ローホムスの名と運命
明くる日の朝、アトラスは馬の調練と称して王宮の近くを一回りした。片腕のない馬上の男を見れば、アトラスを見た事のない旅人でも、彼の名を呟いただろう。そんなアトラスに笑顔を向けるどころか、視線を合わせる者は居なかった。王都の民にとってアトラスは町を戦火に包んだ征服者だった。
アトラスは諦めに似た感情でそんな民を眺めていた。
(不安が私への憎しみで晴れるならそれもいいだろう)
王都の中央部を離れ、通りに人が少なくなった。アトラスは馬を緩く駆けさせる事に決めて、それを伝えるように背後を振り返った。彼に続く者は、未だ少年らしさも残るスタラススとレクナルス。
彼はその二人と姿を重ねて懐かしい名を呟いた。
「ザイラス。オウガヌ。ラヌガン。アドナ」
呟いた名は彼の傍らに寄り添うようにいて、彼を支えた者たちの名だった。テウススが騎馬兵を率いてリマルダに遠征した今、彼の傍らにいるのはスタラススとレクナルスだけだった。そして彼が乗る馬も、幼い頃から心に秘めた愚痴を聞かせる事が出来た唯一の友と言える愛馬アレスケイアでもなかった。
たった数年の時が、アトラスの大切な者を奪い、その代償のように得たエリュティアとは、未だ心に僅かな垣根がある。
テウススが向かった東の方向を見れば、農民たちが丹誠込めて育てた麦が大地一面を緑に染めているように見えた。
このシュレーブの地は、広大なアトランティスの中原の大穀倉地帯だった。この地を拠点としたシュレーブ国が富み、多くの民を抱えていた所以である。アトラスたちには現在のアトランティス大陸の全貌を正確に知る統べはないが、各地から寄せられる知らせや、領主たちの途絶えてしまった消息、各地からくる避難民の様子などを取りまとめて判断すると、今や王や領主が民を守って存在する地は、このシュレーブの地と東のリマルダの地だけではないかとも考えていた。
王都から麦畑を貫いてリマルダの地に続く街道上にいくつかの荷車が見える。山のように積み上げた荷をロープで縛り付けてはいるが崩れ落ちそうに見えるほど。
男が荷車を曳き、女と子どもが後ろから押す。家財道具を抱えて、神の下、聖都へと避難する家族たちだった。
レクナルスがアトラスに馬を寄せて忌々(いまいま)し気に言った。
「神官どもは、冥界の神が、大地と民を冥界に引きずり込んでいると」
彼は故郷の親族を失って間もない。
大地が人と共に海に沈む。それは彼等にとってこの世から消え去る事ではない。大地も海も空も、元は一つの静寂の混沌の一部。そこは全ての調和が保たれる安息の世界。死はその本来あるべき所に戻るだけ。レクナルスはようやく別れた者たちも静寂の混沌の一部に戻ったと自分を納得させたところだった。
しかし、神官たちは人々の不安に付け込もうとする。彼等は新しい解釈を広めた。今、アトランティスを襲う災厄は、冥界の神が、人々を憎しみと苦痛の世界へ引きずり込もうとしている。そこには安息はなく、永遠の業苦の世界。救われたければ神官を頼れということである。
日々、王都を捨てて聖都向かうのはそんな噂に踊らされた者たちだった。
アトラスは彼等に、この地に留まれとも、災厄から守ってやるとも言えなかった。
口に出せない失意を感じる時、アトラスはエリュティアの姿に救いを求め続けてきた。この時のアトラスも、王宮に戻るや、息子の顔を見るという口実で、エリュティアの居室を訪れた。
侍女から王の来訪を告げられたエリュティアは、微笑んで夫を出迎えた。彼女には一つ経験してみたい事があった。
部屋に踏み込んできたアトラスは、彼に向き合うエリュティアの気迫に飲まれるように黙りこくった。エリュティアは一言も発しないまま、決意を固めるようにアトラスを数歩の距離を置いて見つめていた。アトラスは予測できない彼女の次の行動を待つしかなかった。
やがて、彼女は恥ずかしげに、しかしきっぱりと言った。
「私は貴方の事を愛しています……。とても」
「はぁ?」
剣を交える実戦では心が機敏に反応するが、この時は妻の思いもかけない言葉に戸惑った。訳は分からないが、誠実な妻の笑顔に何とか応じなければならないという焦りがアトラスを更に混乱させた。
混乱したアトラスの様子に、エリュティアも戸惑った。彼女が眺めたユリスラナとエキュネウスの例では、愛するという言葉を放てば、愛するという言葉が返ってきて二人の心の隙間が埋まる。しかし、アトラスは戸惑いを見せるだけだ。
やや哀しげな表情で首を傾げたエリュティアに、アトラスは自分の大きな失態に気づいたように我が身を恥じた。思い起こせば、彼は妻に愛していると素直な言葉をかけた事がなかった。
アトラスも戸惑いながら、初めての言葉を真面目な表情で口にした。
「エリュティアよ。私はそなたの事を愛している」
その言葉でエリュティアの表情が一気に明るくなった。アトラスはその表情の変化に満足感を味わっていた。
しかし、エリュティアは再び不満そうな表情を浮かべた。彼女が見聞きした経験から言うと、愛の言葉を交わした男女は、その言葉の直後に互いを抱きしめ合うはずだった。それなのにアトラスはじっと立っているだけ。
エリュティアはため息をつくように微笑んで、揺りかごからローホムスを抱き上げて言った。
「この子も一緒に」
彼女は赤児を抱きながらアトラスに歩み寄って、彼の胸に額を預けて寄り添った。愛情表現に疎いアトラスも、ようやく自分がすべき事を悟ったのか、それとも本能的だったのか、右腕と、肘から上だけの左腕で、妻と子を抱きしめた。
アトラスとエリュティアは心まで一つになるような心地よさに酔った。二人が思い起こせば、ルージ国王、シュレーブ国王女という分厚い殻を纏ったまま結ばれた。今の二人は、それぞれが殻を脱ぎ去って、一人の男と一人の女、人間同士して接した瞬間かも知れない。愛し合ってはいたし、相手を信頼してもいたが、どこか距離を置いていた。その垣根が消失した。
そんな二人の間で幼いローホムスは陽気にけらけらと笑った。その笑顔でふと気づけば、エリュティアはアトラスに尋ねたい事がある。
「貴方は、この子の名を考えた事はなかったのですか?」
エリュティアが考えた名を、アトラスはそのまま受け入れて自己主張しなかったと言う事である。アトラスは首を傾げた。
「何故そんな事を?」
「貴方の考える事が知りたいのです」
エリュティアの真摯な目に、アトラスも真摯に応じなければならない。アトラスは心の闇を整理するように一拍の間を置いて、考えながら語り始めた。
「私は剣を振りかざして血まみれの道を歩いてきた。そんな私に思いつくのは荒々しい名前だけ。しかし、子どもには他の道を歩めと願って名付けたいと考えていた」
「それで、私の思いついた名そのまま?」
「なにより、そなたに会った時にその印象がした」
「私に?」
「そなたにサーフェの花のような大輪の花を印象に持つ人は多かろう。しかし、一輪が咲き誇るだけの草花は寂しくもある。私はそなたが、多くの家臣や民の敬愛を集めているのが羨ましい。家臣や民を一つの花だとするなら、そのいくつもの小さな花を調和させて違和感がない包容力。それはそなたを象徴するようだ。子どもにもそんな母の資質を受け継いで欲しいと思った」
「私も、息子には貴方のように迷いのない道を歩んで欲しいと考えています」
道という言葉はアトラスの心を刺激した。
「私は迷いながら生きてきた。いくつもの分かれ道があったのでは、と思っていた。ただ、今、振り返って思うのは、一途に生きるなら、辿る道も一本だけだったということ。ただし、それは、エリュティア。そなたの導きがあったから。この子も、導く者と出会えるよう祈っている」
それを聞いたエリュティアは胸に抱いた子に語りかけるように言った。
「私は、この子が父親のように、勇敢に前を見て進み続けて欲しいと願っています」
そんな夫婦をあざ笑うように大地が揺れた。アトラスとエリュティアは他が体を寄せ合って支え合った。そんな揺れも収まって、エリュティアがローホムスを揺りかごに戻した時、夫婦の心の油断をあざ笑う激震が起きた。揺りかごの中の赤児が飛び出すのではないかと感じるほど、床は上下左右に揺すぶられ、エリュティアとアトラスは立っている事も出来ず、エリュティアは床に膝を突いて揺りかごを支え、アトラスは赤児を守るように揺りかごに覆い被さった。
二人の目の前に幼いローホムスの顔があった。二人の表情が曇っていた。二人は大地が海に沈む運命の中で、淡く死の運命も予感していた。二人で寄り添って最後の時を迎えるならその運命を受け入れる諦めもある。ただ、この幼子にも同じ運命が襲いかかる。




