飛ばす笑顔だった。ライトラスはそんなアトラスに頭を垂れて言った。
「我らが王よ。今ひとつお願いがございます」
ライトラスの言葉にアトラスが尋ねた。
「何だ?」
「王のお命を狙った者たち、この私に処遇をまかせてはいただけませぬか」
「いかがするというのだ?」
「王に帰順させまする」
ライトラスはアトラスの命を狙っている者たちを王の配下にするという。
「そんなことが?」
「ヴェスター国やグラト国の統治下から、シュレーブの地へと民がなだれ込んでおります。パトローサの管理を任されたラヌガン殿の統治が優れていると言えましょう。まずはそれを説きましょう」
「それだけか?」
「シュレーブにはエリュティア様に抗う者は居りません」
「ジソー殿に抗った親子は居たらしいが」
アトラスの冗談を気にする様子もなく、ライトラスは真面目な表情も崩さず言葉を続けた。
「先ほど、エリュティア様が王を導いていると言われた。そんな王の命を狙うのは私怨。国に尽くし、民に尽くす者なら、私怨など捨て去るでしょう」
そんな言葉にアトラスは短く答えた。
「では、任す。そなたが考えるとおりにせよ」
この時、緊急の用件を告げるような早駆けの馬蹄の音がアトラスたちがやってきた東の方向から響いてきて、アトラスたちは一斉に聖都の方向へと視線を向けた。馬上の男がタスキにかけた青紫の布で、ルージ国からの正式な使者だと分かった。
男は片腕という特徴でアトラスに気づいて、アトラスたちの側に馬を止めた。馬も人も疲労しきって、使者は崩れ落ちるように馬を下りて、荒い息を整えながら周囲を見回した。まずは王一人に知らせるべき内容だが王の傍らに数多くの人々が居る。
アトラスは短く命じた。
「かまわぬ。話せ」
その使者の沈痛な表情に、伝える内容の状況が知れた。テウススがライトラスとジグリラス親子をちらりと眺めた。この二人の忠誠心は未だ定かではない。アトラスはもう一度言った。
「かまわぬ。隠し事があってはならぬ」
使者は命令に頷いて短く言った。
「ヤルージ島が住民ともども海に呑まれて消失いたしました」
アトラスたちに衝撃が走った。アトランティス各地から聞こえていた災厄が、彼ら自身にも降りかかってきたと言う事である。この時、邪悪な者が彼らをあざ笑うように地が揺れた。




