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二人の母

 昼食には少し早い時間に始まったエリュティアの出産も、既に日は西に傾きかけている。王宮の厨房では調理人たちが出産の噂をしながら夕食を作り始めているだろう。王妃が産気づいたという噂は、既に王宮中に広がって知らぬ者は居ない。

 しかし、赤ちゃんが産声を上げたという知らせがないまま過ぎる時の中に、不安も混じり始めていた。アトラスは大臣ライトラスに命じて、彼のこの日の予定を全て日延べさせ、居室に身を潜めるようにいた。戦場では兵の先頭に立つアトラスだが、この時は偵察でもさせるように、スタラススをエリュティアの居室へと送った。

 スタラススはハリエラナに叩き返されるように戻って報告した。

「まるで戦場のようでした」

 彼が戦場に例えたように、出産を取り巻く苦しみと勇気を鼓舞する声が、緊張感と共に満ちあふれていた。ただ、その戦場は女たちだけのもので、男は役立たずの邪魔者に過ぎない。

 エリュティアの居室に産声が響いたのは、陽も暮れかけて、侍女が宮殿の中にランプに火を灯して回る頃だった。


 産声が上がったと伝え聞いたアトラスは、今までの慎重な態度はうち捨てて、急ぎ足でエリュティアの居室へと急いだ。

 部屋から出てきた侍女と出くわしたアトラスは、祈るような表情で尋ねた。

「赤児は大丈夫か?」

 アトラスの言葉に侍女は微笑んで答えた。

「もちろんです。元気な産声を」

 ただ、その返答はアトラスが聞きたかった事ではない。彼は言葉を換えて質問を重ねた。

「五体は満足か、左腕はあるか?」

 切ない表情で問う奇妙な質問に、侍女たちは戸惑い、顔を見合わせた。赤児の父親の到着を知って出迎えたハリエラナが頷いて保証した。

「もちろん。五体満足な、立派な男の子でございますよ」

 それを聞いたアトラスは感極まって床に両膝をつき天井を向いて祈りを捧げた。

「運命の兄妹よ。運命のニクスス、運命の女神ルルシナよ。感謝いたします」

 アトラスが神に祈る姿を見せるのは珍しい。テウススたち近習は意外な思いでアトラスを眺めた。


 彼の声は部屋の中にも響いてエリュティアの耳にも届いた。

「そうだったのね」

 彼女は小さく呟いて夫の心情を察した。アトラスは多くの人々の悲しみと憎しみに包まれる運命を背負っていた。それを一人で背負うつもりで居る。彼はその運命の象徴が、左腕を失った自分の姿だと考えていた。人の人生における運命を司る運命のニクススが、彼と同じ運命を子どもにも背負わせるのではないかという不安。人と人との出会いを司り、複雑な運命を織り上げる運命の女神ルルシナが、憎しみにまみれたアトラスの運命と、生まれたばかりの無垢な赤児の運命を、残忍な模様に織り上げるのではないかと密かに恐れても居た。

 無事に健康で生まれたと言う事は、赤児は父親の呪われた運命から、解放されたと言う事だろうか。


 ハリエラナは仕事を締めくくるように振り返って部屋の中を見回した。赤児は無事生まれて、暖かく柔らかい産着にくるまれて母親の腕の中にいる。エリュティアは今朝方からの出産の疲れも感じさせずに、愛おしそうな視線を赤児に注いでいた。

(とりあえず。私たちの仕事は一段落)

 彼女はそう判断した。そうなれば、後は自分たち侍女は邪魔者。母と子と子どもの父の三人だけにしておくのが良いだろう。彼女は道を譲るように、アトラスの正面からその傍らに身をかわした。ただし、アトラスに付き従ってきたテウススたち近習を追っ払うことも忘れていない。

「今はご夫婦とお子様だけに」

 テウススたちはその言葉の優しさを察して背を向けて去った。


 アトラスの目の前では、エリュティアがベッドの上で上半身を起こしてで赤児を抱いていた。

 エリュティアは優しい笑顔でアトラスをベッドの側へ誘った。

「早く、ローホムスを抱いてやってください」

 初めて聞く名に、アトラスはベッドに歩み寄りながら首を傾げた。

「ローホムス?」

「ごめんなさい。この子の名にと」

 夫に相談もせず名前を決めていたことをわびるエリュティアに、アトラスは赤児の名前すら考える余裕の無かった自分を恥じた。

「それで良い。良い名だ」

「貴方のように、多くの信頼できる友に巡り会えるように……」

 そんなエリュティアの言葉で、アトラスは名前の語源を悟った。ローホミル。冬の厳寒の地面の上で人知れず枝葉を伸ばし、やがて一株にいくつもの青色の花をつけて春の到来を知らせる。

 

 エリュティアが胸に抱いた赤児から夫に視線を転じて短く促した。

「さぁ」

 アトラスは何かを恐れるように尻込みした。

「いや、止めておこう。落としてしまうと大変だ」

 アトラスが言うのは、左腕のない自分には、赤児を安全に抱き上げてやる事が出来ないかも知れないということである。

 エリュティアが、赤児と夫の顔を見比べて言った。

「私が支えますから」

 エリュティアは両手で赤児を支えて差し出した。アトラスは恐る恐る右腕を伸ばした。しかし赤児を右腕だけで受け取るのに困り、胸で抱き止めようと体を近づけた。父親と母親の体は接近し、額をくっつけ合うほどになり、赤児はその間で機嫌良く笑っていた。赤児はエリュティアの手を離れ、アトラスの短い左腕に赤児の頭を預けて右腕で抱きかかえた。アトラスの目の前に、生まれたばかりの息子の顔があった。

 彼はしみじみと言った。

「良く私の息子になってくれたな。そして、エリュティアよ。よくこの子と会わせてくれた」

 三人は幸福な親子に見えた。ただ、どことなく暗い影が漂っている。まだこの世界のことわりも知らないこの子に、沈み行く大地で生きる苦しみを味あわせる事になる。そして、エリュティアにはもっと身近な不安があった。もともと病弱だった彼女は出産で体力を絞り尽くしたようで、赤児が求めるほどの乳が出ない。


 同じ頃、ハリエラナは厨房に姿を見せて調理人に注文をつけていた。

「粥はもう少し薄く、乳のようにさらさらと流れるほどに。残った粒は麻布で濾して頂戴」

 エリュティアが赤児に与える母乳の不足を補って、赤児に飲ませる飲料だった。数日間は、エリュティアの体調と母乳の出具合を見ながら、今の状態が続くようなら、エリュティアに代わって母乳を提供する女性が必要だった。

 むろん、今はユリスラナが居る。しかし、古くからシュレーブ国に伝わる仕来しきたりでは、ユリスラナに惨い事を言わなければならないかもしれない。


 エリュティアの回復を祈りながらも、それが果たせない日々が五日ほど過ぎた。ハリエラナは意を決してユリスラナの居る小屋へ一人で足を運んだ。布を掛けた手提げの籠の中に小さな椀が見えた。

 小屋に入ってきたハリエラナに気づいたユリスラナは泣きはらした目を上げて、力なく謝罪した。

「すみません。お仕事にも戻れなくて」

「いえ。良いのよ」

 ハリエラナは彼女の背を優しく撫でて宥めた。ユリスラナの新鮮な涙の理由は理解できた。エリュティアが無事に出産した。その知らせは彼女にも届いて、自分の赤ちゃんの死を新鮮な記憶として思いだしているのだろうと思った。

 ハリエラナは周囲を見回してエキュネウスが不在だという事を確認して言った。女だけで話しがしたい。

「ユリスラナ。エリュティア様が無事に出産された事は知ってるわね」

「ええ。元気な男のお子様だったとか」

「でも、貴女も知っての通り、エリュティア様のお体の具合は万全じゃない」

「心配していました。もともとお体の調子が万全ではないのに、難産だったとか」

「そう。それで、赤ちゃんのための乳があまり出ないの」

 ハリエラナは一呼吸置いて言葉を続けた。

「ユリスラナ。貴女の乳をエリュティア様の赤ちゃんに与えてやってもらえないかしら」

 彼女の言葉にユリスラナは即答した。

「ええ。お役に立てるなら喜んで」

 ユリスラナの表情が僅かに和らいだ。ハリエラナは悟った。自分の子どもではなくとも赤ちゃんを優しく抱いて乳を飲ませる。母親だけが感じる幸福感に浸る事を想像したのだろう。

 ハリエラナはそんな彼女に冷酷な言葉を投げかけなければならなかった。ハリエラナは手提げの籠に被せてあった布を取り去った。籠の中にはいくつかの椀が伏せて入っていた。彼女はその椀の一つを大切そうにユリスラナに手渡して言った。

「では、これに」

「これは?」

「一日に三度、貴女の乳をこの椀に一杯」

 自分の乳房を絞って溢れる乳をこの椀に入れろと言う事である。

「赤ちゃんに呑ませるのでは」

「エリュティア様は元シュレーブ国の王族の血を曳く高貴なお方。そのお子様も同じ。平民の女が自分の子のように扱って良いはずがありません。それがこの国の古くからの仕来しきたりなのよ」

 そう言われれば、ユリスラナも、叔母だったルスララから聞いた事がある。

「一日に椀に三杯ほどの乳をエリュティア様に差し上げた」と。

 椀に三杯。母乳をたっぷりと呑ませて差し上げたというたとえ話だと思っていたが、事実だったらしい。

 エリュティアの母アルネアは美しい女性だったが病弱で、エリュティアを生んだ後、充分に乳が出なかった。王宮に出入りしていた商人の妻のルスララが子どもを出産して間もなかった。ルスララは乞われてエリュティアにも乳を提供した。そのうちにエリュティアの子守として仕えるようになり、やがて周囲の信頼も集めて、エリュティアに仕える侍女を束ねる立場になった。ユリスラナはそんな叔母の人柄を思いだしていた。

 ユリスラナはハリエラナの求めに静かに頷いて受け入れた。ただ、他人の赤児に乳を与える事が出来るのに、自分の赤児には乳を与える事がもう出来ない。そう思うと切なくて零れそうになる涙を押さえた。

 

 同じ時、エリュティアは暖炉の前の椅子にゆったりと腰掛けて傍らの揺りかごの赤児を眺めていた。侍女の一人か赤児に付き添うように寄り添っていた。彼女は布の端を椀の中の薄い粥に浸しては、赤児の口元に持っていって吸わせていた。

 そんな光景を眺めながら、エリュティアは涙を抑える思いで呟いていた。

「ローホムス、ごめんなさい。貴方に充分に乳も飲ませてあげられない体の弱いお母さんで」

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