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ユリスラナとエキュネウスの小さな命

 ハリエラナはルゲンドロスから聞いた話しを即座にエリュティアに伝え、彼女の居室に出向いてきたアトラスの耳にも届いた。

 アトラスは怒りを込めて名を叫んだ。

「ゴルロースの奴め」

 王と大神官長の争いに、無関係な者を巻き込んで、事を有利に運ぼうとしている。


 ユリスラナとその子が神の怒りを買っているなどエリュティアもアトラスも信じてはいないが、不安の高まった民は、その荒唐無稽な話しを受け入れるだろう。それは枯れ草に火が付くように燃え広がるに違いない。

 ただアトラスにもエリュティアにも、民の彼女に対する偏見を解いてやる方法はなかった。神官たちと対立する立場で、彼女を擁護すれば火に油を注ぐような結果になるだろう。今は出来る事をするしかない。

 ハリエラナがいち早く侍女たちを集めて命じた。

「ユリスラナ。エリュティア様の体調が心配だわ。ずっと付き添って差し上げて。エリュティア様に何があっても目を離さないように。他の者は、今までのユリスラナの仕事を分担してこなして頂戴」

 ハリエラナは厳しく言い放つように命じたが、言葉の裏に思いやりを感じ取る事も出来る。ユリスラナは雑用から解放されて、一日中エリュティアの側に侍り、身の回りの世話や彼女との会話だけをしていればいい。いよいよ出産も間近になった彼女にとって、エリュティアとともにこれから生まれてくる子の相談をしたり、産着の用意や刺繍をして寛いで過ごす事が出来る。他の侍女たちもユリスラナとお腹の子に優しい視線を注いで、ハリエラナに文句を言う者は居なかった。


 それは微笑ましい光景だった。既に母親の雰囲気を漂わせた妊婦が二人、産着に施す刺繍を、男の子のための青い糸でするか、女の子のための赤い糸にするべきか真剣に悩んだりしていた。愛する人に巡り会って授かった愛しい子を抱く日を想像する幸福な時間だった。二人はそれぞれに、夫と相談して決めるべき子どもの名も、既にいくつか候補を選んでいた。


 二人は顔を赤らめて妊娠の時の話題は避けているが、ユリスラナが子どもを授かった日が二十日間ほど早い。二人のお腹の子が順調に育てば、エリュティアの出産まであと三十日ばかりだろうか。ユリスラナは間もなく出産を迎えてもおかしくない時期だった。大きなお腹を抱えて歩けば足下がふらつく事がある。それもお腹の子の精だと考えれば自然に笑みがこぼれたりもした。


 ルゲンドロスがもたらした情報は、数日も経たないうちに宮殿に出入りする商人たちからも広がって、重臣たちの耳にも入ったのだろう。ライトラスが難題を抱えたようなしかめっ面で、アトラスの居室にやって来た。彼がアトラスの居室を訪れるのは、重臣たちが集う会議ではなく、内密に処理したい話しがあるからだろう。

「王よ。ユリスラナと申すエリュティア様の侍女の事ですが」

「分かっている。ユリスラナが神官どもの祈りの邪魔をしているというのだろう」

「私とて、神官どもの言い分を信じているわけではありませぬが、このままでは……」

「どうせよと言うのだ?」

「彼女をリマルダの地に移してはいかが? 必要なら蛮族(タレヴォー)の男とその兵士とともに」

 隣の領地に彼女の身を移せという。ライトラスの言葉は有能な大臣らしく合理的な解決策にも見える。このままではユリスラナにも危険が及ぶかも知れない、その危険を呼ぶ噂から彼女を遠ざけてやる事も必要だろう。ただ、アトラスは肩をすくめて話題を変えた。

「そなた。私にエリュティアを説得しろと言うのか」

 ユリスラナの身柄を移すためには、エリュティアに相談しなければならないだろう。しかし、彼女は温厚な性格の反面、意固地と行って良いほど自分の信念に拘るところがある。身辺に忠実に仕えてきた侍女を、いきなり遠ざけろと言っても聞き入れる事はあるまい。ましてや、その理由が神官たちがばらまいた根拠のない中傷なら、なおさらだった。ライトラスはそのやっかいな事が出来るのは、夫のアトラスだけだと判断してその仕事を押しつけるつもりらしい。ため息をついて露骨に気が進まぬ様子のアトラスに、ライトラスは言った。

「このままでは王の名声が地に落ちます」

「この悪鬼ストカルと呼ばれた身に、名声などあるものか」

「しかし、このまま放置するわけにもいきますい」

「わかった。説得してみよう」

 部屋から立ち去るライトラスが驚いて一瞬立ち止まり、入れ替わりに入ってきた人物に一礼して立ち去った。姿を見せたのはエリュティアだった。あまりのタイミングの良さに、男たちの悪巧み気づいて抗議に来たのかとも考えたがそうではなかった。

 彼女はアトラスの傍らに寄り添って、夫の表情を眺めながら言った。

「アトラス様。お願いがあって参りました」

「なんだ」

「ユリスラナとエキュネウス殿の事で。二人をリマルダの地に移してはどうかと」

「ライトラスもそう申してきた。この私の名声が落ちるとな」

「いえ。そんな心配ばかりではなく」

 エリュティアが語ったのは、ユリスラナを彼女の身辺に侍らせるだけでは、彼女は外出も出来ず、エキュネウスも王宮に顔を出す事を遠慮する状況では、夫婦で会話をする機会もなくなる。それなら、この地を離れて二人を一緒に過ごさせてやればいいのではないかと言う。

 しかし、アトラスは優しい笑顔を浮かべて言った。

「それならば、エキュネウス殿を宮殿に招き入れて……。そうだ。エキュネウス殿とその兵士で、庭園にいるそなたたちの警護でもしてもらえれば良いのではないか」

 アトラスの提案に従えば、ユリスラナは見ず知らずの土地ではなく、この良く知った土地で、親しい人たちに見守られながら初めての出産をする事が出来る。

 エリュティアは夫の提案に笑顔を浮かべた。

「それは名案です」

「ではすぐに、その手配をしよう」

 しかし、アトラスは妻の素直な笑顔が眩しく後ろめたい。彼は必ずしも他の誰かのために提案したわけではなかった。大神官長ゴルロースとの関係が有利に進んでいると考えていたが、突然に足下をすくわれるように逆転した。そのきっかけになった二人を遠ざけるというのは、大神官長の策略から負けて逃げるような悔しさがあった。


 自室に戻ったエリュティアからアトラスの判断を伝え聞いたユリスラナは大喜びで言った。

「それなら、私がそれを伝えに行って参ります」

 会おうと思えばいつでも会える距離で生活するというのは、出産を控えた夫婦にとって何より喜ばしい提案だった。

 大きなお腹で外出の準備を始めたユリスラナと笑顔で見送るエリュティアも、後に大きな後悔する事になるとは気づかなかった。


 王都パトローサを貫く街道を通って郊外の兵舎へと歩くユリスラナに向けられた民衆の目は、侮蔑に満ちていたが、今のユリスラナには気にならない。

 アトラスの考えをユリスラナから伝え聞いたエキュネウスも大喜びだった。

「さすがにアトラス殿は知恵が回る。では、すぐに出向こう」

「いえ。まだ庭園の倉庫の中を片付けて、貴方たちの兵舎にする準備が終わってからよ」

 ユリスラナの言葉も、嬉しさに酔うエキュネウスの行動力を押しとどめる事は出来なかった。

「なに、その程度の事なら我らが自分でする。では、すぐに出向くぞ。部下にも準備をさせよう」

 エキュネウスたちは手際が良い。何より戦で多くの物を失って身軽で、与えられた住まいを移す事など簡単だった。エキュネウスが率いるギリシャ人部隊がユリスラナを伴って兵舎を発ったのは、陽が西の空で赤く染まる前だった。

 エキュネウスたちは、王都パトローサの郊外から宮殿まで、人目を避けて路地を行く事も出来た。しかし、自分たちは数は少なくなったとはいえ敗残兵ではなく、蛮族(タレヴォー)でもないという自負心で町を貫く街道を堂々と進む事にした。この判断はエキュネウスの大きな後悔を生む。様々な者たちの判断が、ユリスラナたちを最悪の運命へと追い立てて行った。


 街道を行くエキュネウスの一隊は僅か十数人とはいえ、異国風の甲冑を身に着けた兵士たちは目だつ。そして、兵士と不釣り合いな妊婦姿のユリスラナも人目を引いた。王都パトローサの民衆にはユリスラナの顔を知るものも多い。

 不快感を隠そうともしない罵声が投げかけられた。

「あれがユリスラナだ。蛮族(タレヴォー)に体を売った女だ」

 エキュネウスが人々の視線や罵声からユリスラナを守ろうとして寄り添えば、それが次の罵声に繋がった。

蛮族(タレヴォー)に身を寄せて、なんと汚らわしい事」

 そんな蔑みの視線が広がっているうちは未だましだった。一つの罵声が嫌悪感を煽り、憎しみへと変わっていくのが感じられた。

「アレが蛮族(タレヴォー)に身を売り、神々の怒りを買った女だ」

「あの女とお腹の子どものせいで神々の怒りが収まらない」

 罵声を浴びせる群衆に視線を向ければ、その中に神官姿の者が混じって叫んでいるのが見て取れた。

「あの女のせいで我らにまで災厄が降り注いでいる」

「大神官長さまの祈りが神々届くのを邪魔する女だ」

「あの女がいる限り、この地にも災厄が降りかかるぞ」


 神官たちの言葉に煽られた民衆がユリスラナに向ける視線が、侮蔑から怒りや憎しみに変わった。異様な雰囲気が辺りを包んだ。

「宮殿へ急ぐぞ。走れっ」

 危険を察知したエキュネウスは、そう言って部下にユリスラナの身を預け、自らは剣を抜いてその切っ先を群衆に向けて叫んだ。

「邪魔をするな。我らは王宮に行くだけだ。我らに危害を加えようとする者がいれば斬る」

 群衆はその気迫にたじろいで後ずさりをしたため、彼等の背後にいた一人の神官の全身が露わになった。神官はエキュネウスを指さして叫んだ。

「見よ。蛮族(タレヴォー)が我らに剣を向けたぞ。アトランティスの神々に楯突く蛮族(タレヴォー)に災いあれ」

 その言葉が終わる間もなく、エキュネウスの背後で、悲鳴に似た女性の声がした。彼が振り返ってみれば、彼の部下に両脇を支えられて歩いていたユリスラナが、全身から力が抜けたように膝を地面についた。

 子宮の中で赤児を暖かく包んでいた羊水が流れ出て、彼女の股間を濡らした。まだ生まれる準備も出来ていない赤児が、この世界に生まれ出す前兆だった。もはや一刻の猶予もなかった。

 ユリスラナの姿をみた神官は大喜びで、ユリスラナに石を投げて暴徒を煽った。

「女に神の罰が下ったぞ。みんなでやってしまえ」

 街道にいた者ばかりか、家々の中にいた者たちも刃物や棍棒を持って加わろうとしている。

 このままでは暴徒に囲まれて逃げる術が無くなる。エキュネウスは決断した。彼女に石を投げた神官まで十数歩。彼は神官に駆け寄ると、水平に剣を振った。得意気な表情が驚きに変えて、神官の首が地面に転がった。エキュネウスはその首を掲げて叫んだ。

「無垢な女と子を殺そうとする腐れ神官は死んだぞ。未だ民を扇動し人殺しをさせる者はいるか」

 彼は未だ民の後ろにいる数人の神官に剣の切っ先を向けた。神官たちは仲間の首を見て恐ろしさに震え上がって口元を押さえて黙りこくった。暴徒の憎しみの熱も彼が掲げた神官の首にの前に一瞬に冷めた。ただ、何かのきっかけで民衆の憎しみに火が付いて暴徒に戻るだろう。

 エキュネウスは、掲げていた神官の首を民衆に投げつけ、民衆に広がった恐怖の中、剣の切っ先を左右から前方の民衆へと向けて叫んだ。

「お前たちを傷つけたくはない。王宮までの道を空けよ」


 エキュネウスが抱いて王宮に連れ戻した時、ユリスラナは半ば意識を失っていた。事態を察したハリエラナは、即座に侍女部屋の暖炉に薪を追加させて部屋を暖めて、食堂の調理人に多量の湯を沸かすように依頼した。暖炉に近いベッドにユリスラナを寝かせ、出産の手伝いに慣れた侍女を選んで呼び集めた。

 騒動を聞きつけた男たちも集まり始めたが、侍女たちは男たちを部屋から追い出した。ユリスラナの出産が始まっているという事に違いない。出産の苦痛に耐えるユリスラナの声と彼女を励ます侍女たちの声が響いていた。

 

 アトラスも駆けつけた男たちの中にいた。彼はエキュネウスが侍女部屋の入り口にひざまづくようにいるのに気づいた。

「私のせいだ。私がもっと注意していれば」

 思い起こせば、民衆を避けて目だたぬ路地を行くという手段もあり、夜を待ってそっと移動する事も出来た。エキュネウスは、暴徒に襲われてユリスラナを危険にさらしたのは自分のせいだと嘆いているのである。

 彼は血まみれだが、戦慣れしたアトラスには、それが負傷ではなく誰かの返り血だろうと想像が付いた。

 アトラスは混乱するエキュネウスの肩に手を置いて、落ち着かせるように、静かだが力強く言った。

「別の部屋で、そなたに話が聞きたい」

 エキュネウスはアトラス二人っきりの部屋で事の顛末を語った。宮殿に向かう途中に暴徒に追われた事、剣を抜いて暴徒を脅した事、暴徒を煽っていた神官を切り捨てた事。

 アトラスはエキュネウスを宥めるように言った。

「その状況なら、私でも切り捨てていただろうよ」

 斬り殺された神官は哀れだが、もし、彼が神官を斬って暴徒を一瞬でも鎮めなければ、彼等は襲いかかってくる暴徒に剣を振るって被害はもっと増えていただろう。


 この一件はアトラスと神官たちの対立を深めるばかりか、民衆にもアトラスが神々の敵だと印象づけてしまうだろう。

 しかし、元はと言えばエキュネウスを宮殿に招くというのはアトラスの考えだった。アトラスはこの状況も自分の責任として背負うつもりでいた。


 この時、地が揺れた。今や何度めの地の揺れかと考える事もなく、今度はどの地が海に没したのかと恐怖に似た不安がよぎった。

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