絶望の終着地
夜が明けた。目覚めてみると、毛布の中で身を縮めている自分に気づく。明け方の寒さが身に染みる季節だった。それぞれの人が食料は背負えるよう荷造りして、出発の準備は昨夜の内にすませてある。
一行に加わった兵士たちが自分たちの役割を果たすようになって、軍隊の流儀を持ち込んだ。数人の兵が軽装で先行して前方の状況を探って戻る。道が地割れや土砂崩れで通れなくなっていれば別の道を選ぶ。
早朝、ジョルガスの命令で物見に行った兵士たちが戻って衝撃的な出来事を告げた。
「南への道は全て閉ざされました」
ピレナたちは目的地もないまま、北部から迫る災厄に急き立てられるように南へと逃げていた。このコレノスの町から南へ延びる街道と東南部の町を結ぶ街道がある。その両方の街道にいくつもの巨大な地割れや山の斜面の崩落があり、高台に登って南を眺めれば、地割れの先に大地はなく、海が広がっていたという。
断続的に続く大小の地の揺れの中、いつそんな状況になったのか。物見に慣れた兵士は冷静にその判断をした。
「このコレノスの町の人々が南へ避難したと聞き及びます。その者たちが戻らないと言う事は、この町の避難民たちが南へ逃げた後、大地も人もともに沈んだものと思われます」
兵士の言葉は人々も漏れ聞こえた。その言葉がいつしかピレナの周囲に集まってきた人々の人の口から口へと伝わった。ピレナと同行してきた人々は驚きで絶句し、町に残っていた人々は、身内の人々の運命に悲痛な叫びを上げて泣き崩れた。
この町から南へと逃げる事は出来なくなった。残るのはやや北へ戻る道だけだった。その先にあるのはアワガン村。この人々を収容するには小さすぎる村だが、そこにたどり着けば次の脱出路も見つかるかも知れない。いまはそう信じるしかなかった。
ピレナは人々に語りかけた。
「朝食を取ったらすぐに出発しましょう。昼前にはアワガン村に着けるでしょう」
ピレナは人々の沈黙に不安そうに首を傾げた。昨日までならピレナの呼びかけにすぐに応じたはずの人々の反応が鈍い。
一人の老女が進み出て遠慮がちに言った。
「ピレナ様。私たちもここに留まろうと思います」
「どうして?」
ピレナの問いに、老女は理由を探す時間をおいて言った。
「ここなら食料や水もありますから」
「でも……」
以前のピレナなら人々を励まし、説得する事もしただろうが、今のピレナは自信を無くしていた。そのピレナに追い打ちをかけるように乳飲み子を抱えた若い女が言った。
「ピレナ様。私もこの子も、もう疲れました。ここに残していってください」
そんな二人に続いて、何人かの年寄りが言った。
「ピレナ様。私も」
「儂も残ります」
次々とそんな申し出をする人々を前に、ピレナは肩を落として思った。
(私はこの人たちに見捨てられた)
この人々はピレナのような世間知らずな小娘を信用してついて行く事など出来ないと考えているのだろう。
短い沈黙を破って、一人の若い兵士がピレナと老女たちの間に割って入った。
「婆さんたち。悪いが昨日の夜に聞かせてもらった。もっと正直に言いやがれ」
互いに顔を見合わせ、言いよどむ者たちに代わって、その兵士がピレナに向き直って言った。
「この婆さんたちは、自分たちがついて行けば、ピレナ様の足手まといになるって考えてるんでさあ」
兵士は更に老女に向きを変え、兜を脱ぎ捨てて地面に叩きつけて言った。
「いいかっ。ピレナ様はお前たちを邪険にしたり、捨てていくお人じゃねぇぞ」
突如、彼は甲冑を脱ぎ捨てた。そして身軽になった身の背を老女ら向けてしゃがんだ。
「歩けねぇなら、俺が負ぶって行ってやらあ」
老女は神にでもするように手を合わせて感謝の言葉を繰り返した
「ありがとう。ありがとう。ありがとう」
兵は返事の言葉に詰まった。生まれてこの方、誰かから感謝されるのは初めてだった。その経験の心地よさに兵士は涙を浮かべた。そんな光景を眺めた別の兵士もまた甲冑を脱いで幼子を抱き上げた。そうやって全ての兵士が甲冑を脱ぎ捨てていた。上官の命令もなく武具を捨てるなど軍紀違反だが、ジョルガスは兵を叱責しなかった。
陽が高く登る前に出発したが、人々の歩みはますます遅く、コレノスの町の人々も加わって列は長く伸びた。大地は小さく揺れ続け、時折、思い出したように人々の足下をふらつかせるほど揺れた。そんな中、ピレナは列の先頭にいたかと思うと、後方へと移動して遅れがちな人々を励ました。
それでも陽が中天に差し掛かる頃、隊列の先頭は峠にさしかかった。峠を越えれば眼下に目的地のアワガン村が見える。しかし、ピレナはそこで愕然とした。アワガン村の西には広大な砂浜が広がり、多くの漁船がその浜に揚陸し、不漁の失意も豊漁の喜びも村の人々は共有した。その砂浜が大きく削り取られて海に変わり、そこにあったはずの船もなかった。外洋から浜を守って波の静かな入り江を作っていた二つの岬の一つも消失して外洋の荒い潮の流れが海岸を洗っていた。
ピレナの到着から間もなく、一日遅れて都を発したリネが、彼女が率いる人々と共にアワガン村に到着した。
良く整備された内陸部の街道は、地割れで寸断されていて、ピレナはずいぶん回り道をしながらここにたどり着いた。母は通る事が困難になった内陸部の街道を避け、敢えて危険とも思える海辺に沿ってきた。都からの距離は近いが、荷車の車輪が砂浜にめり込み、岩場を越える事は出来ず、荷車を捨て、荷物は人が背負ってきた。
ピレナは母に駆け寄って、涙を抑えるために母の胸に顔を埋めた。民を率いる者として弱音は見せられない。そんな思いが僅かに融けて、瞼をぎゅっと閉じて流す涙は一筋に留めた。母親は娘の疲れ切った表情に彼女の背負った労苦を思い、娘を優しく褒めるように抱いた。
しかし、顔を上げた娘に、母リネは首を否定的に振って衝撃的な出来事を伝えねばならなかった。
「もう、都はありません」と。
リネが都を離れてしばらく、峠道で都を振り返った時、大地の巨大な揺れと共に、都がそこに残っていた人々と共に崩れ去り、その後に押し寄せた巨大な波は峠にいたリネたちにも及ぶのではないかと恐怖感を感じるほどだった。その波が引いた後には何も残らず濁った海面だけだったという。
母親の目撃談とはいえ、生まれ育った思い出深い町や舘が消滅したというのは信じがたい。母リネ放心状態の娘をもう一度抱きしめた。ピレナは母の胸の中ですすり泣くように呟いていた。
「やはり私は何も出来なかった」
この村を通るどの街道も閉ざされた。船はなく海を渡って脱出する事も助けを求めに行く事出来ない。彼女は人々を救うと大言壮語して、人々を連れ回したが、その絶望の終着点がここだった。
この村に居た人々も、リネやピレナに連れられてやって来た人々も、うすうす絶望的な運命を悟り始めていた。しかし、人々は不安な表情を見せていたが平穏を保っていた。
一人の女が呟くように言った。
「これからどうなるんだろうねぇ」
「ここも海の底へ引きずり込まれるんだろうか」
男の疑問に、慌てて老人が答えた。
「しっ。滅多な事は言っちゃいけねや。海の悪霊に聞かれちまわぁ」
アトランティスの人々はこの大地のあちこちに目に見えないが精霊が居ると信じていた。その精霊の中でも、人々が口にする不安や恐怖を聞きつけた悪霊はそれを現実にするとも言われている。
人々は絶望を口にせず、亡くなった肉親を偲んですすり泣き、腕の中の赤子の運命を思って抱きしめたりした。
その中、兵士たちはやや冷静で、絶望的な運命を忘れるよう、ジョルガスの命令で天幕を設営し始めた。人口は二百人に満たない村で、突然に現れた千人近い避難民が夜を過ごす場所を作らねばならないのである。
村長は王母と王女の突然の来訪に驚いで出迎えたが、貧しい村に高貴な者をもてなす余裕はない。
村長の傍らにいたフェリムネが申し出た。
「リネ様とピレナ様は、私の家に」
一瞬、リネとフェリムネの視線が交わった。二人とも互いの存在には気づいていただろうが敢えて気づかないふりをしていた。先代の王リダルという一人の男を愛した二人だった。




