表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
168/174

失望の涙

 旅立ちが現実味を帯びた事で心を乱しているのは、ギリシャ人ばかりではない。エリュティアの居室にも心を悩ませる女性が居た。

 この日、ユリスラナがローホムスに昼の授乳を終える頃、エリュティアが居室と息子の寝室を遮るカーテンを開けて姿を見せた。彼女は思わず微笑んで言った。

「ローホムスもずいぶん懐いているわね。時々、本当に羨ましくなる。でも、そろそろ次の乳母を捜さなくては」

 エキュネウスと共に船出するユリスラナの代理を捜さねばならないという。しかし、ユリスラナは戸惑う心を整理しきれず言った。

「エリュティア様。私はこのままこの地に……」

 旅立ちに戸惑いがあるという。エリュティアは優しく言い聞かせた。

「駄目よ。愛する人と共に旅立つのが運命なら、運命から逃げないで。何より、この子は貴女をここに縛り付ける事を望みはしないわ」

 ローホムスは二人の母の間でにこにこと笑いながら頷いているようにも見えた。エリュティアはユリスラナを信頼して言った。

「もうしばらくローホムスの事をお願いね。私は厨房に行くから」


 今の彼女の仕事は、ギリシャ人たちが運んでいる船の帆を作るのを管理する事だった。とはいえ彼女にその知識はなく、侍女たちを連れて食事を運んでやるだけ。夫のアトラスはいち早く布を買い付けた彼女の機転をことさら褒めて、彼女を帆を作る事に専念させるようにし向けた。彼女はその責任を果たすつもりで居るが、どこかに迷いが生じていた。

 ユリスラナは彼女の後ろ姿を眺め、視線を腕の中のローホムスの顔をエリュティアの方を向けて尋ねた。

「貴方ならお分かりですか」

 エリュティアが考え込む雰囲気があって、それを素直な幼子なら感じ取る事が出来るのではと考えたのである。ローホムスは機嫌良く笑っているだけだった。


 エリュティアは侍女たちを引き連れて厨房に立ち寄り、彼女自身はパンの入った籠を両手に提げた。侍女たちも皿やスープの入った壺を手にしてエリュティアに続いた。一団が王宮の門の傍らを通る時に、群衆の声がエリュティアの耳にも届いたはずだった。

「王よ。強欲な者どもを罰してください」

「王よ。私たちに公平な裁定をお願いいたします」

 何かの願い事があって王宮に出向いて来た者たちが、王宮に踏み込もうとして、門を守る衛兵に制止されている光景だった。こういう場合、下級役人が用件を聞く。ただ、いつものエリュティアなら、足を止めて群衆の声に耳を傾けたかも知れない。しかし、今のエリュティアは何かの別の考え事があるようで、気づきもせず通り過ぎた。しかしエリュティアに付き添って食事を運ぶハリエラナたちも、彼女に違和感を感じ取って密かに首を傾げていた。


 工房に着いたエリュティアは手にしていたパンの籠をテーブルに置いただけ。普段なら職人たちに明るく声を掛けて食事の時間を告げ、仕事の進み具合を尋ねる。今の彼女は別の事に気を取られているようで、工房の職人たちの視線がいつもと違うエリュティアの雰囲気に集中した。

「エリュティア様」

 ハリエラナに促されてエリュティアは、ようやく我に返って表情に笑みを取り戻した。


 帆の制作を指導しているデミトリアスが作業の報告に来た。

「あとは、帆桁に下げてみないと分かりません」

 帆は出来上がったが、帆柱に水平に下げて帆を張る帆桁に下げて、帆を張った状態にしてみないと、出来上がりを判断できないという。

 船を海辺に運ぶ目処が立ち、帆も出来上がった。

(最後が近づいた……)

 エリュティアはそんな不吉な考えを首を横に振って振り払った。侍女頭ハリエラナが話題を変えて冗談を言った。

「それにしても、買い付けすぎたのでは?」

 天幕を作るための厚手の布の山。衣類にも加工しづらく、倉庫の隅で他に使う予定もなく嵩張かさばっているだけ。そう言ったハリエラナの言葉を、エリュティアは笑い飛ばすように言った。

「腐る物ではなし、保管しておけば、使う事もあるでしょう」

 エリュティアの言葉に、ハリエラナが言った。

「いっそのこと、アトラス様の馬の数ほど船があれば」

 いくらでも帆を作ってみせると冗談を言うのである。ふと、エリュティアは思い詰めた瞳で再び黙りこくった。

 そして、彼女は思いついたように言った。

「そうだわ。私が馬に乗れば良いのでしょう」

 侍女たちの会話の話題からずれていて、ハリエラナたちはエリュティアの言葉を理解しかねて首を傾げた。

 エリュティアはそんな侍女たちの存在など忘れたように、行く先を思い定めて歩き始めた。アトラスが視察から帰ってくる時間である。


 夫のアトラスが朝と夕の二度、視察に出る。街中を回って王都パトローサの復興の様子を眺め、郊外の船の運搬が滞りなく進んでいる様子を確認して戻ってくる。エリュティアは自分もその視察に同行させてくれと何度も申し出た事がある。ただ、アトラスはその願いを拒絶した。その理由は見回る範囲が広く、視察に馬が必要だが、馬に乗れないエリュティアを連れてはゆけないと言う事である。そう言われれば、彼女も納得するほか無かった。ただし、彼女自身が馬に乗れば別。同行する事を拒絶する理由はなくなる


 彼女は厩舎という逃げ場のない場所で、朝の散策から帰ってきた夫を捕らえた。意外な場所で見かけたエリュティアにアトラスは尋ねた。

「どうしてこんな所に?」

「私は馬に乗る事に決めましたの」

 エリュティアの表情に乗馬への決意が感じ取れる。何度か、一頭の馬に彼女の体を支えて一緒に乗ったことがある。しかし、今の彼女が言うのは夫と同じように一人で乗りたいと言うことである。

 アトラスはその無謀さを説明した。

「馬に振り落とされたりすることもあるのだぞ。馬の背の高さを見よ。馬で駆けている途中で、あの背中から振り落とされでもしたら、骨を折る事もあるのだ」

「でも、リーミル様は貴方に馬に乗せていただいた経験があるのですね。貴方はリーミル様を馬に乗せたのに、私を乗せる事は出来ないのですか」

 妻の言葉にアトラスは優しく答えた。

「馬に乗るためには、時間を掛けて触れあいながら馬と心を通い合わせて、心と体を一つにして行くのだ」

 そう言ったアトラスの傍らで、エリュティアは馬の頬を優しく撫で、馬もエリュティアに甘えるように鼻面を寄せていた。その雰囲気は信頼関係すら窺わせ、馬自身がエリュティアを乗せる事を拒絶する様子がない。

 もはや、アトラスは彼女の申し出を断る事が出来ない。彼は妥協して言った。

「分かった。では時を改めて」

「ああっ。よかった」

「何が良かったのだ?」

「昼の散策には同行させていただけるのですね」

 エリュティアの笑顔を見ていると、アトラスに断る事が出来ない。


 昼食を終え、昼の散策まで、エリュティアは夫を捕らえて放さないように傍らに付き添って過ごした。

「王よ。昼の外出の準備が出来ました。私とスタラスス、テウススが同行いたします」

 レクナルスがそう告げに来たのに、王の傍らのエリュティアが即座に反応した。

「すぐに参ります。馬は王宮の入り口に曳いてきて頂戴」

 アトラスはレクナルスに肩をすくめてみせて、王妃も同行すると伝えた。ただその前に、エリュティアには馬に乗るために衣類を改めてもらわねばならない。


 もちろんエリュティアに手綱を握らせ一人で馬に乗せる訳にもいかない。アトラスは男性が着用するズボンと上着という慣れない衣装に戸惑うエリュティアを、馬の背に押し上げ、彼女を抱きかかえるようにその背後に乗って手綱を取った。

 侍女頭ハリエラナの視線が冷たい。旧シュレーブ国の高貴な姫に男性のような衣装を着せて馬に乗せるなど、未だに許し難い扱いのように思えるのだろう。アトラスはそんな女たちの視線にも耐えねばならない。しかし、エリュティアの機嫌は良い。


 アトラスと共に王宮の外に出た彼女は、アトラスが彼女の視察を拒絶していた理由の一端を悟った。賑やかな鎚音が響く復興が進んでいると感じていたのは、王都パトローサから眺めた僅かな視界の範囲だけ。王宮を出て、大商たち裕福な者たちが住む区画を通り過ぎると、生々しい焼け野原が広がっていた。

 エリュティアはふと気づいた集団が地面を掘り起こしているのを指さして尋ねた。

「あれは何をしているのです」

「焼け残った家々から、その基礎の石材を掘り起こして売るのだ」

 アトラスがそう答えている内に、彼の存在に気づいた別の男が走り寄って馬上のアトラスを見上げて言った。

「王よ。この者たちを捕らえて罰してください」

 そんな言葉を聞いた男たちが怒りを露わにして言った。

「盗人猛々しいとはお前の事だ。材木を独り占めして自分さえ良ければそれで良いのかい」

「そう言う事は、まずは役人に申し出よ。上手く取りはからってくれるだろうよ」

 アトラスはそれだけ言い捨てて、馬の腹を蹴って駆けさせた。

「どういう事なのです?」

 首を傾げたエリュティアにアトラスは答えた。

「復興に必要な石材や材木が足りない。貧しい者たちはそれを奪って売る。裕福な者は力づくで独占する」

 エリュティアは別の集団を指さした。

「あれは?」

 その光景を眺めたアトラスが答えた。

「自分の土地だと主張する杭を打っているのだ」

 怒りと憎しみに溢れた怒鳴り声が漏れ聞こえてくる。

「何をしてるんだ。俺の土地だぞ」

「何を言う。ここは俺の店が合った場所だ。この角の礎石が証拠だ」

「そんな物が証拠になるものか」

 焼け野原で元の姿など分からない王都パトローサで、どちらの言い分が正しいのか判別する事も出来ず、アトラスには男たちの争いに介入して収める事も出来ない。ただ、エリュティアをそんな憎しみから遠ざけたい。アトラスは怒鳴り合う者たちの傍らを馬を駆けさせて離れた。

 しかし、間もなく、見て見ぬふりも出来ない光景に出会った。アトラスの存在に気づくや、一人の男が、子どもを連れた若い女を殴り始めた。

「この泥棒め。この宝石は俺のものだぞ。ここは俺の家だった場所だ」

「違うわ。瓦礫の下から見つけて拾っただけよ」

 そんな争いにエリュティアが馬上から割り込んで言った。

「やめなさい。子ども連れの女を殴るなど、どういう事です?」

「この女が、俺の宝石を盗んだんでさ」

「止めよ」

 アトラスは短く鋭い命令を発して、この場の光景を凍り付かせるように静止させた。女の傍らの少女がエリュティアに哀しげな視線を向けた。アトラスは懐から小さな革袋を取り出して言った。

「その宝石を私があがなってやろう。これで充分。文句はあるまい。」

 アトラスが袋から取り出した銀の小粒を受け取った男は小ずるそうに目を光らせたかとと思うと、奪うように受け取って駆け去った。

 残された女と子どもは言葉もなく一礼すると歩き去った。惨めな姿の母に寄り添いながらアトラスたちを振り返った少女の表情が哀しげだった。

 テウススがアトラスに馬を寄せて言った。

「王よ」

 続く言葉を察して制するようにアトラスが言った。

「言うな。私に他に何が出来る」

「しかし、真似をする者が何人も出てきております。あの夫婦もまた」

 エリュティアは、先ほど振り返った少女の哀しげな目と、そんな主従の会話に状況を察した。

 男と女が言い争う際、少女は争いの行方には関心なさそうに、哀しげで戸惑う様子だった。もし、母親が本気で男と争うならもっと心配そうな態度を取っていたろう。思い出せば、あの争いはただの夫婦の演技に過ぎない。男は争うふりをしてアトラスから銀の小粒をせしめた。少女の哀しげな表情は、母が誰かをだましているのを見ている事しかできないから。

 おそらく、このような事例のきっかけになる出来事があったのだろう。それを目撃した者たちが、アトラスの前でその事例を真似れば銀の小粒が得られる事に気づいた。アトラスは気づいていながら騙されている。そしてこんな事が何度か繰り返されている。

 アトラスはエリュティアの背後で呟くように哀しげな声で言った。

「もはや銀の小粒など、何の価値もないはず。人はどうしてそんな物に群がるのか」

 大地が沈み続け、死に晒される中で、銀の小粒に何の価値があるだろう。今のアトランティスの大地では、そんな僅かな価値のために、自らの心と存在を貶め続けていた。


 悲しい思いを振り払うように馬を進めると、この廃墟の中を彷徨う集団に出会った。その中から一人の老女が声を掛けてきた。

「神々は我等を見捨てたのでしょうか。 王も私たちを見捨てるのでしょうか」

 アトラスは決意を込めた口調で答えた。

「私は常にお前たちと共にある。王妃もまたこの通り。そなたたちと共にいる」

 しかし、人々は納得せず、次々に言葉を投げかけてきた。

「王には私たちの生活など分からないのね」

「そうだ。自分だけあんな豪華な宮殿住まい。我々の気持ちが分かるものか」

 そんな声に口々に賛同する民衆の声が上がったが、アトラスには反論する術がなかったアトラスは馬の腹を軽く蹴って駆け始めさせた。


 エリュティアが振り返る視界に、救いを求める民衆の姿が映ったが、彼女自身も何も出来ない。

 これが、アトラスが妻のエリュティアに見せたくなかった光景だった。民の安寧を願っていたが民は互いに争い憎み合っていた。それを救うべき自分自身は無力で何も出来ない。二人は大地が沈み行く中、王と王妃として努力し続けてきたつもりだった。その結果が民が争い憎み合うこの光景だったと考えるのは失望のどん底に突き落とされる。

 馬上、アトラスはエリュティアに言った。

「涙は拭いておけ」

 これからギリシャ人たちが船を曳くのを見に行く。今は希望に満ちた彼等に失望の涙を見せてはならない。エリュティアも納得して、残った涙を絞り出すように強く目を閉じて手の甲で涙を拭き取った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ