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エピローグ ローホムスが語り継いだもの 

 アトランティスから船出したエキュネウスたちが、無事にどこかの土地を踏んだかどうかの記録は、見つかっていない。アトランティスはどの国、どの民族の歴史にも残らず、記憶の片鱗は人々の伝説と化した。


 そんな現代。アトラスやエリュティアから遙か遠く、時と場所を隔てたアジアの東端の国。冬の冷たい風が吹き渡る市街地の一角に古いアパートがある。住人たちが次々に眠りから覚めて日々の生活を始める時間帯を迎えていた。

 いま、そのアパートのドアの内側から窓ガラスを拭く小さな手が見えた。曇りが拭われたガラスの内側で、幼子が好奇心に満ちた目で、真理を求めでもするように屋外を眺めていた。


 その男の子はアパートのドアを開けて冷たい大気に目を細めながら身を乗り出した。彼が見上げた空は、家並みに切り取られて細長く青い。彼は大きく生命感のある息を吐いた。吐く息が白く雲のように見える。その雲も大気に融けて、この土地は間もなく春を迎える期待がある。

 彼は玄関先の犬小屋の前で激しく尾を振るむく犬のモジャに歩み寄ってその頭を撫でた。命の片鱗が体温になって伝わってきた。

 ふと、彼は軒先に野草を見つけた。それは、アトラスたちがローホミルと呼んだ野草にそっくりで、冷たい大地の上で小さな緑の葉を茂らせ、その緑の中にこの季節最初の青紫の小さな花を咲かせていた。

 男の子は何かの呼びかけに応じるように、その花の前にしゃがみ込んで指を伸ばした。その仕草はピアニストの指先のようにリズミカルで、強く、優しく、葉を撫でた。

 その不思議な仕草の訳を尋ねる若い女の声が響いた。

「おはよう。かずちゃん。何をしているの?」

「あっ。マリアさん」

 幼児がマリアさんと呼んだ女性は、南米の人々の陽気な顔立ちに、アジア系の雰囲気を漂わせていた。かずちゃんの表現では、このアパートの中で一番遠くから来た住人である。

 南米のペルー生まれの彼女は、幼い頃から童話作家になりたいという夢を持っている。彼女が抱く物語の世界観に曾祖父母の故郷のイメージがあって、日本という国を知りたいと考えた。ただ、日々の雑事に心を迷わせ、生きる目的を見失いそうになる。

 かずちゃんがそんなマリアに答えた。

「葉っぱにさわったら、この草の気持ちがわかる気がしてん」

 そんな言葉で眺めてみれば、彼女もどこかで同じ野草を見た記憶がある。マリアはかずちゃんの感性を愛でながら、自分も幼い彼と同じ同じ感性を持っていたはずなのにと、後悔でちくりと胸が痛んだ。彼女は記憶を辿って言った。

「日本ではね、『言の葉』っていう言葉があるのよ。もしもその葉が、誰かの気持ちを伝えているのなら素敵よね」

 彼女はかずちゃんの背後にしゃがみ込んで、彼の大きく開いた襟元を整えた。じっとしているだけで、人はその肌寒さに上着の襟を立てたくなる。

 そんな環境のなか、若い金髪の女性が二人の側に駆けてきた。Tシャツと短パン姿で心地よさそうに暖かな白い息を吐いていた。このアパートから川を渡り、大阪城公園を一周して戻る。彼女のいつもの日課だった。

「何をしてんの?」

 彼女はそう尋ねながらも、まだ運動不足と言わんばかりに、駆けるように脚を動かしていた。

「ヘレンさん。この花がね……」

 かずちゃんが言い終わる前に、マリアが言葉を補った。

かずちゃんって詩人なのよ。この花や葉から何かを感じるんだって」

 そう言われて眺めた野草に、ヘレンは笑顔を浮かべた。

「あらっ。わたしも知ってる。故郷で見かけた事がある。ここでも咲いてるんやね」

 アメリカ軍士官だった父親とともに、幼い頃から何度か住まいを変えた。この花の記憶はあっても、何処で見たのか思い出せない。それほど身近で咲いている花という印象がある。

 しかし、彼女の自然な大阪訛りに、この地で長く過ごした事が分かる。自分の人生を見つめ直したいという思いも薄れ、いつしか近所のジムでインストラクターをしながら暮らすのも慣れた。彼女の日々のレーニングも、そんな安直な安定を振り払うためだろうか。


 アパートの住人たちが、仕事や学業を始める時間を迎えていたのだろうか。続いて体格の良い青年が玄関のドアを開けて出てきた。

「おはよう。ジェスールさん」

 かずちゃんに挨拶された男は大きな手でかずちゃんの頭を撫でて、他の居住者たちの視線を追って地面を眺めて会話に加わった。

「なんていう花だい?」

 マリアとヘレンが眺める花に、彼も似た花を眺めた記憶がある。ただそれが何処だったのか思い出せない。幼い頃に両親を失って幼少期を過ごした。どうして自分が人より不幸なのか思い悩む日々を過ごして、その答えを探し求めるように世界を彷徨ってこの地にたどり着いた。

 妙な事にこの極東の地の生活は、自分が生まれたトルコという出自を想い出させる。その血筋を考えた時に、思い悩む自分が居る。何をすべきか。その決意に踏み切れない自分に苛立ちを感じる事がある。


 続いて姿を見せた長身の青年が、彼等の視線の先にある花を見て、即座に学名を判別した。

「ヴェロニカ・ペルーシカ。ヴェロニカという聖女の名前が由来になってる」

 彼は聖女の名によってこの野草の名を記憶していた。しかし、迂闊な事に母国で何という名がつけられているのか忘れてしまっていた。それが今の彼を象徴している。幼い頃に日本という国を知った時、強大な隣国に踏みにじられ続けた母国ポーランドに比べて、夢の国のようなイメージが芽生えた。未熟な好奇心は、日本という国のおもしろさを知るほど、母国を貶めるかのような気分にさせた。

 しかし、日本の大地の上で眺めてみれば、決してこの地は夢の国ではなかった。近代化の中だけでさえ、人々は多くの血を流し、多くの命の犠牲の上に今の日本人がいた。彼の夢は根底から揺らいでいる。

 続いて出てきた黒人青年がそんなアダムを笑いながら評した。

「さすがに物知りアダム。でも、俺も知ってる。花言葉は、信頼、清らか、忠実。原産地はヨーロッパとされているけど、具体的に何処なんだろうね」

 彼は電気技術を学ぶためにこの国に来た。技術者を目指すという割に、自然に関する感性は豊かで数日前にはこの花の存在に気づいていた。理由もなく気を惹かれてネットで調べていた。

 かずちゃんが感じ取ったままを口にした。

「この花は、ずっと遠くから。マリアさんより遠くから来てんで」

 かずちゃんがこの野草から感じ取ったメッセージでは、原産地はヨーロッパやアフリカよりずっと遠くだという気がする。もちろん、大人たちは想像力豊かな子どもの言葉は気にとめていない。彼は自分を理解してくれるにはお前だけだと、不満で頬を膨らませて愛犬モジャの頭を撫でた。

 続いて出てきたのは、若い中国人夫婦だった。他の住人たちの会話を聞いていた彼等も、その野草の姿に記憶がある。

「中国では、阿拉伯婆婆?と呼ぶよ」

 妻の宇春ユーチェンの言葉に、夫の天佑チンヨウが首を傾げて否定した。

「いや。それは波斯婆婆?だよ」」

「いいえ。阿拉伯婆婆?よ。間違いないわ」

 宇春ユーチェンが眉を顰めてそう言った。二人は互いの記憶を主張する。ただ中国の中でも、この野草には幾通りもの呼び名があってどちらも正しい。

 かずちゃんがため息をつくように、夫婦に言い聞かせて言った。

「呼び方はいろいろあるから、どうでもええねん。大事なのはねぇ」

 かずちゃんの言葉に耳を傾ける者も居ない中で、アパートの玄関に新たな人物が姿を見せた。早朝から玄関先が騒がしい。愛犬の食事を運ぶついでに様子を伺いに来たアパートの管理人で和ちゃんの祖父である。彼は住人たちの視線を追って、その日本名を口にした。

「オオイヌノフグリが、どないかしたんか?」

 中国人夫婦が首を傾げて夫婦そろって尋ねた。

「オオイヌノフグリ?」

「大きな犬の睾丸こうがんって意味や」

 マリアが意味の分からない言葉を尋ねた。

「コーガン?」

 言葉の意味を女性から直接聞かれると説明に戸惑う。他にも女性も居て説明しづらい。しかし、ちょうど説明に便利な愛犬モジャがいた

 管理人はモジャを背後から抱き上げて股間にぶら下がっているものを指さした

「これの事や」

 股間を晒されて指さされたモジャが、露骨に迷惑そうな目つきをした。住人たちはその言葉の意味を理解したが、同時に眉を顰めて非難の目を管理人に向けた。日本人はその可憐な愛らしい花に、何と可哀想な名をつけるのだろう。非難の視線を浴びた管理人は説明せざるを得ない。

「日本には在来種でイヌノフグリって野草があるねん。その実がちょうどこんな感じや」

管理人が再び愛犬の股間を指さしたため、ヘレンは眉を顰めてもうその説明はいらないと手を振って拒絶した。

 管理人は説明を続けた。

「この野草が日本に入ってきたのが、明治時代の初めらしいわ。在来種のイヌノフグリに似ていてそれより少し大きいから、大きいという意味でオオイヌノフグリ」

 管理人の言葉に補足するとすれば、在来種のイヌノフグリの実はふくらみが二つぶら下がっているように見えて、その形状は名前の通りに見える。ただ外来種のオオイヌノフグリの実は在来種の実と上下が逆さになったハート型という違いがある。


 いつしか黒髪でアジア系の顔立ちに眼鏡を掛けた風貌の女が会話の中に居た。そのタイ人チェルニーは首を傾げた。

「メイジジダイ?」

 年号で言われても外国人にわかりにくい。管理人はわかりやすく言った。

「サムライの時代が終わって、日本が近代国家に生まれ変わる時代」

 そう言われてみると、同じ頃に近代化を迎えた彼女の母国タイの歴史と重ねて理解できる。そんな質問や回答も彼女の心の迷いとは関係がない。彼女には産婦人科医という具体的な夢があるように見える。医師になって何をしたいのか漠然とした思いの中で戸惑っている。


 かずちゃんは大人たちの話しを聞きながら、どうでも良い事を排除して、大切な本質を学び取った。この野草は世界を長く旅して世界の人々の記憶に残っている。そしてかずちゃんも良く知らない明治という時代に、日本にたどり着いて定着した。

 管理人が名誉回復の言い訳するように言った。

「中国と同じで、日本にもこの花に瑠璃唐草とか星の瞳とか、いろいろな別名もあるで」

 いつしかこの草花は世界に広がって、人々の心を癒すように心に寄り添って、国の数より多くの名を与えられていた。ただ、かずちゃんは首を傾げた。この野草から感じるもの。この花が伝えたいのは名前や原産地ではないかもしれない

「あのね……」

 ただ、誰もかずちゃんの言葉に耳を傾けているとは言い難い。みんなの目はいつしかこの野草に向いていた

 遠く紀元前の過去から今まで、世界各地でこの草花に触れた幾人もの子どもたちが、この草花が伝える言葉を語っただろう。その都度、大人は子どもたちの想像力に微笑んできたのかも知れない。子どもたちは感じた事を伝えきれないもどかしさをいつしか忘れて、大人になっていく。

 

 語り部としてのオオイヌノフグリの声は小さい。しかし、初めてこの花を見た者は、かずちゃんのように、この小さな花の優しい微笑みに誘われて、汚れのない心の奥底を覗く。そんな子どもたちは、大人になってこの花の記憶を辿って、自分が真摯に生きてきたかを心に問いかける。

 いま、この花に集う者たちはそれぞれが心に悩みを抱え人生に迷いも持っていた。この花の記憶を通して自分の人生を問い直していた。


 いま、何故、自分はここにいるのか

 自分は何をしたいのか

 

 アパートの住人たちがそろって肩からほっと力が抜けた自然な笑みを浮かべたのは、自らの心の迷いに向き合った証拠だろうか。

 そんな表情を眺めたかずちゃんは思った。

「まぁ、ええか」

 それが、かずちゃんの判断だった。彼の言葉は聞き入れてはもらえないようだが、彼等の姿を見ていると、不満は薄れた。この花をきっかけに、何かを自分の心に問うているようで、探し求めた夢を掴むきっかけを得たように見える。

「一生懸命に生きたらええんやて」

 かずちゃんが伝えた言葉に、大人たちは頷いてその通りだと心に刻んだ。

「そうね。貴方の言うとおり」

 マリアたちは夢と人生の目的に向きあわせてくれた感謝を込めて、かずちゃんを眺めた。しかし、子どもは気まぐれで、オオイヌノフグリの事など忘れて、次の真理の探究に夢中だった。管理人は微笑んで孫が指先で撫でる野草の説明をした。

「それはホトケノザ。花が咲くのは、オオイヌノフグリより少し後やな」

 葉の形は似ているが、冷たい大地を優しく被うオオイヌノフグリに比べて、茎を高く空に伸ばして葉を茂らせている。

 ただ、それで良いのかも知れない。ローホミルに出会ったおかげかどうか分からないが、人々は遠い過去の人々が託した思いを胸に抱いている。


 ローホミルをお守りにアトランティスを旅だった赤児ローホムスは、養父母に語って聞かされる故郷とそこで生きた多くの人々の記憶を心の中で精製した。


『生きるためだけに懸命に生きて繋がった。そう、私たちは同じ人間なのだから』


 これが、アトランティスの人々が溶け合って伝えたい思い。現代で様々な呼び名で人々に寄り添うローホミルによって語り継がれているとしたらどうだろう。

 でも、かずちゃんなら、アトラスとエリュティアの息子ローホムスが、野草ローホミルに託して伝える言葉を、この土地の訛りで語るだろう。

「そんな難しいことは、どうでもええねんで。一生懸命に生きてきてるから、人間って、心が繋がってるんやわ」

 かずちゃんの笑顔が澄んでいて美しい。おそらく、ローホムスが伝えたアトランティスの人々の思い。それをローホミルから受け取って伝えた子どもたちの数え切れない笑顔と重なったせいだろうか。


 この長い物語を紡ぎ上げた多くの人々は、歴史に名を残すことはなかったが、その生き方は語り継がれている。


  反逆児アトラス 了

あとがき

 本編に続いて、このエピローグで、この長い物語も完結を迎えました。皆様の心にも物語の登場人物たちの生き方が残りますように。


 実は、この物語には二つの異なったエピローグの為の伏線が挿入してありました。

一つは、

 このエピローグのためにちりばめたローホミルのエピソード。

もう一つは、

 敬意を抱いた味方や敵の武人と剣を交換するという習慣のエピソードが数カ所に入ってます。本編のラストで、旅立つエキュネウスと見送るアトラスが剣を交わし、遠く時を経た現代。北アフリカの古代の遺跡から不思議な剣が発見されて、それがアトラスの剣だったというもの。


 どちらのエピローグが本編の締めくくりにふさわしかったか、感想欄でご意見が伺えれば幸いです。


 また、もし気が向いたら、エピローグに登場したかずちゃんと、アパートの居住者たちが織りなす物語もお読み下さいね。アパートの居住者の在日外国人たちが、日本の大阪で、母親の愛情や父が子どもに伝えるものなど人々に普遍的な秘密と触れます。

Web上で読むのもダウンロードも無料です。すみませんが直接リンクできませんので、次のURLをコピペして移動してくださいね。


「ひょうたんから駒 ~悲翔 偽りと真実の母子~」

父母を事故で失っている和ちゃんの前に不思議な女性が現れて、いつしか人々の心に忍び込み、和ちゃんの母として暮らし始めます。やがて正体を暴かれそうになった女性は大切な和ちゃんを連れて、不可思議な空間に……。それを負ったアパートの住人たちは、彼女の闇と希望を目撃することになります。

https://puboo.jp/book/23568


「瓢箪から駒 ~約束の土地 イスラエル失われた支族~」

イスラエルから来た新たな住人。彼がきっかけで、アパートの住人たちは1400年前の大阪にタイムスリップ。そこで、日本にたどり着いたイスラエルの失われた支族の青年と、日本人女性の悲しい関係を目撃することに……

https://puboo.jp/book/106992


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