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血まみれの赤い情景

 この時も足下がふらつくほど地が揺れた。うち続く大地の揺れは、民ばかりか王宮の中の人々の心もかき乱していた。そして、その不安から民を救う責任も果たせない自分の姿に、アトラスもエリュティアも苛立ちと無力感を感じ続けていた。


 その中でも、国と民の頂点に立つアトラスの心痛は大きい。アトラスはこの日も乱れる心を息子と妻の姿で癒そうと、侍女頭ハリエラナに取り次ぎを求め、エリュティアの許可を得て彼女の居室を訪れた。入り口のカーテンを開けて踏み込むとエリュティアは椅子に座って背を向けていた。

「エリュティア様。アトラス様がお越しになりました」

 ハリエラナに名を告げられなくても、彼女は背後の足音で夫の存在に気づいているはずだ。

 普段の彼女なら、夫の入室を立ち上がって笑顔で迎えていただろう。ただ、彼女の後ろ姿から、アトラスに理解できない不満と小さな怒りが伝わってきた。

 沈黙の妻との会話を求め、アトラスは彼女の背後から頭越しに、彼女の指先が生み出す刺繍を眺めて尋ねた。

「ほう。それは冬の女神シミリラの紋か」

 冬の寒さに表される厳格さと同時に、寒さの中で春に芽吹く生命を育む包容力のある女神だという。夫の問いに、妻は視線を指先に向けたまま言った。

「はい。ローホムスの守り袋に致します」

 刺繍を施した布でお守りを入れる袋を作って幼い息子に持たせるという。しかし、その彼女の声音に感情が籠もらず冷たい。背後で戸惑い、沈黙する夫の気配を察しながら、彼女は冷たく言葉を継いだ。

「私に出来るのは、これだけ」

「これだけ?」

「私には帆が縫えぬと仰いました」

 その一言で、アトラスは記憶を辿って妻の心情を察した。

(拗ねているのか……)

 アトラスは彼女が帆を縫うと言った提案を、理由も話さず拒否した。エリュティアはそれに不満を抱いているのだろう。


 ハリエラナがそんな夫婦を微笑ましく見守っていた。彼女の目から見れば、エリュティアは幼い頃から頑固なところはあるが、侍女にわがままを言ったり拗ねて困らせる事がなかった。それは優しく気遣いが良いばかりではなく、時に不満を心の奥底に隠して本心を偽ると言う事でもある。しかし、今のエリュティアは、拗ねるという形で正直な不満を夫にぶつけていた。今のエリュティアは心を隠す必要のない伴侶に巡り会ったと言う事だろうか。


 ただ、アトラスは拗ねるという形で本音の触れあいを求める妻に、どう応じるべきか迷っている。もし、この場にアドナが居れば、女心を理解せねば駄目だと叱りつけ、言葉の短い王にもっと丁寧に説明すればいいと指導もしただろう。しかし、今はそのアドナも居らず、アトラスは女性の扱いに迷いのみ多い。

 そんなアトラスの救いのように、居室のカーテンの向こうに新たな人の気配がした。ハリエラナがカーテンをちらりと開けて来訪者を確認し、聞き取った用件を夫婦に伝えた。

「ライトラス殿が、エキュネウス殿とクセノフォン殿が面会を求めてきたとお伝えしてくれとの事です」

「面会だと?」

 その二人なら軍船の相談だろう。アトラスはほっとした気分で笑みを浮かべながら、首を傾げた。しかし……、面会に来たという知らせなら、侍従一人を遣わせばいい。しかし、大臣ライトラスが直に伝えに来たばかりか、彼は息子のジグリラス他、数人の重臣を伴っている。

 彼はカーテンの外に出て首を傾げて尋ねた。

「どうした? この国を取り仕切る重臣たちが、たいそうな集団で」

「いや。これからは私も列席した方が良いのでは」

 エキュネウスたちとの話しが煮詰まった後に相談しなければならないが、今はまだその時ではないと考えていた。それが、重臣たちから積極的に相談に乗ると提案してきたのが不思議でもある。大臣ライトラスは種明かしでもするように答えた。

「王と王妃様が、昨今、楽しげなご様子」

 アトラスは自分の心を振り返って理解した。大地は日々揺れるのが当たり前になり、揺れる都度、その残された大地のどこかが海に沈んだのかと不安になる。そして大地が沈んだ証拠として、生き延びた僅かな人々が王都パトローサになだれ込んでくる。

 その状況で、アトラスに出来ることは生き延びた民に僅かな食糧を配給して命を長らえさせる事だけだった

 それはアトラスを支える重臣たちも同じだったろう。今の彼等にとって、軍船を海に浮かべる相談に加わる事が、自らの無力感を振り払う唯一の方法だった。

 アトラスは自分と向き合う事を避ける妻の背に声を掛けた。

「エリュティア。そなたも同席するか?」

「もちろんです」


 王宮に来た二人は、いきなり王宮の広間に謁見の場所が変わり、そこに居並ぶ重臣たちにも驚いたようだった。

 心を落ち着ける間を置いてエキュネウスが言った。

「あの船の修理の見込みは立ったのですが、あれをどうやって運ぶのか。何よりどうやって王宮の城壁の外に出せば良いものか、戸惑っております」

「そう言えば……」

 自分にも分からないと首を傾げたアトラスに、大臣ライトラスが言った。

王都パトローサまで運んできた船は、広場に置く予定もあったのですが、王宮の西の城門が老朽化して建て替える時期だったのです」

「広場に置いたままならば良かったものを」

 アトラスの疑問にライトラスがジソー王の心情を説き明かした。

「ここまで運んでくるのも大変でありました。大変だった故にジソー様にとって民に触れさせたくない宝物になったのでしょう」

「それで、改築する予定の城門から運び入れ、更に宝物庫の前に置いて、その周りを壁で被った。何という面倒な事だ」

 人の欲望は膨れあがって猜疑心を駆り立てる。エリュティアの父でシュレーブ国王のジソーも、王の権威が民に触れられたり傷つけられたりすることを恐れた。

 しかし、その愚かさのおかげであの船は今でも当時の姿を保っている。ただ、その軍船も今は宮殿を囲む城壁と言っても良い頑丈に壁に囲まれている。城門はあっても兵士が隊列を作って抜ける程度で、軍船を通すには高さも幅も足りない。

「誠に残念ではありますが、あの巨大なものを通す城門などありません。船を宮殿の外に出すのは無理でありましょう」

 重臣の一人がそう言い、他の者たちも残念そうな表情を浮かべつつも同意して頷いていた。現状を冷静に考慮して、船を王宮の外に出す事など物理的に不可能だというのが多くの重臣たちの判断だった。

 アトラスは重臣たちの言葉を気にもとめずに言った。

「まずは、王宮の壁のどこを取り崩すかということだな」

 王宮。その一部とは言え、権威の象徴ともなる建物を取り崩すと平然と言ってのけるアトラスにジグリラスが聞いた。

「それがルージ流なので? 王の故郷の宮殿ではいかがです。何かのために城壁を取り崩すことがあったのですか。」

 王の権威を守る壁を取り壊すなどあり得ぬ事だろうというのである。

 アトラスはこの宮殿を見回して記憶を辿った

「私の母が若くしてヴェスター国から嫁いだ時、王の住まいを前にして、これは商人の舘かと尋ねたという。それに我が妹のピレナ。母に叱られて拗ねると、舘の裏の柵を乗り越えて逃げ出して町へ出かけていた。その王の館やそれを囲む塀や柵などその程度のもの」

 

 エリュティアが首を傾げて不思議そうに尋ねた。

「まさかの時、王のお命を狙う者が王宮に侵入した時にはどうするのですか」

 アトラスが父やそのまた父から引き継がれた遺訓の記憶を辿って言った。

「民にとって良い王なら、民の中には王に害を為す者は無く。仮に現れても民が王を守る。私もそうありたいものだ」

 他国の者から見れば、歴代のルージ国王と言えば、勇猛果敢さで鳴り響き、家臣や民に対して厳格、時に残忍な王というイメージがある。その過去のイメージを改めねばならぬらしい。

(民に敬愛され、民に守られる王になりたいと仰せか)

 重臣たちは密かにそう囁きあった。


 アトラスは言った。

「船を王宮の塀の外に出したとして、その先はどうすればいい? 四方に幅の広い街道が延びているとは言え、船には幅があり、長さも相当なものだぞ」

 他国から王都パトローサを訪れる人々を感嘆させる町並みを貫く幅の広い街道だが軍船を通すのにはぎりぎり。船の長さを考えれば十字路で方向転換する事など出来まいという。

 大臣ライトラスが進み出て言った。

「船の道と呼ばれた道がございます。ルードン河の川辺からこの王都パトローサの中心部まで船を運んだ道です。それを逆に辿ればよろしいのでは」

 アトラスは少し首を傾げた。馬で郊外を散策する際に街中を通るが、船を自由自在に通せる幅の街道は記憶にない。しかし、アトラスは大臣の言葉を否定せずに言った。

「船の道とやらを見聞しなければならないだろう。まずは、宮殿から王都パトローサの郊外まで。ライトラス。案内を頼むぞ」

「分かりました。この老骨の記憶を振り絞りましょう」

 間もなく、アトラスは老骨が記憶を辿ると言った意味を思い知らされる。アトラスはエリュティアの意向も汲んでおかねばならない事を学んでいた。

「エリュティア。そなたも行くか?」

「いえ、王都パトローサは私の生まれ故郷。見聞しなくとも知っています。私は部屋で刺繍を続ける事に致します」

 彼女はそう言って椅子から立ち上がって言葉を継いだ。

「私には船の帆は縫えませんもの」

 椅子から立ち上がって居室に戻る彼女の背を眺めて、アトラスは彼女が未だ感情をこじらせ続けている事を知った


 普段の外出には、馬に乗るアトラスだが、馬に乗れぬ大臣ライトラスたちを伴うため、彼もまた徒歩の見回りとなった。アトラスたちに口出しをし辛いギリシャ人二人は、後事をアトラスに託して去った。

 アトラスは近習のテウスス、スタラスス、レクナルスの三人を伴い、大臣ライトラスはアトラスたちを先導して数人の重臣とともにその前を歩いた。

 ライトラスは宮殿から西に向かう街道を辿りながら説明を続けていた。

王都パトローサは、宮殿と神殿を中心に、四方に伸びる街道に沿って町並みが広がって行きました」

 ありきたりな光景の説明を聞き流しながらアトラスは感じていた。

(新鮮な光景だな。これが民の視線か)

 地面と馬上、僅かな高低差だと考えていたが、大地を踏みしめて眺める町の景色はいつもと違うようにも思える。特に街道を行き来する民との距離が近い。

 大臣ライトラスは説明を続けている。

「とりわけ、東へ向かう街道はリウダの町を経て、南に向かう街道はルードン河の船着き場を経て、聖都シリャードに続きます。その街道は巡礼者や商人で賑わい、宿や商店が建ち並んでいきました」

 年寄りは話しが長い。アトラスは推測される結論を尋ねた。

「しかし、宮殿の北や西には家々も少なく、町の外から船を運び入れるのに都合が良かったと言う事か」

 大臣ライトラスが語る記憶は、彼がまだ若い時代の光景だろう。今のアトラスの目の前には街道沿いに商店や住居が建ち並んでいるばかりではない。うち続いた戦や、故郷が海に沈んだ時に逃げ延びた流民たちが、元からあった家々の隙間のような僅かな空き地に掘っ立て小屋を建てて住んでいる有様だった。

 アトラスはその光景に首をひねって考えた。

「さて、どうしたものか」

 王都パトローサの郊外へ船を運ぼうとすれば、街道沿いの住民たちから家を奪って取り壊さねばならなくなる。

 軍船を海に浮かべるという計画は早くも行き詰まって先が見えない。悩むアトラス一行の傍らを行き交う民が居る。

「あらっ。あれはアトラス様じゃないの?」

 指さす事は避けてその視線でその人物を示す女に、その夫らしい男が答えた。

「そうだ。悪鬼ストカルが、何の用だろう」

 アトラスの姿で、その妻のエリュティアを思い起こして、手を曳く母に尋ねる子どもがいる。

「エリュティア様はどうなさったのかしら」

 

 民はアトラスの顔を知らなくとも、片腕の若い武人という特徴でそれがアトラスだと気づいた。そして、その男が彼等が敬愛するエリュティアの夫だという事も良く分かっているだろう。

 街道を行き交う民や、その存在に気づいて戸口から顔を出す者たち。アトラス一行から漏れ聞こえる会話からその目的を知ろうと興味津々だった。


 アトラスの警護を務めるテウススたち臣従の者から見れば、その民の視線に以前の嫌悪感や憎しみは和らいでいるように思えた。

「エリュティア様のご威光はすごいものだな」

 スタラススがそう言って、レクナルスが頷いた。

 一方で、ジグリラスは別の感想を抱いていた。

「ルージの流儀というのは、これほど王と民が近しいものか」

 歴代のシュレーブ国王は民と距離を置く事で権威を誇示した。しかし、アトラスはそうではない。そう呟いた息子に、父の大臣ライトラスはアトラスが言った事を繰り返した。

「民を幸福にできるかどうかで、王の尊厳が決まる。そういうお方なのだ」

 そんな驚きが一行の油断を生んでいた。


 王宮を出て以来、一行は民の奇異な視線に晒され、侮蔑に満ちた視線も混じっていた。そんな中に、とりわけ害意のある視線が混じっていて、こちらを窺いながらつけて来る気配がある。何かの危険な雰囲気を察したテウススが、スタラススとレクナルスに警告を発した。

「気をつけよ」

 アトラスたちは馬にも乗らず、民を畏怖させる甲冑も身に着けていない。武器と言えば短剣を携えているだけ。

 テウススが感じ取った危険が現実になった。

悪鬼ストカルめ。冥界の炎で焼かれるが良い」

 そんな叫びとともに投げつけられた石はアトラスを狙ったに違いない。しかし石はアトラスを逸れて傍らにいたジグリラスの肩に当たって落ちた。ただその後も投げつけられた石は十数個に及んだ。その一つは宿の二階の窓から放たれてアトラスの頭部に当たった。そんなアトラスを次の石から庇おうとしたスタラススやレクナルスも苦痛の声を挙げた。

 重臣たち一行やその近くにいた民も巻き添えを食って街道にうずくまってしまう者も居た。

 テウススたちにとって不埒者を捕らえるより王の身柄を安全な場所に移す事が優先だった。

「王よ王宮に戻りましょう」

 彼がそう提案してアトラスを抱えるように支えた時、テウススの手はアトラスの頭部から流れる血に赤く染まっていた。血はアトラスの目に流れ込んで彼の視界は赤く染まった町並みと民がぼやけて見えた。

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