新たな憎しみの気配
王宮の敷地の隅。宝物庫を囲む高い塀の一部が崩れていた。長身のユリスラナの視線の高さまで壁が崩れ宝物庫の前の中庭が見えていた。
僅かに背伸びをしてその石塀の裂け目から中を覗けば、下から天へ、太い柱が伸びていた。その柱の下は未だ崩れていない壁に遮られて見えないが、柱は船のマストに思えた。ギリシャ兵たちの船は焼けた。アトランティスの大地はその周辺部から海に沈み港や浜に着岸していた船も共に失われていた。彼女にとって思いも掛けない場所に突然の予兆のようにそれがあった。
この船は彼女の不安を煽った。以前の彼女なら、この景色を自分の大発見のように陽気に語ったかも知れないが、今は愛する人との子供を失って傷を心に負っていた。彼女はただ素直な疑問を口にした。
「どうして、こんな所に作ったのかしら」
彼女は船には素人だが、この場所にこんな巨大なものがある違和感は感じていた。王宮から遠く離れたルードン河の川辺に、小さな川船を見かける事はあっても、目の前の船は彼女が今までに見たどんな船より大きい。海に浮かんでいてもおかしくない船だった。
「黙っておこう」
彼女は呟きさえ他人に聞かれる事を恐れるように、心の底に呟いて決めた。幸か不幸か、崩れた石塀はほんの一角。王宮の敷地中で民が目にする場所ではなく、王宮勤めをしている者でも、わざわざこんな場所に足を運ぶ者も居ない。黙っていれば船の存在に気づく者は居ないだろう。
(こんな地面の上の船なんか何の役にも立たないんだから)
彼女は本音を隠してそう考える事に決めた。
彼女は夫のエキュネウスと共に、王宮の庭園の隅の園丁の小屋を与えられて住んでいる。夫の部下の兵士たちは倉庫だった建物にベッドを運び込んで宿舎にした。彼女がそんな庭園の一角に戻って空を見上げれば、陽は中天に差し掛かり、王都郊外の宿営地に練兵に出かけていた夫が、部下の兵と共に帰ってくる時間だった。
エキュネウスは彼等の指揮官という立場だが、配下の兵は彼より年配の者が大半だった。彼は若さを補うように何事にも責任を背負ってきた。それに気づいているから、兵士たちは歳は年配でも、自分自身が生き延びるために彼に付き従っている。
故郷のギリシャに妻や老いた両親を残してきた者も多い。中には子どもまで残してきた者もいる。彼等の望郷の念が募っていた。エキュネウスも両親と姉が居る。
アトラスは宮殿の警護という任務で彼等を民から距離を置こうとしたが、ギリシャ兵たちの望郷の念を和らげるためには広い郊外の宿営地で不安を汗とともに流し出す事も必要だった。
王宮に戻った彼等は、早い昼食の後、宮殿の警護という与えられた仕事に就く。しかし、それも名目だけのもの。庭園に忍び込んで王妃を害そうとする者など居るもなく、彼等は見回りと称して庭園の端を行き来するだけ。単調な仕事の中で再び故郷の記憶が蘇ってくる。
陽が落ちて庭園に人の姿が途絶えるとギリシャ兵の仕事も終わり。兵士は宿舎に戻り、指揮官エキュネウスは、彼を待つユリスラナがいる小屋に帰る。
夫婦の会話は少ない。二人が出会ってからの記憶から会話を始めれば、どちらとも無く話題が亡くなった子どもの記憶に行き着く。二人にとって避けたい話題だった。
彼女はそんな話題を避け、思い出したように怒りを込めて言った。
「貴方たち、エリュティア様の目の前でローホミルを踏みつぶしたでしょう」
「ローホミルだって?」
「そうよ。地面に咲く小さな花」
「そんな花の事なんかどうでも良い。私は故郷に帰れないと嘆く仲間を慰めてやらねばならない。しかし、私には荷が重い。戦なら勇気を鼓舞できても、彼等を待つ故郷の家族の記憶を消す事は出来ない」
「貴方の記憶は?」
そう聞かれてエキュネウスには記憶を辿る間を置いて言った。
「私とて同じ。故郷には両親と、妹が居る」
彼の言葉に一拍の間が空いた事に、ユリスラナの不安がかき立てられた。その一拍の間に彼が故郷にいる恋人の存在を隠したのではないかと
彼女はそれを尋ねる勇気もなく話題を戻した。
「貴方たちが不躾にも庭園のローホミルを踏みつぶしたので、エリュティア様が悲しんでおられるのよ」
「それは、気づかなかった事とはいえ、失礼な事をしてしまった。明日会った時にお詫びしておかなくては」
「いいわ。私から伝えておくから」
この時、大地が揺れた。エキュネウスは妻を守るように抱きしめた。
「今度は何処の地が沈んだのだろう」
夫の呟きで、ユリスラナは夫がこの世界の状況を受け入れている事を知った。しかし、今の彼女にとって、この大地のどこかが沈むという事より、宝物庫を囲む塀がもっと大きく崩れて、あの船が人々の前に姿を見せるのではないかという不安が大きい。
この日、宝物庫を囲む塀を崩した大きな地の揺れと、今、二人が経験した支え合わなければ立っていられないほどの大地の揺れ、その恐怖と不安の残り香のように、小さな揺れが幾度も続いて途絶える事がないようにも思えた。
そうやって二日ほど過ぎた日の朝。エリュティアはいつものように赤子に乳を飲ませ、未だに乳房に吸い付いて離そうとしない我が子に寂しげに首を横に振って、揺りかごに戻した。誰を恨んで良いのか分からない身の不運を嘆く表情だった。彼女はそっと庭園に身を移した。間もなくユリスラナがやってくる。庭園の片隅に彼女が住まう小屋が見えた。
更にその向こうにある宿舎からギリシャ兵が出てきたかと思うと、規則正しく整列して行進を始めた。王都郊外の宿営地に練兵に行く。
彼等のかけ声は勇ましく足並みを揃えて行進する様子は信頼に足る。一方、ユリスラナに叱られて以来、顔は正面を向けているが、その視線は地面に注いでいた。勇壮な兵士が足下に気を配って歩く様子は微笑ましい。
そんな微笑みを打ち消す騒ぎが起きた。アトラスは王宮の広間に大臣ライトラスをはじめとする主だった者を集め、東のリマルダの地から来た緊急の知らせを携えた使者を謁見をしていた。
使者から領主リシアスの伝言を聞いたアトラスは思わず叫ぶように言った。
「僧兵どもが我が国を侵しているだと?」
アトラスばかりか広間に集う者たちに緊張が走った。聖都は独立した都市国家で聖職者たちが支配する場所だった。その治安維持のために僧兵が住人たちの犯罪を取り締まる事はある。
ただし、聖都の門を一歩出れば、そこはルージ国。聖都の僧兵が武器を振りかざす事は、ルージ国王に武力を持って敵対するということである。
使者は頷いて事の重要性と緊急性を語った。
「その通りでございます。武器を携えた僧兵たちが、神殿への寄付を募ると称してリマルダの村々を回っております。」
「寄付を?」
そう言ったアトラスは気づいた。彼は神々の祝福税を廃止させた。聖都の神官はそれに換えて、寄付を強要するという形を取ったのだろう。使者は言葉を続けた。
「寄付と称していますが、武器を振りかざして村人たちを脅して居る有様。役人を遣わしましたが、武器を携えた僧兵が多数。役人では相手に出来ませなんだ」
住民たちを脅して寄付と称して金品を巻き上げるのも聖都の中ならアトラスに口出しは出来ない。しかしアトラスが治める土地で、聖都の僧兵が略奪を行うなど黙っている事など出来ない。アトラスは怒鳴るように尋ねた。
「馬鹿な。僧兵どもめ、どういうつもりだ。それでリシアスは?」
「役人では対処しきれぬ故、兵を集める許可を求めて居られます」
各地の領主が護衛や治安維持に普段から抱えている兵など、たかだか数十人。戦の場合は、王の命令を受けたり王の許可を求めて領地から兵を徴募する。まだ幼い領主リシアスは聖都の僧兵と剣を交えてでも民を守る覚悟だという。
アトラスは王座から立ち上がり、微笑んで言った。
「よく言った。さすがは勇者ガルラナスの息子。許可する。必要ならこの地からも兵を送る。遠慮無く申し出よと伝えよ」
使者は決意を込めて一礼して去った。その後ろ姿を見ながら広間に緊張感が消えない。聖都の神官たちがアトラスと敵対する状況になれば、ルージ国内にある神殿の神官たちも聖都の神官に味方するだろう。
アトランティス全土を巻き込んだ戦も終わったはずだったが、思いも掛けない火種が燃え広がろうとしていた。
そして同じ日。最初の使者からやや遅れて次の使者がアトラスに面会を求めた。
(何か僧兵との争いで良からぬ事でも起きたか)
アトラスはそう考えたが、事態はもっと悲惨だった。
「リマルダの東が二ゲリア(約1.6km)海に沈みました。また、ルードン河対岸のヴォロルの地ももはや海に呑まれたようです」
アトラスたちにも心当たりがある。二日前にこのシュレーブの地が大きく揺れた。その揺れが東のリマルダの地では岸辺が大きく失われるほどの災厄だったと言う事だろうか。
アトランティスの大地に襲いかかる災厄は留まる事もなく続いている。その状況でさえ、人々は争い続けていた。




