アトランティス最後の日
彼らは、ただ、生きるためだけに懸命に生きた
そう。私たちと同じ人間なのだから
最近、森の川の畔が賑やかだった。日中は、女たちが男たちが泥まみれにした衣類を洗濯に来る。夕刻になると、作業で泥まみれになった男たちが、体から泥を荒い流しに来る。
この日、川辺で顔を洗うマカリオスは、幼なじみのクラトスと並んで視線を合わせる事が出来ないまま詫びた。
「すまないな」
クラトスはその謝罪の意味を悟って応じた。
「お前が詫びる事じゃない。俺の父は勇者には成れなかったと言うだけさ」
勇者の息子には乗船の権利があり、そうでない者にはそれがないと言う。マカリオスは哀しげなクラトスを励まして言った。
「そんな事を言うな。俺の父もお前の父も共に戦って死んだんだ」
「俺にとっては自慢の父だった。俺だってその父の故郷を見てみたい」
クラトスが心を落ち着けるのを待って、マカリオスは本当の用件を切り出した。
「頼みがある」
マカリオスの言葉にクラトスは察して言った。
「ヴァレリアさん、お前の母親の事か。心配するな。俺の死んだ母親だと思って大切にするさ」
「いや。デルフィネの事だ。俺は彼女を残して行かなくちゃならない。彼女を夫として守ってやってくれないか」
それを聞いたクラトスは、怒りを露わにして立ち上がった。
「お前はデルフィネを捨てて行く。だから、俺に押しつけると言うのか」
彼はマカリオスを力一杯殴りつけて、地に転がったマカリオスを睨んで言葉を続けた。
「思い上がるな。要らなくなった犬を捨てるようなまねは許さないぞ。彼女の事は彼女自身が決める。それだけだ」
クラトスはそれだけ言い終えて大股で自分の天幕に戻って行った。マカリオスは何も反論できないまま地を見つめて呟いていた。
「俺だって……」
そう呟きながら、昨日相談した時の母の言葉を思いだした。
「お前はアイネアスの息子だよ。父親ならどうするか、それだけを考えなさい」
いよいよ坂の縁が海面に接する時が来た。その縁の地面に片膝を付いて右腕を伸ばせば、指が海面に届く。秋の冷たい海の感触だった
坂の下から空を見上げれば、彼等人間が削って出来た崖に狭められて細長い。アトラスはふとその上に多くの民が居るのを知った。アトラスは崖の上に戻る事に決めた。アトラスがここに留まって居ては、他の者たちが坂を降りてこの景色を眺める事は出来ない。この景色はこの地形を作り上げた全ての人々のものだ。
人々は入れ替わり立ち替わり、海に手をつけて冷たさを感じ、その指先を舐めて海を味わう。まるでそうせねば、目の前の光景が信じられないようだった。
いよいよ、船を浮かべる。その日、人々は船尾からそろそろと船を坂に移した。船首や船腹に手を当てて坂の下へと移動させて行く。一方、船が勝手に勢いをつけて滑り落ちて行かないよう、船首に結わえたロープを陸側に曳いて支える者もいる。
船上にいるクセノフォンたち数人のかけ声に合わせて、押したり引いたりしながら、船を坂の下へと移していった。船が海に浮かんだのは日が中天を過ぎた頃である。クセノフォンたちはロープを操りながら、船腹を崖に横付けした。後はこの船に旅に必要な物資を積む。人々にその人生の中で何かを成し遂げた満足げな笑顔が広がっていった。
船が海に浮かんだ夜のこと。エキュネウスとユリスラナが過ごす天幕の中で夫婦が言葉を交わしていた。
「やはり、願いは聞き入れられなかったと言う事だろうか」
エキュネウスの言葉に、ユリスラナが諦めかけたように肩を落として言った。
「実のお子様ですもの」
日々、ローホムスに乳を与えるためにエリュティアの天幕に出向く。期待した返事は聞かせてもらう事も出来ず、出航の前まで考えさせて欲しいと言われるばかりだった。
そんなエリュティアに、ユリスラナはそれ以上返答を求める事は出来なかった。彼女が誰かの子を欲するというのは、彼女がこの地で亡くした実の子を捨てていくという罪悪感を煽ってもいた。
その夫婦が過ごす小さな天幕が、突然の訪問者を迎えた。
「アトラス様にエリュティア様。それにローホムス様まで」
夫婦が驚かされたのは訪れた訪問者の顔ぶれだけではない。訪問者がそろって王と王妃としての正装を身に纏っていたことだろう。ローホムスも真新しい産着姿でエリュティアに抱かれている。まるで先日と立場が入れ替わったかのように、エリュティアが言った。
「今日はお願いがあって来たの」
戸惑って首を傾げたユリスラナとエキュネウスに、アトラスが言葉を継いだ。
「そなたたちの子を、ローホムスの代わりにもらい受けたい」
「私たちの子を?」
ユリスラナはエキュネウスと顔を見合わせて首を傾げた。目の前の二人は、彼女が子どもを失った事を良く知っているはずだった。亡くなった子どもをどうやって交換の対象にすると言うのだろう。首を傾げ続ける二人にアトラスが言った。
「人はいつか命が尽きる。私とエリュティアも同じ。死んで静寂の混沌に行った折りに、そなたたちの子どもと親子の名乗りを上げようというのだ。そして実の父母が命がけの旅に出る勇敢な人間だった事も伝えよう」
エリュティアはユリスラナと向き合って励ますように言った。
「だから、心配しないで」
ユリスラナがローホムスに乳を与える様子を見れば、母としての愛情は充分だった。しかし、時折、彼女はローホムスを眺めて別の母の表情を見せる。悲しみの表情は実の子どもの記憶が蘇るからだろうか。眉を顰める苦渋の表情は、亡くなった子どもをこの地に残して旅立つ罪悪感に違いない。ユリスラナの亡くなった子をもらい受けたいというのは、そんな彼女を見ていたエリュティアの知恵だろう。
エリュティアはユリスラナに胸が接するほどの近さに歩み寄って、抱いていた我が子をの事を語った。
「ローホムスの事。貴女たちにお願いするわ。この子に生まれてきて良かったという経験をさせてやって頂戴」
二人の母の腕が交差してローホムスは新しい母の胸に抱かれた。そんな会話の途中にも大地の揺れが割り込んで不安を煽ろうする。しかし、今のユリスラナは地が揺れたからではなく、喜びと愛情で地に膝をついてローホムスを抱きしめた。
明くる日の夜明けと共に、船に物資を積み込む時を迎えた。男たちは水瓶を運び込むところから始めた。大小の水瓶を船内に運び入れ、水瓶と水瓶の間には、船が揺れてぶつかり合っても割れないようクッションを兼ねた水の入った革袋を挟んでロープで固く固定する。
その水瓶の配置は、その重さで船が傾かないよう、船の前後左右に均等に配置しなければならない。島国育ちのアトラスがそんな知恵を披露して学究神官ラムススを感心させた。
水瓶の設置が終われば、様々な物資の積み込みが始まった。積み込む物資は既に崖の上まで運ばれている。女たちが食糧の入った麻袋を運び始めた。男たちはこれから船に積み込む飲料水を調達するために、桶を背負って森の川との間を往復する。
水桶を背負ったマカリオスは、気まずそうにすれ違った女に声を掛けた。
「デルフィネ」
しかし、干しぶどうの袋を担いで運んでいた彼女は、哀しげに目を逸らしただけだった。マカリオスはそれ以上声を掛ける事が出来ず、その場から逃げるように立ち去るしかなかった。
船には食糧や水を始め船旅に必要なものは既に積み込まれて、帆桁を上げればエリュティアたちが作り上げた帆が風を受けて力強く船を進めるだろう。急遽、出航が午後と決まった。大地の揺れが続く中で、一刻も早く出航する必要があるという判断だった。
崖の上には旅立ちを眺めようとする人々が群がっていた。下り坂の上には、最後の別れの挨拶を交わす者が顔を合わせていた。
エリュティアが残念そうに言った。
「ごめんなさいね。食べ物とワインはあるのに、別れの宴を設ける暇がなかったわ」
船に積み込むべき物資を準備しすぎた。余った物資がまだ崖の上に残っていて、送別の宴をする事も出来たはずだった。
エキュネウスはアトラスやエリュティアと向き合って別れの挨拶を言い淀んだ。この地に残れば、大地と共に海に沈んでしまうだろう。事実、この船を王都から運んでこの海に浮かべる間にさえ、この大地は揺られ、その周辺が削られて海に沈んでいた。
アトラスは別れの言葉を言い淀む彼の心情を察して微笑んで言った。
「友よ。残る我等を哀れむな。私たちはこの地で人として懸命に生きた。それで充分」
エリュティアが言い添えた。
「船出をしたら、もう振り返らないで。ローホムスには明るい将来に向き合わせてやって」
ユリスラナは約束の印に頭をぺこりと下げ、エキュネウスはアトラスとエリュティアの姿を目に焼き付けるように向き合った。
「お二人のお姿、そしてアトランティスの人々の生き様。ローホミル様が成長した折には必ず伝えましょう」
エキュネウスとユリスラナがゆっくりと背を向けた時、騒動が起きた。
「待ってくれっ」
船の中から一人の男が駆けだしてきた。アトラスはその男を良く知っている。マカリオスだった。彼は坂を一気に駆け上がって来ると、船の中から見つけていたクラトスに駆け寄って言った。
「お前が行け。俺にはデルフィネが居る」
今の彼は愛する人を残してはいけないと決めていた。クラトスは自分が旅立てる喜びより、デルフィネが愛する人と共に過ごせる事を喜んで微笑んだ。マカリオスが照れくささを隠すようにクラトスの尻を叩いて急かした。
「早く行け。乗り遅れるな」
そんな光景を眺めたアトラスがクセノフォンに尋ねた。
「良いのか?」
クセノフォンが彼の乗船を推薦して選ばれた。その男が下船しても問題はないのかと言う。クセノフォンは言った。
「最後の時に、自分の運命を自分でつかみ取った。勇者アイネアスの息子にふさわしいでしょう」
クセノフォンが眺め回した仲間の中にも、マカリオス自身が選んだ運命に異論を唱える者は居なかった。
ほどなく、船が岸を離れた。帆を張ってはいるが、帆に当たる風は優しい。やがて船腹から幾本ものオールが突き出して動き始めたが、海面を叩く左右併せて二十数本のオールの動きがぎごちない。しかし、それも船旅が終わる頃には熟練した船乗りが扱うオールのような整然とした動きになるだろう。船は真っ直ぐに東へ。眩しく光を反射する海面を移動した船はその姿を小さくしながら、夕焼けの空と海の狭間に融けて消えた。
エリュティアが船を見送る民衆に振り向いて叫ぶように言葉を届けた。
「命がけで船出する勇者たち、そして、勇者たちと共に旅立つローホムスは、きっとこの大地に生まれて懸命に生きた私たちの事を語り継いでくれるでしょう」
彼女は軽く頭を下げて謝罪の姿勢で言った。
「でも、ごめんなさい。私にはもう貴方たちのために出来る事はない」
素直に謝罪するエリュティアの姿に人々は驚いて首を横に振った。この数年、エリュティアがどれ程民に尽くしてきたかは彼等はよく知っていた。エリュティアは素直な微笑みを浮かべて言葉を続けた。
「ただ、思うの。これからは、私も皆と共に生きていけると」
民のために為すべき事を考え続けてきたつもりだったが、船の帆の制作や船旅のための様々な物資の調達など、多くの人々に支えられている事を改めて自覚した。
もはや出来る事はないと考えていたエリュティアだが、いまはただ一つ、大切な事がある。アトラスはそれを教えるように右腕で彼女を優しく抱いて囁いた。
「エリュティア。愛している」
今までは愛し合っていても、民のための王と王妃。しかし今、この瞬間以降は、その責務から解放された。エリュティアはアトラスのためだけのエリュティア。アトラスもまたエリュティアが独り占めできる関係だった。彼女も微笑んで言った。
「私も」
二人は溶け合うように寄り添い。その姿を眺めていた人々も親しい者と寄り添った。孤独な者たちも互いの手を握りあい、支え合うように誰かを抱擁した。
陽が落ちたが、海を眺める場所から立ち去る者は居なかった。いつしか火が焚かれて人々の顔を照らしていた。
闇の中、手を叩く音が響いた。人々が視線を向けて眺めると、デルフィネが頭の上に伸ばした手を叩いて、踊りのリズムを求めているのだった。彼女の意図を察した人々が手を叩き始めた。デルフィネは笑顔で焚き火を背景にくるくる回って踊り始めた。愛する者と共に過ごせる。そんな喜びが溢れるようだった。彼女はマカリオスの手を曳いて踊りに巻き込んだ。
やがて人々は手拍子に飽きたらず、踊りの調子を合わせて足を踏みならし始めた。やがて自ら踊りに加わる者が加わり、そんな者たちに誘われて踊り出す者たちまで加わり始めると、熱狂を帯びてきた。自らの人生の価値をこの瞬間に問うような熱気だった。
その彼等の足下で大地が大きく揺れた。それは踊り狂う人々の体を更に激しい踊りに誘うようだった。
しかし、今まで人々の心に忍び込んだ恐怖も、今は愛する人々と一つになる満足感に満たされた人々の心に忍び込む事は出来なかった。
「エリュティア!」
「アトラス!」
アトラスたちが最後に感じたのは足下が崩れ落ちる感覚ではなく愛する人の体温だったのかも知れない。
この夜。人々は崩れゆく大地と共に、生命と自らの運命を全うした。
朝の気配の薄明かりに、アトランティスの大地を離れて旅立った船が、浮かび上がってきた。あれほど苦労して運んだ船も、この大海の中で運命に揺られるばかりの小舟にも見えた。
もはや振り返ってもアトランティスの大地が水平線の彼方に隠れた船上。エキュネウスたちはアトラスたちと交わした振り返るなと交わした約束を一度だけ破った。一人の男が船尾の方向を指さした。人の背丈を越えるほどの大きな波が西の方から迫ってきて、転覆の恐怖を感じさせるほど船を揺らした。それがアトランティス消滅の目に見えぬ幕引きだったのかも知れない。
しかし、船は彼等がこの後に遭遇する幾多の危険の最初の一つを無事に乗り越えた。
甲板に立って危険が過ぎた事を確認するように周囲を眺めるユリスラナがいた。彼女の胸には大切そうにローホムスが抱かれていた。
彼女に寄り添うエキュネウスが、母親に抱かれた赤児の寝顔を眺めて言った。
「大胆なお子だ」
この赤児は眠りを妨げられてはいたが、死の恐怖を感じさせる船の揺れに動じていない。ユリスラナが微笑んで言った。
「だって、私たちの息子ですもの」
海面を滑るように届いた太陽のこの日の最初の輝き。ローホムスは驚いたように目を開けて笑った。ユリスラナは彼の望みを察したように、東の空と相対する事が出来るように体の向きを変えた。
ローホムスは眩しげに目を細めながら、それでも心地良さそうに微笑んでいた。彼は言葉にならない声を挙げて光を掴んで抱きかかえようとするように両腕を伸ばした。その仕草が未来に続く自分の運命をつかみ取ろうとしているようにも思える。
ローホムスの首に掛かった守り袋が朝日を受けて揺れていた。ただ、人として生きるため懸命に生きた。彼が託されたアトランティスの人々の思いと言えるだろうか。
次回、現代を生きる私たちに残されたものは……。この物語と現代の私たちを結ぶエピローグで物語は完結します




