聖都(シリャード)解放、その後
歴史に埋もれて消えた世界。しかし、現代から遡る事、三千数百年前、人々はその海に沈んだ大地で生き抜いていた。
今、アトラスは、その大地の上、戦の中心になった聖都の東の郊外を馬でゆるく駆けていた。彼の目には景色ではなく、その混沌が映っていた。思い起こせば、奇妙で欲望にまみれた戦だった。
アテナイを主力とするギリシャ諸部族の軍からアトランティスを解放するという戦いの目的は、その初期の段階から破綻して、アトランティスの国々同士で剣を交える戦になった。三年間にわたって続いた戦も、今は一時の平穏を迎えた。アトラスはその仮初めの平穏の立役者だった。
目の前にそびえる城壁が囲むのは、アトランティスにあった九つの国を、真理の女神の元に統率した都市国家だった。しかし、彼がこの三年間に戦火に巻き込んだ多くの町や多くの人々を象徴するように、町は荒れ果て住人たちは疲れ切っている。しかし、人々は生き続けるために立ち上がった。
一組の母子らしい人影がある。母は近くの森で拾った枯れ枝を束にして背中いっぱいに背負い、傍らの幼い息子も健気に一束を背負っていた。アトランティスの人々が火屋と呼ぶ仕事で、拾い集めた薪を売り歩く。人々がこの荒れ果てた都市を住処と思い定めたと言う事だった。かけ声と共に森から切り出した樹を材木にする男たちがいる。その材木を運ぶ男たちは、都市の中で賑やかに鋸や鎚の音を響かせる大工へと引き渡し、材木は住居や商店に生まれ変わっていく。
しかし、希望に満ちた人々がアトラスに注ぐ視線は冷たく、時に憎悪が含まれていた。地に唾を吐いてアトラスへの嫌悪感を示す者たちも多い。ただ、アトラスはそんな希望と憎しみの全てを飲み込むように平然とした表情を崩していない。
アトラスの背後にいたレクナルスが、馬の腹を軽く蹴って、彼の意志を馬に伝えてアトラスの傍らに寄せ、人々の憎しみの視線から遮った。
彼は言った。
「我らが王よ。そろそろ戻りませぬと」
アトラスはそんな提案に耳を傾けず、笑いながらレクナルスを褒めた。
「レクナルスよ。いつの間にか、馬の扱いが上手くなったな」
確かに、彼の手綱さばきは自然で、何より馬から信頼されているように見える。背後から自慢げに叫んだのは、アトラスに幼い頃から仕えた近習の一人スタラススだった。
「私の教え方が上手かったと言う事ですよ」
「何を言うか。私が必死だったのだ。馬に乗れねば、我らが王をお守りする事がかなわぬ」
レクナルスの真面目な表情に、幼さがかいま見える。歳は十六を越えたばかり、アトランティスでは子どもから一人前の大人になりかかったという印象の年齢だった。ルナイロスの地の領主ラクナルの孫だった。ラクナルが主家を見限って敵のアトラスに付いた時の人質の身分もそこそこに、今はアトラスの近くに仕える近習の身分でいる。
更にもう一人、落ち着きのある声が響いた。
「王よ。レクナルスの言う事、耳を傾けなされますよう」
アトラスの左に馬を寄せてきた近習にアトラスは頷いた。
「テウススよ。分かっている」
この都市を開放するために兵を進めた時、レクナルスの祖父ラクナルたちのように敵に臣従する事で戦火を逃れた者たちが居る一方、主家に忠誠を尽くしたり、臣従する間もなく戦火に巻き込まれた領主も多い。とりわけ、シュレーブ国に北から攻め込んだヴェスター国、南から攻め込んだグラト国の進撃路にあった領地は、戦火に見舞われ、実りを付け始めた畑は焼かれ、食料は敵ばかりか味方の兵士まで収奪された。男たちは味方からは兵として狩り出され、敵からは労役に奴隷同然使われ、女たちは敵の兵士に犯されるのを恐れて身を隠した。畑を耕す者も収穫する者もなくなり荒れ果てた。
そんな土地で飢えて、生きるために、アトラスの統治下のリマルダやシュレーブの地に流れ込んでくる者たちが増えた。そんな者たちのために雨露を凌ぐ家と食料の調達が必要だった。
「では、戻ろう」
「何処へ?」
「決まっている。南の陣へ」
聖都攻略の際、アトラスは本陣を聖都の南に置いた。聖都解放後も、聖都の中には兵を収容する場所もなく、そのまま兵を留めている。
聖都の中には旧シュレーブ国の王の館があり、アトラスはその館の主で旧シュレーブ国の姫エリュティアと結ばれた。彼女の夫としてアトラスだけでも王の館で寝起きすることは出来ただろう。しかし、アトラスは戦場では兵と共にあれという父の遺訓を守ると称して、一日の大半を聖都の外で過ごしている。自然、若い妻との会話は少ない。
「乗馬に慣れたと言えば、もう一人いましたね」
テウススの視線の先に、一人やや離れてアトラスたちの前方の安全を確認していたアドナがいる。彼は振り返ったアドナに手を振って、帰るぞと伝えた。テウススが称した通り、アドナもいつの間にか馬の扱いに慣れて、馬と呼吸が一致しているのではないかと思うほどだった。
陣に戻るという意図を知ったアドナは首を傾げて尋ねた
「それで、エリュティア様のこと、どうするのだ?」
奴隷上がりの女は、貴人への言葉遣いを知らず、言葉が荒っぽいのは相変わらずだった。ただ、常に本心を語っている正直さが滲んでいる。アトラスは投げかけられた言葉の乱暴さは気に掛ける様子もなく尋ねた。
「エリュティア様がどうしたというのだ?」
「愛しているなら、愛していると言わねばダメだ。夫婦なら可愛い子どもも作らねば。エリュティア様も望んでいるだろう」
彼女は、王が夫として妻と距離を置きすぎていると叱りつけていた。テウススたち近習は、その言葉と困惑を隠せないアトラスに笑いをかみ殺した。幼い頃からアトラスの傍らに仕え続けてきたが、王の夫婦関係にまで口出しはし辛い。しかし、アドナは王妃の寂しさを機敏に察していたのだろう。
テウススたちは彼女の真摯な言葉と態度を笑いながら褒めた。
「アドナよ。お前も女だったんだな」
その勝ち気な性格と腕力で、彼女の性別を忘れがちになるという。真面目な彼女は素直に怒りを見せた。
「何を言うか!」
「分かった。行こう」
アトラスはため息をつくようにそう言い、続けて命じた。
「テウスス、スタラスス、レクナルス。お前たちは先に戻っていろ。私は館を訪れて、すぐに戻る。護衛はアドナ一人で充分だ」
テウススたちは顔を見合わせた。いま、アトランティスの平和はアトラスが掲げた天秤の上で釣り合っている。もし、この大地で彼が亡くなれば、アトランティス全土は、再び戦火の混乱に見舞われるだろう。そして、この大地でアトラスに恨みを抱く者たちは多い。
近習たちは一人で出かけたがる王をなだめて、命を守る護衛という言葉も避けて、王と共に遠乗りを楽しむという名目で来た。
ただ、アドナは忠実さと腕力で護衛として申し分ない。そして、女性としての心情も信頼に値するようだ。王が妻の元を訪れるのに同行させる護衛としてふさわしい。
三人の近習は命令に納得して馬首を南の陣へと向けた。
「アドナ、頼んだぞ」
テウススがそう言ったのは、アトラスが何か理由をつけて避けようとしても、耳を貸さずに王妃の所へ連れて行けと言う事である。
レクナルスが続けて言った。
「頑張れよ」
何を頑張れと言うのだと、首を傾げたアドナにスタラススが言った。
「アドナ。女だと言うところを見せてみろ」
夫に距離を置かれて寂しがっている王妃の心根を、アトラスに教えられるのはお前だけだと言ってるらしい。
アトラスは去っていく近習を眺めて、ため息でもつくように視線を転じて言った。
「アドナよ。我らは聖都の中へ」
その視線の先に聖都の城壁がそびえ、東の城門が見える。ただアトラスの視線は城門から少し逸れていた。東の城門の付近にいくつもの墓標がある。いまはそこが巨大に墓地に変わっていた。墓標の数に意味はない。多くの者たちが亡くなり、一人づつ埋葬する手間も掛けられず、大きな墓穴に病死者が何体も放り込まれて埋められて、その正確な命の数は誰も知らない。聖都の流行病の病死者に、聖都攻防の敵味方の戦死者も入れれば数千人の命が存在した事を示す場所だった。
アトラスが平静を装う表情が固かった。




