運命に向き合う
(もしも船出するなら……)
帰国から目を背け続けていたエキュネウスはそんな事を考え始めていた。ただ、それは小さな穴から可能性の光が差したに過ぎず、帰国を決意させる為にはいくつもの問題を抱えている。
大きな問題の一つは故郷の地を踏む事を夢見ながらも果たせずなくなった多くの仲間のために、残された僅かな仲間を帰してやらねばならないという指揮官としての義務感。
そして一人の男として、愛する妻を危険にさらす事が出来るのかという思いだった。そんな思いが入り乱れながら決意を込めて考えた。
(わたしは、彼女と共にこの地に留まろう)
そんな決意すら、今のエキュネウスは諦めではなく、船出の希望を抱いていた。自分はともかく、部下を帰国させて故郷で帰りを待つ家族に会わせてやれるかも知れない。
そんな思いが伝わったのかどうか、ユリスラナが物思いにふける夫の足音で、帰宅に気づいて待ち受けていた。ここの所、思いがずれて夫婦仲はぎくしゃくしている。そんな関係でも、いつもなら笑顔を取り繕う彼女の表情が、今は固い。
首を傾げるエキュネウスに、ユリスラナは思い詰めた瞳で言った。
「エリュティア様が、私に貴方と一緒に海を渡れと仰るの」
あまりに唐突で、エキュネウスはその言葉の意味を理解しかねた。ユリスラナは物わかりの悪い夫に言い聞かせるように言った。
「船よ。貴方がいつも見ている船。貴方は故郷に帰りたいんでしょう」
彼女の言葉に、彼は以前伝えた命の危険について確かめるように尋ねた。
「怖くはないのか?」
「怖いわ。でも……」
「でも?」
ユリスラナはエキュネウスの胸に顔を埋めて言った。
「私のせいで、貴方をここに縛り付けて死なせてしまうのはもっと怖い」
ユリスラナはエキュネウスのために命を危険にさらす決心をしたと言う。彼はそっと彼女を抱きしめて、伝わってくるその体温と肌の質感で彼女の愛情を味わった。心を落ち着ける間を置いて言った。
「しかし、まだ難しいのだ」
「どうして?」
彼女の問いに、エキュネウスはデルフィネの言葉を思い出して言った。
「あんな巨大で重い物を海へ運ぶ術がない」
そう言われれば、ユリスラナにもそんな方法は思いつかない。しかし、彼女は笑顔で立ち上がってエキュネウスの手を曳いた。
「来て」
「何処へ行くんだ?」
「エリュティア様に相談しなくては」
エリュティアは一国の王妃、ユリスラナはそのお付きの侍女。エリュティアは幼い息子の乳母に、身分差を越えて、自分の分身に相対するように気さくだった。
居室に二人を迎えて、エリュティアは寛いでベッドの端にユリスラナと並んで腰掛け、椅子をエキュネウスに勧めて事情を聞いた。エリュティアは朗らかな表情で断言した。
「船があるなら、使えば良いんだわ」
エリュティアの考え方は前向きで、否定的な側面など見えていないようだった。エキュネウスはもう一度、問題の大事な点を説明せざるを得ない。
「ですから、その船を運ぶのが……」
女二人はエキュネウスのそんな言い訳などに耳を傾ける気はない。エリュティアはユリスラナと顔を見合わせたかと思うと、次の行動を起こすかのように立ち上がって言った。
「では我が夫に尋ねてみましょう。きっと良い知恵を出してくれるでしょう」
彼女がそう言い終わる前に部屋の入り口に姿を見せた人影を見つけて嬉しそうに言った。
「あらっ、ちょうど良かった」
エリュティアに招き入れられて部屋に入ってきたのは、妻と息子に心の癒しを求めてきたアトラスだった。アトラスは部屋の中の事情も飲み込めぬまま、エリュティアが指示した椅子に腰掛た。エリュティアは一通りの説明を次の言葉で締めくくった。
「宝物庫の前の船を海に戻せればいいのですが」
「海から運んできたのなら海に戻せばいい。エリュティアよ。その船は、そなたの父、ジソー王が運ばせたのだそうだぞ」
エリュティアにとって思いも掛けない懐かしい人物の名だった。アトラスがエリュティアの柔和な表情に癒されたのは、この瞬間までだった。部屋に侍女が一人姿を見せ、アトラスにリマルダの地から使者が到着したと伝えた。アトラスの表情が険しくなった。ロッデルススに関わる新たな情報がもたらされたと言う事に違いない。
「詳しい事はライトラスが知っている。彼に聞くがいい」
アトラスは作り笑顔でそう言い終えると足早に部屋を去った。
女たちと共に部屋に取り残されたエキュネウスは、希望の笑みを浮かべてぼんやりと考えていた。
(運命に前向きになるというのは、こういうことか)
エキュネウスが目を背け続けていた帰国に向き合いかけて以来、閉ざされていた帰国への扉が少しづつ開き始めている。ただし、その扉も開きかけているというだけ。森に住むギリシャ人たちの中に船を操る経験を持った男たちが居るようだが、その者たちの協力が得られるだろうか。何より軍船の前で出会った男は帰国に興味を示していなかったように見える。そして、船を海に運ぶには、森で樹を切り出して運んでくる者や、そんな樹を並べて作った船の道の上、船を移動させる大勢の人手が要る。
船に乗れるのはせいぜい三十人か四十人に過ぎない。ほとんどの者はこの大地に残される。残されると気づいている者たちが、船出をする僅かな者たちのために苦労して船を運ぼうとするだろうか。
ただ、エキュネウスはエリュティアとアトラスという協力者を心強く信じていた。あの二人は必ず力になってくれるに違いない。
しかし、同じ頃、宮廷の会議室では、エキュネウスの期待が外れかねない状況が起きていた。
アトラスは宮殿の会議室で重臣たちに囲まれて、この日、リマルダ領主リシアスからもたらされた知らせに眉を顰めていた。リマルダの地の村々から、男、女、老人、子どもがロッデルススが率いる集団に加わって、更にその人数を増やしている。
神官はロッデルススを讃える言葉で民を煽り、煽られた民衆もまた、ロッデルススにこの世の救いを求める言葉を叫んでいるという。
アトラスはそんな報告を聞きながら、ふと首を傾げた。
「しかし、奴らはどうやって食糧を手に入れているのだ?」
アトラスたちは長い戦いの中、兵を飢えさせないように食糧の確保に気を配る。兵士が行軍する後ろには、時に補給物資を運ぶ者たちが兵士の列より長い列を作っている事さえある。そんな体験をロッデルススが率いる集団に当てはめれば、彼等の宿営地では早晩持参した食糧は尽きるだろう。ましてや、夜な夜な宿営地でどんちゃん騒ぎしていれば、気分は盛り上がるが、食糧の減りも早いに違いない。
アトラスの疑問が、ロッデルススの集団では現実になっていた。この日、彼等の本隊は王都までまっすぐ進めば、足の達者な商人なら二日でたどり着く距離にいた。宿営地から周辺の町や村に神官や巫女を遣わして人々の不安に付け込んで煽り、ロッデルススの救いを説かせる。本隊は半日ばかり、目的地をごまかすように、北へ、南へと進路を転じながらも、全体として西へと移動して、その夜の宿営地を設営する。
時間を掛けながら民を集団に加えていくのだが、その時間もまた食糧を浪費する。
ロッデルススがその集団の唯一の権力者だった。権力欲を振りかざす指導者の配下の人間は、頂点にいる人間の機嫌のみを窺って、その機嫌を損じる事は報告しなくなる。集団の危険は突然に現れる。
この日、輸送隊を指揮する神官が、いよいよ避けきれなくなった危険をロッデルススに伝えた。
「ロッデルスス様。食糧が……」
食糧が尽き始めたという。聖都を離れる時には、数十台の荷車に山積みにして食糧を運び出してきた。神殿の食料庫が空になるほどの量だった。
ロッデルススは神官を怒鳴りつける事もせず意外に冷静に命じた。
「ええいっ。至急かき集めれぱよい。食糧や酒を贖う銀など、たんとあろう」
「それが……」
神官たちは既に銀で贖える食糧や酒など、町や村で調達し続けた。そうやって、ロッデルススの率いる集団は、ネズミの大群のように各地で食糧を食いつぶしながら移動している。町には売り物となる食糧の蓄えもなくなり、貧しい村では村に残された者が飢えている有様だった。
新たに食糧を確保しようとしても、神職にある者たちに加えて、数千にふくれた民に与えられる食糧が存在する町など限られている。
食糧を集めろと言うロッデルススの命令の実行は不可能だった。神官たちは今度こそ怒鳴り散らすに違いないロッデルススに震え上がった。
しかし、ロッデルススの機嫌は悪くない。彼は決意を込めた皮肉笑みを浮かべて呟いた。
「そろそろ頃合いということか。王都に出向いてやるとするか」
彼に従う民を募り、数千になった。この民は彼の盾となって、アトラスはロッデルススに手出しをする事は難しかろう。
一方、この民はロッデルススの剣にもなる。彼に付き従う民を王都になだれ込ませて、王都の民を同様に煽ってやれば、災厄を防ぐ事も出来ない王の権威を削ぎ落とすこともできよう。
そして、いきなり飢えた民を抱え込めば困るのはアトラス。ロッデルススはその混乱に付け込んで更に混乱を広げ、民を救う事も出来ない無能な王という印象を盛り上げ事も出来るだろう。無能な王か、神々の威光を背負う自分か、民がどちらを選ぶかは自明の理。この大地の支配舎の座はゴルロースに転がり込んでくる。
「王都の大神官長に使いを出し、そちらに向かうと伝えさせよ」
大神官長ゴルロースにも、王の権威を内部から突き崩させてやればいい。そんな想像をしながら、彼は自らの思いつきに興奮し、握る拳が無意識のうちにぶるぶる震えていた。神官たちには彼の目に狂気が宿っているようにも思えた。
アトランティスの大地で生きる人々にとって日常の出来事になった大地を揺らす冥界の神の笑い声だが、この時はいつもよりやや大きいようにも思えた。




