妻の決意
「何のために船の下に丸太を敷くとお考えで?」
学究神官ラムススが、相手を王とも思わぬ態度で問い、アトラスは答えた。
「そのまま曳けば、船の底が地面にめり込むだろう。曳いても動かなくなる」
「それだけで?」
「それだけとは?」
「硬い物は硬い物の上を引きずる方が楽なのです」
現代的に言えば摩擦が少ないと言う事だろうか。アトラスは経験的にその事実を受け入れた。
「だからこそ。ああやって木を並べてその上を曳いているのだろう」
「あんな柔らかい木と、あの数では駄目でしょう」
「駄目だって」
「船の重さで木が撓んでおります。船の重さに耐える太さと堅さ。それに、もっと数が必要です」
「ではどうせよというのだ?」
「もっと太く丈夫な木を、間隔を開けず密に並べるのです」
ラムススの言葉を耳にしたクセノフォンたちが不満を漏らした。
「そんな木が何処にあるのだ」
今、船の道を造っている丸太は、彼等が森の中で幹が固く真っ直ぐなものを選んで伐採して持ってきた。これだけの数の木を森で探し、伐採し、枝葉を払って丸太にするだけでも大きな労力を必要とした。ラムススはそんな彼等の努力を無駄だと切り捨てたのである。
アトラスはふと思いだして言った。
「リデントースで神官たちが使っていた丸太はどうだ」
「では、この口の悪い腐れ神官の意見に耳を傾けるのですか」
エキュネウスの不満気な問いにアトラスが答えた。
「このままではどうしようもあるまい。このままでは海まで運ぶのに二年はかかるぞ」
アトラスがふと漏らした言葉に、クセノフォンとエキュネウスはぴくりと反応した。必死になって船を動かそうとしているが、体力を消耗するばかりで遅々として進まない。
レクナルスがアトラスの意図を察して言った。
「では、中央神殿に手配いたしましょう」
王都の中央の神殿から必要な資材の提供を求めようという。彼はアトラスが頷いて命令する間もなく、中央神殿へと馬を走らせていた。
アトラスはラムススに視線を向けて言った。
「では、その丸太を準備するとして、船を動かす方法を聞きたいものだな」
そう語りかけるアトラスに見向きもせず、ラムススは船を眺めて呟いていた。
「長さは二千スタン、いや千八百スタン(約30メートル)、幅350スタン(約六メートル)ぐらいか、船底は広く平らな地面の上なら傾いても倒れる気配はない。人は六十人は乗れようか」
目の前にいる王の存在など忘れて、目の前の船について語っている。アトラスは怒りもせず彼の誤りを指摘した。
「違うな。補給も出来ない数十日の長い航海をせねばならない。航海の間の食べ物と水を搭載すれば、乗れる人はその半分。帆を操り、櫂を漕ぐそんな者まで含めて三十人を少し超えるぐらいのものだ。船底が地面の上でも傾きにくい緩やかな曲面というのは、大地のように安定した内海の穏やかな海に向いた船という事だ。外洋の航行には不向きだ」
航行するという事も考えればアトラスの言うとおりだろう。その言葉を聞いたラムススは新たに知った知見に喜ぶように頷いた。
「なるほど。そう言う事か。王よ。貴方は何と知恵者でしょう」
アトラスはその言葉が信じられないと言うように首を傾げて、傍らのスタラススに尋ねた。
「この男は、私を褒めているのか?」
罵詈雑言が止まないこの男の口から出た言葉だとは信じられない。スタラススも分からないと首を傾げた。しかし、ラムススがアトラスに向けた視線の尊敬の念は本物らしい。この男にとって、王や神官など人の身を飾る肩書きなど無用なもの。知識が彼の価値の基準で、自分が知らない事を知る者、気づかない事に気づく者は尊敬に値する。他人を見下すだけの男ではないようだ。
そんな会話をしている内にレクナルスが戻って来て告げた。
「王都の中央神殿にはこのような木材の蓄えはないとのことです」
言われてみれば当然の事で、リデントースなど古い神殿では、儀式に応じて広場に祭壇を組み上げるための多量の木材が必要になる。必要な木材だけに何度も使い回す工夫がされている。
中央神殿は王都にふさわしい豪奢な作りで、地方の神殿なら儀式の都度に仮設の祭壇を作るのに比べて、広い敷地の中に更に小さな祭祀の目的別の神殿や祭壇が石組みの建物としてある。
この王都の中央神殿で、大神官長ゴルロースが過去の儀式を復活すると称して多くの家畜を生け贄にした儀式をした折など、丸太もそれを組み上げる技術もなく、町の大工を呼んで家でも作る調子で作らせた。ゴルロースの儀式が一段落して無用になった祭壇は、取り壊されて廃材になり、住民たちが使う薪として燃やされてしまった。
「では、その丸太は何処で?」
アトラスの傍らにいたエキュネウスが尋ね、その会話に割り込むように僧兵長クリドスが申し出た。
「その材木を運ぶ任。我等にお任せ下さい。リデントースから運んで参りましょう」
確かにリデントースなら求める物が数多くあり、運ぶのが体力のある僧兵なら適任だった。
アトラスは笑顔で命じた。
「任せたぞ」
何か運命が切り開かれる思いがする。ただ、傍らのエキュネウスに、忘れようとしていた気がかりな事を思い起こした。
彼は増援に駆けつけたエキュネウスが語った言葉を覚えていた。
「アトラス様のあまりに突然の出陣、何も説明がなかったとエリュティア様がご不満な様子でした」と。
王都へと踏み込んでいくアトラスの表情に、任務を達成して帰還したという満足感ではなく、何かの迷いがある。拗ねているらしい妻をなだめねばならないらしい。
「王よ、何か?」
心配事でもあるのかと問うスタラススにアトラスは言った。
「なんでもない」
彼は王と王妃の関係に踏み込まれるのは嫌だった。
王宮に入ったアトラスは、まだ妻を納得させるためにどんな言い訳をするか戸惑っていた。彼は居室の入り口にいた侍女に取り次ぎを求めた。その声が部屋の奥に伝わるや、エリュティアは取り次ぎなど面倒と言わんばかりに姿を見せた。
「ご無事でしたのね」
エリュティアはそう言って優しく夫を抱きしめた。アトラスは彼女の腕をそっと引き離し、息がかかるぐらいの近さで彼女の顔を眺めた。彼女が滲ませる安堵感は夫の無事の帰還。誇らしげな雰囲気はその人の妻である満足感。彼女の愛に濁りはなかった。
アトラスはエリュティアの心情を疑った事を恥じて、囁くように言った。
「すまなかったな」
今度はアトラスが彼女を抱きしめた。エリュティアはアトラスがあっけにとられるほど、彼の行為や言葉に拘る様子もない。彼女にしてみればアトラスの性格は良く知っている。突然の出陣に驚きはしたが、いちいち気に掛けていては疲れるだけ。悪戯坊主を見守る母親の心境かも知れない。
エリュティアは夫の腕を優しくふりほどいた。侍女は微笑ましい展開を予想して会釈をすると、侍女部屋へと姿を消した。エリュティアは夫の手を曳いて部屋の中へと導いて、窓際のテーブルの前の椅子を指し示した。
ありきたりな会話の中、テーブルで向き合って座る夫の表情に笑顔に隠した陰りがある。エリュティアがカップに注いだワインを勧めながら言った。
「何か悩む事でも?」
首を傾げて心配そうに尋ねるエリュティアに、アトラスは心に抱き続けている不安を告白した。
「ゴルロースが若い神官たちに語っていた。たとえ、我等が滅亡の運命にあり、残された時と命が僅かだとしても。神々は我等と共にあると。エリュティア。そなたも災厄が避けられないもの。我等の命も僅かと思うか?」
リデントースで何かを感じ取った夫の本音だった。深刻な話題に、エリュティアはさらりと応じた。
「僅かだとしたら、どうなのでしょう?」
「何も出来ぬ我が身が呪わしい」
アトラスはそう言って両手で顔を覆った。家臣の前ではそんな姿は見せない。心を許せるからこそエリュティアに見せた本当の姿だった
エリュティアは戸惑いながら夫の本心を尋ねた。
「私に慰めて欲しいのですか」
「慰めるというのではない。しかし……」
「もし、残された命が僅かだというなら、私も同じです。貴方やローホムスと共に生きて静寂の混沌に溶け込むだけ」
限りある生を懸命に生きて、愛する人と時を全うするだけ。エリュティアの単純明快な決意にアトラスは微笑んで言った。
「私は、良い妻と息子に恵まれた幸せ者だ」
アトラスはそう言い残して部屋から去った。リデントースから帰ったばかりで、重臣たちに伝える事も山ほどあるのだろう。
そんな夫の後ろ姿を見送りながらリュティアは残念に思った。
(ただ、私が欲張りなだけ?)
夫婦は寄り添っているように見えながら、一国の王や王妃として、その身の大半は国政や民のためにある。愛する相手と交わせる心はほんの一部だけ。語り尽くせない思いが山ほどあるのだが、その思いも静寂の混沌に融けて消える。それが残念でたまらない。
彼女は幼い息子の頭を撫で、守り袋に眉を顰めて小さく呟いた。
「もう、この種が芽吹く事はないのかしら」
そんなエリュティアの足下で大地が揺れた。また、この大地の一部が海に沈んだのだろうか。
そんな揺れも、人々は日常の一部として受け入れている。
リデントースから帰ったばかりのエキュネウスが足下の揺れを感じつつ、人をふらつかせる揺れに動じない大きな船を見上げて言った。
「良い休息になりそうだ」
「ああ」
気さくな返事にクセノフォンの信頼がうかがえる。もとはギリシャ人同士故の諍いもあったが、エキュネウスと部下も数は少ないが、共に船を曳く仲間である。
クセノフォンは、船の運搬をリデントースから丸太が届くまで中止させた。仲間や協力してくれるアトランティスの人々を見ていると体力を使い尽くしているようにも見える。作業を続けるには、彼等の体力の回復を待たねばならない。アトラスが言ったとおり、このままでは船を海まで運ぶには一年や二年はかかるかも知れないと実感している。
一方、今も足下が揺れて焦りを誘ってもいた。早く運ばねばこの船は海に浮かべる事もなく大地と共に海に沈む。
そんな不安な日々が二日続いた後の王宮の広間。王や重臣が集う会議の場。アトラスはこの会議の場に参集する重臣たちに厳重な箝口令を敷いて、会議の内容が漏れないように注意していた。会議の都度、どこそこの村や集落が海に沈んだ。海岸が削られて海が町の側まで迫っている。そんな知らせが届いていて、王都に広まれば混乱も増す。しかし、災厄を被った各地には僅かな者たちも生き残っていて、王都にまでたどり着いて、王都の民に悲惨な有様を伝えていた。
上座に座るアトラスとその傍らのエリュティアの前に居並ぶ重臣たちの中から、ライトラスが進み出て言った。
「今年の税のことでありますが……」
ライトラスが言い澱んだ。農民たちが小麦の収穫が終わり、税として収める時期になっていた。ライトラスが言い淀む内容を察したエリュティアの言葉が会議室に響いた。
「度重なる災厄で民は困窮しているのではありませんか?」
困窮している民から徴収する税に配慮が必要だと言う事である。ライトラスたちも同意して頷いた。アトラスは深刻そうな表情で尋ねた。
「ライトラスよ。王宮の蔵に食糧の蓄えはいかほどある? このまま王都に避難してくる民に配給したとしてどれぐらい持つのだ」
「民の数が変わり続け、確かではありませんが、ざっと二年半は」
「ならば、今年の税は減免……いや、免除するというのはどうだろう。何処が安全か分からぬ今、食糧は民の手元に残しておくのが良い」
「困窮する民は喜ぶでしょうが……。どこが安全かわからない……、なるほど。」
ライトラスはアトラスが口にしない意図に気づいた。もし王都に税として国の各地から小麦をかき集めた後、王都が災厄に見舞われてかき集めた食糧もろとも海に沈んでしまったら、残された人々は……。それに配慮すれば、税の免除という形を取って食糧の備蓄を各地に分散しておくのが良い。
「では、早速、各地にその旨の使者を出しましょう」
各地にと言ったが、今やこの王都から、徒歩で西に一日、東に二日、南北にそれぞれ一日半の距離に海が迫っている。彼等は残された僅かな大地の上で、その海に沈む災厄が止まるかも知れないと僅かな希望だけを抱いて、絶望を口にする事から逃げていた。




