アドナの決断
アドナが泣き笑いながら王宮に戻ってきたという奇妙な知らせは、大地が海に沈んだと言うほどの驚きを伴って、瞬く間に尾ひれもついた噂になって、王宮の隅々に広がった。
王を護衛する者が、王を伴わず泣いているというなら、王の身に不幸があったとも考えられるが、女戦士は笑っていたとも言う。
ユリスラナがエリュティアの居室にその噂を伝えた。
「まさかアトラス様の身に何か?」
眉を顰めて不安がるエリュティアを安心させるように、ユリスラナが言った。
「いえ。それが、奇妙な事に、笑っていたとか」
「では、よほど愉快な事でもあったのでしょうか」
「いえ。それも違うようで。何か戸惑っていたとも聞きます」
ユリスラナはそう言いながら、彼女も噂の真相を知りたくてたまらない。彼女は少し悪巧みをして提案した。
「アドナ様をここへお呼びになって、事の次第を尋ねてみては?」
エリュティアなら、アドナを呼んで事の次第を確認できるだろう。ユリスラナはその傍らで好奇心を満たせるはずだ。
ユリスラナが自分の思いつきに満足した時、アトラスの側に仕え続けるスタラススとレクナルスの二人が、痛む頭のてっぺんを押さえて救いを求めるように訪れた。
アドナが奇妙な行動を取っていたという噂に、本人に問いただそうとしたが不機嫌そうに黙り込むだけで何も聞き出せず、しつこく尋ねた二人は五月蠅いと頭のてっぺんに拳骨まで喰らったという。
ユリスラナは二人の話にため息をついた。アドナの機嫌が悪ければ、ここに呼びつけるのも難しいということである。
スタラススとレクナルスを眺めたエリュティアは、いつもの仲間に一人足りないのに気づいて尋ねた。
「テウスス殿は?」
エリュティアの問いにスタラススとレクナルスは口を揃えて言った。
「テウススは、神殿まで馬を飛ばしてアトラス様の様子を窺いに行きました」
部屋に集う者たちは、顔を見合わせて頷きあった。今はアトラスの帰りを待つしかない。
やがて、アドナのせいで王宮が奇妙に混乱している様子を伝えたテウススがアトラスを伴って戻ってきた。
アトラス自身も何事が起きたのかと首を傾げて言った。
「私ではなく、アドナの身に何か異変が起きたのだろう」
そう言ったアトラスは、アドナを見舞う事に決めた。アドナの居室は近習たちが住まう大部屋の隣にある。廊下を歩き始めたアトラスは、目的の場所に未だ着かないというのに、立ち止まってため息をついた。
振り返るとエリュティアを先頭に、テウススたち近習やユリスラナたち侍女がぞろぞろと列を作って追ってくる。皆、アドナの様子に興味津々だった。
「ここからは、私……と、エリュティアだけで行く」
アトラスはやや迷ったが、エリュティアだけは連れて行く事に決めて、そう命じた。
「皆は戻って、待っていろ」
同じ頃、アドナは居室に閉じこもったまま、ベッドの端に腰掛けて考えにふけっていた。アドナの立場で言えば、馬を馬屋に繋いだ直後、馬屋番たちの注目を浴びているのに気づいた。我に返ってみると、今まで人に見せた事のない泣き顔を晒してしまった事に気づいて、何をどうすればいいのか分からない。今まで彼女にそんな事を教えてくれた者は誰もいなかった。
足音が近づいてきて、アドナを緊張させたが、緊張感を解きほぐす声が響いてきた。
「アドナ。入りますよ」
部屋の入り口と廊下を遮るカーテンが開いてエリュティアが姿を見せ、エリュティアに促されて、アトラスが入ってきた。アドナは思わず立ち上がって二人を迎えた。アドナは二人が来た理由は察する事が出来たが、何を答えればいいのか分からずうつむいて黙りこくったる
エリュティアはアトラスが口を開きかけたのを制止した。繊細な女心を理解していないアトラスは、いきなり何を言うか分からない。エリュティアが話題でも逸らすように言った。
「今日は、貴女とお話に来たの。時々、一人だと寂しくなるから」
「エリュティア様でもそうなのか」
「ええ。一人ぼっちだと、何かを思い出して一人で笑っていたかと思うと、突然に寂しくなって涙が出てきたり」
エリュティアはそう言って、それは貴方の責任なのよと言うように悪戯っぽくアトラスを眺めた。アトラスは肩をすくめて素直に反省した。常に自分が先頭に立って動いているように見えるが、その影でエリュティアは彼を支え、時に人知れず泣いているという告白だった。
「エリュティア様でもそうなのか」
「ええ」
頷くエリュティアに、アドナは首を横に振った。
「でも、私は違うのだ」
アドナにもエリュティアが言いたい事は分かる。しかし、アドナの涙は違う。ただ、自分自身の心情を整理して説明する事が出来ずに、考え抜いて吐いた言葉は精製されて短い
「私は嬉しかったのだ」
「嬉しくて泣いていたのですか」
エリュティアの問いに、アドナは自分の心情の訳を説明する術を知らず、アトラスと別れたあとの帰り道で起きた事を全て語った。しかし、あの少女から受けた感動を汚さないよう、自らを飾る言葉を注意深く避けようとするアドナから、濁りのない真摯な様子が伝わってくる。
アドナが最後に言葉を締めくくった。
「私は誰かから、あんな風に感謝された事は初めてだ。それで自分が生きている感じがして嬉しくて」
訥々(とつとつ)と語るアドナの言葉は、彼女の人柄も加味して解釈しないと分かりづらい。ただ、アドナの澄んだ心が伝わってきて、エリュティアを和ませた。エリュティアは思わずアドナを抱きしめたが、頭一つ分ほどの身長差があって、エリュティアはアドナの胸に顔を埋める形になった。エリュティアはアドナの人としての体温を、彼女の心の温かさと重ねながら評した。
「なんて素敵な人たち。その少女も貴女も」
エリュティアは夫の同意を得るように振り返った。アトラスはアドナの言葉に何か記憶を辿るように黙っていたが、エリュティアの視線で我に返って言った。
「アドナよ。お前は正しい事をした」
そう誉め称えるアトラスは、笑顔を浮かべてはいたが、何か考え事があるようにも見える。事実、彼は記憶を辿って忌々(いまいま)しげに、別の事を呟いていた。
「ここにも六神司院と同じ、腐れ神官どもがいたということか」
アドナがそんなアトラスに向き合って、真剣な顔で尋ねた。
「アトラス様。私は奴隷か?」
奇妙な質問だが、彼女の真剣な表情に、アトラスも真剣に答えざるを得ない。
「そなたは、私の右腕とも言えたゴルススが愛した妻であり、私の命を何度も救ってくれた友人でもある」
「奴隷ではないのだな」
「もちろんだ」
「私はもう用なしだ。それなら、ゴルスス様の所へ行きたい」
舌足らずな表現は、自分はもはや用なしだから、死んで愛する人の所へ行きたいと言っているように見える。エリュティアが彼女の言葉を否定しようとした時、アトラスがゆっくり口を開いた。
「よかろう。ただ、その前に、旅の準備をし、親しい者たちに別れを告げてくるが良い。私は、そなたの旅の便宜を図るように取りはからっておこう」
激戦を共にくぐってきたアトラスは、アドナの心情を正しくくみ取っていた。ゴルススの死んだ場所まで旅をしたいというのだろう。別れは辛いが、友の心情を無視して引き留める事は出来ないだろう。
今のアトラスに出来る事は、旅費や旅装を準備し、彼女の旅の途中に、各地の役人から便宜が図られるように、王の命令を記載したスクナ板を持たせてやる事ぐらいだった。
「ありがとう。さっそくクセノフォンの所へ行く」
ともに戦ったギリシャ人たちが王都の北東の森に住んでいる。まずはそこに挨拶に行くという。決断の早い彼女は、王と王妃を残してさっさと姿を消した。アトラスとエリュティアは、彼女の後ろ姿を微笑みながら見送るしかなかった。
そんな部屋に、侍従が現れて大神官長ゴルロースが、王へ取り次ぎを求めていると伝えた。エリュティアは夫が眉を顰めて呟くのを聞いた。
「あの腐れ神官が」
アドナが神官から牛を解放したことに文句を言いに来たに違いない。しかし、アトラスもまた大神官長に伝えなければならないと考えている事がある。エリュティアはそんな夫の表情に胸騒ぎを感じた。
この大地は大きな災厄に見舞われ、その被害はこの国にも及びかけているという。その人々が心と手を携えて一つになるべき時に、人々の心がバラバラになる新たな対立と争いが起きるのではないかという不安だった。




