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ユリスラナとその子

 ユリスラナが市でが買い求めた荷は、両腕で抱えるほどになった。買い出しの用は終えて、彼女は郊外の兵舎の一角に着いた。

【指揮官殿】

【指揮官と呼ばれるほどの兵士も居るまい】

 そんな自嘲的的な声の響きはエキュネウスに違いない。続いて部下の兵士たちの声が次々に響いた。

【船さえあれば、我らの中にも潮の流れや星の動きを読む者も居ります】

【船さえあれば、我らは懐かしい故郷に】

【ああっ、父や母が私の帰りを待っています】

 兵舎では日々同じような会話が交わされる。戦で仲間が減ったばかりではない。彼等もまたアトランティスの人々と同様に、地の揺れと共に不安に苛まれながら、故郷への思いが深まっている。

 ユリスラナには漏れ聞こえる異国の言葉は理解できないが、その声に兵士らしい荒々しさはなく、切なさだけが伝わってくる。

 以前に、エキュネウスは彼女に語った事がある。自分には故郷に帰りたがっている兵士たちの願いを聞き届ける力がないと。そんな言葉を聞いていれば、意味が理解できない言葉も、異国の兵士たちが帰郷を願う言葉だろうと推測が付く。

(まさか。エキュネウスも……)

 もしも、船があったら、彼は自分と子どもを捨てて帰国してしまうのか。彼女の心に不安が湧いた。しかし、アトランティスの大地はその周囲から海に没しているということを彼女は知っている。大洋を渡る大きな船は、既に港と共に破壊され海に沈んでいるだろう。この大地にはエキュネウスたちが帰国する船はない。そんな考えに、ほっとした自分に、彼女は罪悪感も抱いた。

 兵舎の入り口にいた衛兵が、彼女に気づいて、兵舎の中の指揮官に妻の来訪を伝えた。


愛し合って子どもも出来たという点で、二人は立派な夫婦だが、夫婦と認められる儀式を経ていない。エキュネウスは自分がギリシャ人として、アトランティスの人々から蛮族タレヴォーと蔑まれる事があるのは知っている。そして自分と体の関係を持ったユリスラナと身籠もった子どもにも、人々の嫌悪が向けられていると言う事も想像が付く。

「アトラス様にお願いしても駄目か」

 彼が言うのは、アトラスに頼って婚礼の儀式だけでも済ませば、人々の偏見の目も和らぐのではないかと言う事だった。

 しかし、ユリスラナは首を横に振った。

「アトラス様と神官たちは犬猿の中ですもの。何よりも……」

「何より?」

「神官たちは貴方の事を蛮族タレヴォーだと」

 結婚の儀式を執り行うのは神官たちだが、その神官が二人の結婚の儀式に協力する事はないだろうという。エキュネウスは彼女のお腹を心配そうに撫でた。

「では、この子はどうなるのだろう」

「貴方と私が、一緒にいて愛し合っている限り、幸せな子に育つわ」

「そう信じよう」

 エキュネウスの言葉を聞いて立ち上がったユリスラナは、運んできた荷物を抱えた。抱きしめるほどの大きさで、彼女の大きなお腹を隠すほど。彼は慌てて彼女が抱えた荷物を奪い取ろうとして言った。

「大事な赤ちゃんに、何かがあったら大変だ。宮殿まで私が運んで行こう」

 彼の目を見れば優しさは本物で、彼女は兵舎の入り口で彼を疑った事を恥じた。ユリスラナは彼に奪われまいと荷をぎゅっと抱きしめて言った。

「いいの。これは私の仕事だから。それに一人で帰れるし」

 彼女の拒絶に、エキュネウスは状況を考える一呼吸の間をおいて眉を顰め、寂しそうに微笑んだ。蛮族タレヴォーと蔑まれる自分と行動を共にすれば、彼女に町の人々の偏見の目が注がれる。その想像はもっともな事だった。

 彼女は思った。

(違うの。貴方と並んで歩くのが嫌なわけじゃない。貴方を疑った私が……)

 ただ、彼女は拒絶の理由を説明する事も出来ず、ぺこりと別れの一礼をしただけで兵舎を去った。

 しかし、エキュネウスの思い過ごしではない。彼女はエリュティアの側に侍って、町の人々にも良く顔を知られていた。そして、人々は彼女の大きなお腹と、彼女が頻繁に出向く郊外の兵舎と重ねて、不快気な表情で噂し合っていたのである。


 同じ頃、宮殿ではルゲンドロスがもたらしたアドナの伝言の衝撃が広がっていた。地方の領地ばかりではない。この王都パトローサのあるシュレーブの地にも災厄が及んでいると言う事である。

 周囲を壁に囲まれた会議室に主だった者を集めたアトラスは断言した。

「もし、このまま西から海に没していくと言う事が明らかならば、都は東のリマルダの地に移し、民もそこへ移す。」

王都パトローサにある物資はいかが致します?」

 ジグリラスの言葉にアトラスは言った。

「食糧の蓄えは、民にも分け与えて運ぶのも手伝わせよ」

「宝物庫にある宝物は?」

 王宮の敷地の中に、第二の王宮と言っていいほどの大きさの建物があり、高い塀で囲まれている。その建物の中にシュレーブ国以来、蓄えられてきた数々の宝物が収納されていた。

「まずは食糧と衣類。命令とともに、すぐに生活に必要な物資を荷車に積めるように準備しておけ」

 長く続いた戦は、何を捨てて何を求めるかという繰り返し。彼はその中で大事な事を学んだ。いま大事なものは人を生かし続けるために必要な物資だろう。

「ただし、民には極力内密に」

 アトラスは最後にそんな言葉を付け加えた。災厄はこの王都パトローサにも近づいているようにも見える。しかし、その時がいつになるか分からないうちに避難の準備を布告すれば、王都パトローサは大混乱に陥るに違いない。部屋に集う者たちもその光景を想像して黙って頷いた。

 近習のテウススが口を開いた。

「王妃様は体調が優れぬ様子」

 必要ならばエリュティアの身柄も移送せねばならないが、身重の上に体調も崩しているように思える。

「その時が来たら、船で聖都シリャードに移せばよい」

 人に担がれてゆっくり移動する輿やガタガタと揺れて体力を消耗する馬車は避けて、ルードン河を船で下らせようという。彼は言葉を継いだ。

「エリュティアには私から話す。準備だけはしておかねば」

 この時にアトラスの決断から抜け落ちているものがあったとすれば、他の領地にも安全な領地へ避難する準備をさせる命令を怠った事だろうか。

 今のアトラスは体調を崩している妻の容態と、そのお腹の子のことで頭がいっぱいの所へ、アドナの連絡で心が乱されていた。

 普段は良く気の回る彼が、ルゲンドロスが一礼して立ち去ろうとするのにも気づかなかった。

 テウススがルゲンドロスを引き留めて尋ねた。

「お前はこの地に戻れば、神官たちの手の者にかかって殺される危険もあるはず。どうして戻ってきた?」

「アドナさんの伝言を伝えなくては。それに、ここに留まる気はありません」

「では、何処に行くつもりだ」

聖都シリャードに。妻と子どもがいるかも知れない。いや。生きていると信じる事が大事だと、アドナさんが教えてくれた」

「しかし、家族を捜すと言っても、広く、人が多い。行き違いになる事もあろう」

 テウススはそこまで言ってアトラスに視線を転じて言った。

「アトラス様いかがでしょう」

「なんだ?」

「途中の町や村、リマルダの地の領主リシアス殿や、聖都シリャードの王の館の者どもにふれを出して、ルゲンドロスの妻子を探させては」

 その提案にアトラスも頷いて同意した。

「そうせよ。お前は王宮の中に留まるがいい。何か仕事を与えてやろう」

 この時、アトラスたちをあざ笑うように宮殿の床が揺れた。テーブルの上の花瓶が音を立てて揺れて床に落ちそうになるほどだった。

 アトラスたちは思った。

「冥界のエトンの笑い声か」

 この時期のアトラスたちは、災厄を耳に聞こえる声に例えて考えていた。小さく聞こえる声は、誰かが遠くで叫ぶ声。耳を塞ぎたくなる大声は誰かが近くで叫んでいる。地の揺れも同じ。小さく揺れるのは、この王都パトローサから遠くの地が災厄に見舞われたと言う事。そして大きな揺れは、災厄が王都パトローサの近くで起きていると言う事。では、今の冥界のエトンの笑い声の大きさは、アトランティスのどの地と民が海に沈んだのだろう。

 アトラスは沈痛な面持ちで部屋に集う重臣たちに散会を命じ、彼自身は妻の居室へと足を向けた。

(身重のエリュティアに、何処まで話して聞かせればいい?)

 そう考えるアトラスの足取りが重かった。


 そんな不安が続く中、大臣の息子ジグリラスはアトラスの命令を実行して、ルゲンドロスの家族の探索を命じる布告を出し、彼の家族の消息に関する情報に賞金を掛けた。ルゲンドロスは小間使いとして王宮に留まった。

 宮殿の人々は、彼が神殿の修築さえ引き受けるほど腕の良い大工だという事はすぐに理解した。園丁は花壇の柵作りの手際よさを褒めたし、侍女頭ハリエラナも、ルゲンドロスが彼女の提案に応じて、身重のエリュティアのために、椅子やテーブルの高さを変えたり、ベッドに伏せたエリュティアに葉の香りが届く位置に花瓶を置く棚を作るなど、何でも器用に作り出すのを喜んで眺めたりした。

 

 そのルゲンドロスは職人らしく、使う道具は自分で吟味しなければ気に済まないたちで、自ら王宮の外に釘やロープなどの買い出しに出る。その道すがら、町に流れる噂を拾ってくる事があった。

 ある日、彼はハリエラナの求めに応じて、侍女部屋の足がぐらついたテーブルを修理しながら、周囲を見回して他の侍女がいない事を確認して言った。

「ユリスラナさんのことで、町で悪い噂が……」

「困った事ですね」

 ユリスラナが蛮族タレヴォーの男と関係していると噂になっている事は知っていた。何より、ユリスラナ本人も気づいているに違いない。しかし、ルゲンドロスは首を横に振って言った。

「いえ、違うんでさ。ギリシャ人の男と結ばれたと言うのではなくて……」

 ルゲンドロスの続く言葉に、ハリエラナは眉を顰めた。ルゲンドロスが届けた噂はハリエラナの想像を超えて悪質だった。

 蛮族タレヴォーの子を身籠もったユリスラナとその子が、神々の怒りを買って災厄が続いているという。そんな噂は、人々の怒りをユリスラナとその子に向ける。

 そして、その噂をばらまいているのは、ルゲンドロスが神官たちの雑用をしていた頃の仲間たち。噂の出所は神官たちだった。

 民の期待を背負った神官たちの祈祷にも関わらず、災厄の状況は好転せず、神官たちの権威は失墜している。彼等の祈りを妨害しているのは王宮にいるエリュティアの侍女とそのお腹の子だ。その二人がいる限り、神々の怒りは解けず、神官の必死の祈りも神々にどかない。神官たちがばらまかせているのはそんな噂である。


 まつりごととは距離を置くたちのハリエラナも、事の次第を悟った。王と大神官長の争いがあり、不利な状況の大神官長が、ユリスラナとその子を利用して状況を挽回しようとしているに違いない。

 彼女は呟いた。

「エリュティア様とアトラス様にもお伝えしておかなくては」


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