失われた島
「ピレナ様、お腰の物は不要です」
侍女は腰の長剣は外せと言う。ピレナは怒りに満ちた目で答えた。
「どうして? この手で我が国に叛旗を翻したオルエデスをとっちめてやるの」
「オルエデス殿が手を下したわけではございませぬ」
侍女は慌ててそう言った。ピレナが剣を振り回せば、混乱は深まるばかりだろう。事実、オルエデスにはそんな決断力も指導力もなかった。
侍女に導かれてきた広間では、オルエデスとお目付役のバイラスが口論を繰り広げ、それをリネやクイグリフスが見守る光景が繰り広げられていた。バイラスが非難の言葉をオルエデスに向けた。
「だから、申し上げたのです。兵士の同行など不要だと」
「私には関係がない。私は何もしていないぞ」
「そのような言い訳が通用するとお思いか」
バイラスは視線を逸らして、深々と頭を下げて言葉を続けた。
「リネ様。クイグリフス殿。この一件は我らに責任があり、償いをさせていただかねばなりませぬ。しかし、我が王レイトスはあずかり知らぬ事とご理解ください」
バイラスは再びオルエデスに視線を戻して言った。
「オルエデス殿。私はお目付役として、今回の件の顛末をお父上に報告せねばなりませぬ」
「何を報告するというのだ。民が何人か死んだだけであろう」
怒りと不満の籠もったオルエデスの言葉に、ピレナの声が響いた。
「死んだだけですって! 我が民を殺しておいて」
その叫びでピレナに気づいたオルエデスは、作り笑顔を浮かべた。彼はピレナをかき抱くように両腕を広げて足早に近づいてきて言った。
「おおっ。ピレナ様。ピレナ様なら分かっていただけよう。私には何の罪もない」
オルエデスは突然に立ち止まり、言葉を途切れさせた。驚きに目を見開いたオルエデスの首筋に向けたピレナの短刀の切っ先がきらりと光った。
「説明して。事情は聞いてあげるわ。でも、ただの命乞いなら……」
もちろん、ピレナは人を刺した経験は無い。初めての経験と決意を込めた緊張で短剣の切っ先がぶるぶる震えていた。怯えた目のオルエデスに代わって、大臣のクイグリフスがピレナに短剣を収めさせて説明をした。
酒に酔った十数人の兵が駐屯地に指定された広場を離れて、酒や女を求めて近くの村に侵入した。別の兵士の一団は村を襲って家畜を奪ったばかりではなく抵抗した村人を殺害したという。更に騒動を収めるために来たルージ軍兵士数名を、オルエデスの兵たちは数に物を言わせて斬り殺したという。
大臣クイグリフスは言った。
「オルエデス殿。バイラス殿。乱暴狼藉を働いた兵士どもに厳重な処罰を。リネ様。それで今回の一件を収めたく存じますが、いかがでしょう?」
オルエデスやリネに異存はなく事件は収まりかけていくように見えた。
(とりあえず、フェイサスの帰りを待たねば)
クイグリフスにしてみれば、この時期、混乱は極力抑えておきたい。ヤルージ島が巨大な波に飲まれたという知らせは、彼に二年前の夏に遠征中のアトラスからもたらされた知らせを思い起こさせていた。
そのフェイサスが、強い潮風に吹かれて髪や衣服が乱れ、焦燥感に満ちた表情のまま、急ぎ戻ってきたのは二日後だった。大臣クイグリフスは彼の帰還を知るや、リネとピレナを始め都にいた重臣を広間に招集した。
「ピレナ様がご覧になった通り、ヤルージ島は波に飲み込まれておりました」
それがフェイサスの報告の最初の言葉で、結論だった。
「そんな馬鹿な事が……」
そう呟いて狼狽えるリネにフェイサスは言った。
「ルージ島の南には水平線が見えるのみ。ヤルージ島は見えません。海は濁り、その一部が黄色く泡立っておりました。キシギル山が海の下で火を噴いているのやもしれません」
ピレナが一番気がかりだった事を尋ねた。
「ヤルージ島の民は?」
「船の破片に捕まって漂流していた漁師を三名救いました。その漁師たちの話しによれば、漁から帰ろうとしたところ、突如、キシギル山が怒り始め、巨大な石を数えきれぬほど降らせて船を破壊したと。その後、我らは周辺を捜索して、更に四隻の漂流船から合わせて二十二人の者たちを救いました。残念ながら、それが全てです」
「たった、二十二人?」
ヤルージ島にはキシギル山で採れる良質の硫黄の採取を生業にする者やその家族が住む町といくつかの漁師町があり、千の家族と数千人の民が居た。ヤルージ島はその人々と共に海中深く沈んだと言う事である。息が止まるほどの大きな災厄だった。
「ヒクダスやジヌラドスはいかがしたのじゃ」
リネのが問うたのは、ヤルージ島を収める二人の領主の名である。フェイサスは沈痛な面持ちで首を横に振って答えた。
「おそらくは島と共に」
「そんな……」
二年前の夏、遠征中のアトラスからフローイ国の北のラフローイ島とマナフローイ島が海に没したと知らせてきた。蛮族の住む土地だった事や、アトラスが率いるルージ軍には影響はなく、ルージ国の人々から忘れ去られていた出来事だった。しかし、今、ヤルージ島が海に沈んだという事実は、この広間の者たちに、同じ運命が我が身にも降りかかってくると言う恐怖感を生んだ。
クイグリフスはリネと向き合い、決意を込めて言った。
「ここは一時、リネ様とピレナ様には……」
「どうするというのです?」
クイグリフスは途切れさせた言葉を継いだ。
「一時、レイトス殿を頼ってヴェスター国を訪問されるか、いや、月の女神の海を渡って、我らが王が滞在する聖都へ行かれるがよろしいでしょう。あそこなら既に我が国と同じ」
アトランティス本土には、戦の後、ルージ国に編入された領地がある。そこなら自国と同じ事だ言う。
困惑するリネにフェイサスが言った。
「いや、何。物見遊山の旅と変わりありませぬ。大地の神と海の神の怒りも収まれば、この地も静かになりましょう。その時を待って土産話など携えてお戻りください」
「このルージを離れろと申すのか」
クイグリフスの求めに抵抗を示すリネに、フェイサスは説得する相手を変えた。
「ピレナ様ならお分かりいただけるか? しばらくは、お母上と海を渡ってお暮らしいただければ」
ピレナは混乱する母親と取り巻きの侍女たちを眺めて納得した。ヤルージ島が海の下に姿を消し、このルージ島の南も大きな災厄に巻き込まれたのは間違いがない。都ばかりか全土に広がっている混乱と不安を収め、被害を被った民を救い、領主たちには被害の状況を伝えつつ、各地の状況を都に伝えさせて全土の状況を把握せねばならない。さらに必要なら暴動や民の救出のために兵を招集する事も必要になる。
クイグリフスたちはそんな仕事に忙殺されるはずだった。リネやピレナの安全が疎かになる前に、しばらくこの地を離れさせようという判断だろう。そして何より、リネがこの場に留まれば不安に駆られてあれこれと馬鹿げた命令を出して状況を混乱の深みに陥れるに違いない。
「わかったわ。でも、今は行くところがある」
「何処へ行くんだい?」
母リネの言葉にピレナは短く答えた。
「アワガン村へ」
「あの女の所へ?」
リネは察した。娘は前王リダルの愛妾フェリムネも連れて行くというのだろう。その決断は、ピレナとその母に残された人生を大きく変えた。




