静寂の混沌(ヒュリシアン)の欠片
大地が揺れた。不安に苛まれているのは人間ばかりではなかった。厩舎に繋がれている馬たちも不安に苛まれて嘶き、仲間の不安に煽られて暴れ出す馬も居て、馬丁たちが必死に馬たちをなだめていた。その中で一頭だけ不安を押さえ込むように、思慮深く周囲を見回している馬が居た。
「ルルナケイア。お前が居てくれたのね。立派だわ」
ピレナはルルナケイアと呼んだ馬の飼い主譲りの性格を褒め、ルルナケイアも今の主の姿に安堵するようにピレナに鼻面をすり寄せた。彼女はルルナケイアを厩舎から曳きだし、彼女自ら馬に手綱をつけて、背には鞍代わりの分厚い布をかけて、それが合図のように馬の首筋をぽんぽんと叩いてその背に飛び乗り、駆けさせ始めた。
都の人々の間にも、ヤルージ島が大きな災厄に巻き込まれたという噂は不安や恐怖を伴って広まって、自分たちが住むルージ島にまで広がるのではないかと不吉な想像にとりつかれる者たちも多い。更にオルエデスの兵が引き起こした事件と、たったいま起きた大地の揺れに不安が収まらない人々が街道にも溢れていた。そんな都では、ほとんどの民がピレナの素顔を知っている。
「おおっ。ピレナ様じゃ」
街道に響く声に、彼女は作り笑顔で人々に語りかけた。
「皆も安心して。ヴェスター軍の兵士の狼藉は鎮圧しました。この地の揺れはきっとヴェスター軍の兵士の乱暴に神々が怒った証拠。兵士を追い帰せばきっと元通りだわ」
兵士を追い帰せば元通り。民を安心させるためとはいえ、彼女はそれが嘘だと知っている。誠実さに欠ける心苦しさと、自分の力のなさを嘆く意識がピレナの心に沸いた。
誠実さに欠けると言えば、ピレナは今から向かうアワガン村にも感じている。彼女は多くの村人と面識があるし、その一人タリアとは心許せる友人だった。彼女はそのような人々を見捨てるように、義母フェリムネだけの安全を考えていた。
村に近づくにつれて、村の広場の何箇所かで、焚き火が大きな炎を上げ、それを囲む惨めな身なりの人々が居るのが見えた。男が居るかと思えば、その腕には赤子もいる。家族の死を嘆き悲しむ若い女もいた。
ピレナはそれが南にあるニマナ村の避難民だと気づいた。フェイサスが被害にあったと語ったルージ島の南岸の村の人々が、陸路この村にたどり着いた姿だったろうし、浜に戻ってきて慌ただしさを増した漁船から降ろされているのは、足腰の弱い老人や乳児を抱いた女だった。このアワガン村の漁民たちが船を出して、ニマナ村に近い浜から避難民を助け連れてきた姿だった。避難民たちに毛布と熱いスープを与えて居るのは村の女たちだった。
アワガン村の人たちの行為は、誰かが命令したわけではない。村人たちは、とある一人の女性のように生きようとした。その女性フェリムネは村人たちに命令を下すわけでもなく率先して避難民の介護に当たっていた。
ピレナに気づいた村人の一人が声を上げた。
「おおっ。ピレナ様じゃ。ピレナ様が、助けに来てくださった」
その声で村人たちの視線が一斉にピレナに向いた。彼女は村人たちを安心させる作り笑顔を浮かべながら、心苦しさで彼らと視線を交わすのを避けた。彼女はフェリムネ一人に視線を定めて言った。
「フェリムネ様に相談したい事があって来たの」
首を傾げたフェリムネに村人の一人が言った。
「フェリムネ様。後のことは私らにお任せ下せえ」
避難民たちの手厚い世話は自分たちでするという。フェリムネは笑顔で任せたと応じて、タリアに言った。
「タリア。お客様のおもてなしを少し手伝って頂戴」
タリアは笑顔で頷いた。村人たち自分たちに任せろと言った言葉の通り、もはやフェリムネやタリアの存在など眼中にないと言わんばかりに、避難民の世話に没頭した。そのさりげなさの中に、フェリムネと村人たちの信頼感が伺えて微笑ましい。この人々を馬上から見下ろしている気にはなれず、ピレナは馬を降りて手綱を曳いて、家路についたフェリムネの後を追った。
ピレナは質素な室内に案内され、勧められた椅子につくや否や、ため込んできた言葉を吐き出した。
「南のヤルージ島が海に沈んだの。そこに住む人たちと一緒に。ニマナ村を襲った大きな波も、きっと関係があるわ」
「とても信じられない話だわ」
フェリムネの反応も当然の事だが、ピレナは彼女自身の体験をたどたどしく語った。
「でも、私は岬の上からそれを見たし、フェイサスは船を出して確認した。彼らに救出された漁民も同じ事を言ってるの」
フェリムネは事態を察したように言った。
「同じ事がここでも起きると?」
その言葉に、ピレナは頷いて答えた。
「そうかも知れない。だから、フェイサスたちがこの地の安寧が続くと分かるまで、私と母にアトランティス本土に渡って暮らせと言うの。向こうにはお兄様もいる。それでフェリムネさんもご一緒にどうかと」
「私は行けないわ」
フェリムネの言葉にピレナはにこりと笑って答えた。
「そうだと思った」
さっきの光景とフェリムネの人柄を考えれば、彼女が村人を見捨ててこの地を立ち去ることはあるまい。ピレナの素直な笑顔に、フェリムネはピレナの誤解について語り始めた。
「私は、ロユラスがこの国を守ったと考えています」
「その通りだわ。お兄様は立派だった。でも……」
フェリムネの前で貴女の息子は亡くなったと言い辛くピレナは口を濁した。フェリムネは静かに微笑んで言った。
「私はロユラスが命を賭けて守ったこの地を離れるわけにはいかない。それに……、ごめんなさい」
今度はフェリムネが言い澱んだ。今のピレナは一人の女性として、フェリムネの謝罪が理解できる歳だった。彼女の母リネから夫の愛を奪ったと言う事である。
「父を、リダルを愛していたのね? その愛する人もこの地に戻って埋葬されていると」
その言葉に、フェリムネは迷わずそっと頷いた。ピレナは微笑んで言った。
「幸せな方ね。父は貴女とロユラスを愛していた。でも、私だって父に愛されていた、娘として。今、思い出せるの。私が馬に乗り始めた理由。好きな人の気を引きたかったからだけじゃない。あの牙狼王と呼ばれて恐れられた父が、私の不慣れな様子に落馬しないかとはらはらするのが面白かったの。私が乗馬に慣れてくると、そりゃもう、家臣たちに自慢げで……。あの笑顔を思い出すと、我が父ながら可愛くって微笑ましくって」
彼女は父に親しみを込めて可愛いと表現した。フェリムネは話題を変えて、この地に留まる事に不安はないと言った。
「今の私の不安は、地が揺れる事ではなくて、私が死んだら魂は何処へ行くのかと言う事だけ」
「何処へ行くって?」
「私は蛮族だから」
アトランティスの人々の神話に基づいて、リダルとその血を曳くロユラスは、既に静寂の混沌に旅だったと考えていた。しかし、神々はアトランティス人ではない自分を受け入れるかと不安だという。
ピレナは安堵させるよう微笑んだ。
「永遠の静けさがあった調和の一部が崩れて、この世界が出来たのよ。光と闇、善と悪、勇気と怯懦、男と女、多くの生き物多くの自然、でも、もとは全て一つ」
静かに話を聞くフェリムネの顔を眺めてピレナは話を継いだ。
「この村で貴方を見ていると、アトランティス人も蛮族もない。思いを一つにしている人たちは、みんな静寂の混沌で溶け合って一つになるの。きっとね」
ピレナのそんな言葉に静かに微笑んだが、一つ気づいた事がある。ピレナの表情から迷いが消えている。フェリムネと共にこのルージを離れるという迷いを捨て去って、ピレナもこの地に留まる決意を固めたのかも知れない。
フェリムネは娘に言い聞かせるように言った。
「でも、命も大事です。ピレナ様やリネ様は重臣の方々が勧める通り、避難される方が良いでしょう」
「フェリムネ様がここで必要とされている事はよく分かった。それと同じ。私を必要としてくれる民も大勢いるはずだわ。私の愛するザイラスなら、そんな人たちを見捨てたりしないと思うの。私も、ザイラスのように生きる。それが私が静寂の混沌の欠片の一つという事」
興奮して大きくなっていく声は部屋の外で飲み物を準備していたタリアにも届いていた。
タリアは飲み物を運んできて二人の会話に割り込んだ。
「ザイラス様なら、ピレナ様に命を大切にせよと仰るでしょう。」
「その通りだわ。でも、命の価値は時間じゃないというのはザイラスが教えてくれた。何を信じて過ごしたかと言う事が大事なの。それをここへ来て教えてもらった」
彼女は席を立ち上がった。思いを定めた今はすべき事がたくさんあって忙しい。ピレナは晴れやかな笑顔をフェ胸とタリアに向けた。
「ありがとう。フェリムネさんのおかげで、私の愛が本物になるって分かった」
フェリムネとタリアが見送りの声を掛ける間もなく、ピレナが足早に館の外へ姿を消した。遠ざかる馬蹄の音が聞こえた。




