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新たな指針

「誰かのために生きれば、人は寂しくない」

                  ~ピレナ~

 まるで破滅の予兆のように、大きく、小さく、大地が揺れて、人々は心を落ち着ける暇がない。足下が左右に揺れたかと思うと、不意に上下にも揺さぶられて尻餅をつきそうになる事もある。静寂が続く中、突然に響いた轟音の方向を眺めれば山の斜面が木々と共に崩れて流れる景色だった。

 日暮れまでに目的地に着くというピレナの目論見は楽天的すぎた。破滅的な災厄が北から迫ってくると言う考えも誤りだったのかも知れない。幾日も前から、このルージ島は、潰され、引き裂かれ、上下に揺すぶられて、全島に渡って不気味にきしんでいた。


 目の前に出現した光景にピレナは絶句した。

「そんな……」

 ここに来るまでに眺めたどの地割れより大きい。地割れの幅は人の背丈ほどの高さがある。若い男なら助走を付けて飛べば向こうに着地する事は出来るかも知れない。しかし、老人や子ども、乳飲み子を抱えた女には無理だ。

 右手の方向には土砂崩れを起こして間もない山の斜面かあり山越えは難しい。左手の方向には地割れが深い森の中へと伸びている。何処まで続くか分からない割れ目が途絶える場所まで、数百者人々が密な木々の間を抜けて行くのも難しい。

 振り返って考えても、この場所から目的地に至る道はこの街道だけで、回り道をするためには一日は元来た道を戻らざるを得ず、戻ったとしても新たな道が見つかる可能性はない。

 彼女は振り返って背後にいた避難民たちを眺めた。ピレナたちは既にいくつかの地割れで通れなくなった荷車を捨ててきた。ここから先に進むために、荷車を捨てたように年寄りや女子どもを捨てて行かねばならないと言う事だろうか。

 多くの民を率いる責任の重さに、彼女は食事どころか睡眠も充分に取れずにいる。体も精神も疲れ切って考えがまとまらない。彼女が不安や絶望を口にすれば彼女が導く避難民たちへと広がるだろう。彼女は作り笑顔を崩す事も出来ない。

(どうしたら、いいの?)

 そんな言葉だけが心の中で空回りして、彼女は惚けたように表情を失いかけていた。その時、避難民の中から一人の若者が進み出て言った。

「ピレナ様。私がアレを飛び越えて町へ行き、助けを求めて来ます」

 別の若者も進み出て言った。

「俺も行きます」

 次の若者も進み出た。

「私も」

 三人目の青年の言葉を聞き、彼らの姿を眺める頃から、ピレナの固くこわばった笑顔から緊張感が抜け去っていった。彼女は青年たちに静かに、しかし力強く微笑んで言った。

「頼んだわよ」

 若者たちが助走で勢いを付けて地割れを飛び越え、南の方に駆け去って行った。ジョルガスは青年たちを見送るピレナの表情を見て思った。

(この方は、これほど清々しい笑顔をされるのか)

 そのピレナは一人小さく呟いていた。

「私も誰かを頼って良いのね……」

 今までこの国の王女として自分が避難民たちを守り支えてやらねばならないと考えていた。ただ自分の限界を知ってみると、他人に支えてもらう事が恥ではなく、心が一つに成れる心地よさがピレナの心を解きほぐしていた。

 背後の避難民たちも彼女と共に青年たちを見送っていた。ピレナは振り返って人々に言った。

「では、私たちはここで彼らの帰りを待ちましょう」

 ピレナの言葉に、一人の女が仲間を代表して提案した。

「姫さま。私たちは森で食べられるものを探して参ります」

 初秋の木々の中には、付けた実を地面に落としているものがある。食用のキノコや野草も見つかるかも知れない。数百の避難民の腹を満たすには足らないが、少しは役に立つだろう。

「まだ、地が揺れるから気をつけて」

 ピレナの言葉に女たちは冗談を返した。

「そうすれば、木々はもっと実が落とします」

 心を一つにした人々の中から不安が薄れていた。人々は自らの役割を決めて働き始めた。男たちは避難民の中から水筒をかき集め、街道を戻って川に水を汲みに行った。女たちは子どもを連れて木の実を拾い食用になる野草を摘みに行った。年寄りは枯れ木を集めて、手際よく火を熾した。

 しかし、ジョルガスとその配下の者たちはただの客だった。彼らはいままで戦場で敵を殺し、占領地では家に火をかけ民の財産を奪い女を犯した。そんな経験は木の実を探す事も食用になる野草を得る知識も無かった。薪を集める手伝いをしようとした兵士は、生木を抱えて、そんな物が薪になるかと笑われたあげく、邪魔になると叱られる有様だった

 そんな中、ジョルガスは冷静に疑問を抱いていた。

(たしか、ストイロスと言ったか。忠実な領主がどうして救援の手を差し伸べない?)

 この辺りは既に領主ストイロスが治める地で、都からピレナが避難民を連れてくる事を知り、この街道の状況も知っていれば、領主が修復を命じているだろう。


 その夜、人々はいくつもの焚き火を囲んでいた。ピレナは焚き火から焚き火へと移動して人々を気遣い、励ましの言葉をかけ、時に冗談を交わしていく。そんな彼女がジョルガスたちが囲む焚き火にも姿を見せた。焚き火に照らされて彼女が首を傾げるのが見える。

「なあに? 変な人ね」

 笑い声ともつかぬ彼女の言葉に、ジョルガスは彼女を見つめていたわけを語った。

「アトラス様の面影と重なっておりました」

 その言葉に敏感に反応して、ピレナは彼の側に気さくに腰を下ろして尋ねた。

「兄を知っているの?」

「一度、聖都シリャードの北で、遠目にお見かけした事がございます」

「どうだった?」

「勇壮な雰囲気を纏っておられ、稀代の英雄かとぞんじます」

「そうなの」

 意外そうな声だった。彼女が心に抱いていた兄のイメージとは違うらしい。ジョルガスは記憶を付け加えた。

「アトラス王が家臣たちと冗談まで交わす様子、家族かと思うほど」

 今度は彼女の肉親としてのアトラスの印象と重なったようで、ピレナは表情を輝かせた。

「それは分かる。でも冗談を交わすぐらい序の口よ。寒さや飢えは家臣や民と共に分かち合えば、喜びも分かち合えるって」

「分かち合うと?」

「父リダルの受け売りよ。でも、父もその父からそう教えられたって」

 そう言って腕を天に向けて伸びをし、欠伸をしたピレナに、ジョルガスは聞いた

「リダル様も?」

 答えを聞かなくともジョルガスは理解した。分かち合う、それがルージ国の王家の家訓だったし、避難民たちの様子を見れば、王家の家訓はこの国の人々の間にも根付いている。

 疲れ切って眠気に襲われたピレナの返事はか細い。

「誰かのために生きれば、人は寂しくない」

 ジョルガスたち気がつけば、ピレナは寝息を立てていた。いつしか、ジョルガスの周りにいた兵士たちもピレナの話に聞き入っていた。そんな兵士たちにジョルガスが目配せした。彼らもその意図を察して、物音を立てて彼女の眠りを妨げないようにそっと立ち上がって、隣の焚き火へと移動していった。ジョルガスは大切なものでも扱うように、彼女の体に毛布を掛け、焚き火の温みが朝まで保つよ、う太い枯れ木を焚き火に加えた。

 最後にジョルガスがも立ち上がり、移動しながらピレナの言葉を小さく呟いた。

「誰かのために生きれば、人は寂しくない……」

 彼にとって新たな人生の指針だった。

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