心を繋ぐ言葉
アトラスの命令を受け入れたアドナは、神殿から退去し、愛馬の手綱を曳いて王宮へ歩いた。何故か、馬から下りて、アトランティスの民と同じ視線の高さでこの世界を眺めたいと思った。彼女は自分の役割について考えていた。戦は過去になった。民のアトラスへの侮蔑は無くなったとは言えないが、命を狙うほどの憎しみは薄れた。同時に、彼女の護衛の役割の重要性が薄れていく。
「私の役割も終わりか……」
彼女は小さく呟いていた。アトラスの護衛を全うし、静寂の混沌に行く時が来れば、愛するゴルススは彼女を褒めてくれるだろう。しかし、不安も湧いて出てきた。
彼女にとって、自ら眺めた大地が海に沈んでいるという事実は受け入れている。そんな事実ではなく、彼女にとって心配事は、ゴルススの墓が既に海に沈んでいるのではないかと言う事だった。共に静寂の混沌で一つに溶け合うというのが、彼女の一途な望みだが、死ぬ時にゴルススから離れて居ては、ギリシャ人の自分はゴルスス共に天に昇る事は出来ないのではないか。
彼女は小さく呟いた。
「死ぬ時はゴルスス様が亡くなった場所で」
あとどれぐらいこの大地の上で生きるのかは分からなかったが、何か得体の知れない蟠りも沸いてきた。その理由を考えた時、アトラスの側に侍り続けて、彼と共に眺めた多くの人々の人生が思い浮かんできた。味方だった者も、敵だった者も、全ての人々が自分の人生を歩み、その足跡を大地と人々の心に刻んでいた。
「私はアドナだ」
もう奴隷ではないと彼女は思った。自らの人生に笑ったり泣いたり、一人の人間として愛する人に受け入れてもらいたい。
そんな事を考えながら歩いていたアドナは突然の大声に我に返った。
「神官様。お慈悲を。うちは夫が兵士として取られて亡くなり、男手がありません。その牛を取られれば、私と娘は生きていけません」
貧しい農民の身なりの女と娘が一人、神官の足にすがりつくように懇願している光景だった。多くの民がその光景を眺めていたが、後難を恐れて助けてやろうとする者が居ない。
神官がうるさそうに牛を追うのに使っていた鞭で、すがりつく少女を打った。鞭で打たれた少女が地に倒れ、娘を庇おうとした母親にも鞭が飛んだ。
「しつこい奴らだ。さっさと家に帰れ。この牛は祭壇に捧げると決まった」
会話の内容から、神官たちが貧しい農民の家から牛を奪ってきたことが推測できる。農民にとって、牛は乳を出し、田畑を耕す力仕事をする大切な家族だった。その家族を奪われて黙って帰る事も出来ないだろう。
アドナは牛を曳く神官たちの前に立ちふさがった
「何事だ?」
「その牛、その母娘に返してやれ。それが出来なければ、お前たちがその農民から牛を贖ってやるが良い」
返せないなら買い取ってやれと言う。しかし、神官たちはアドナを見下す調子で言いはなった。
「我らは神々へ祈りを捧げる供物を集めている。これは王の命令でしている事だ。それとも王に逆らうというのか」
その言葉に、アドナは剣の束に手をかけた。
「何をするつもりだ」
アドナの目つきに恐怖に怯えて問う神官たちに、アドナが言った。
「アトラス様は、農民から牛を奪えと言う命令を発するお方ではない。王の言葉を偽る者は死罪に値すると言うぞ」
「我らは聖職者である。女の分際で、我らを殺めようというのか」
そんな言葉に、アドナは冷静にアトラスの人柄を語った。
「アトラス様は身分で処罰を変えるお方ではない。死罪に値する罪なら、農民であれ神官であれ、公平に死を賜る」
アドナの激しい言葉に、神官たちは既に怯えて捨て台詞を吐いた。
「儀式を邪魔をする者には、神々の怒りが注ぐだろう」
もう一人の神官が憎々しげに言いはなって逃げるように走り去った。
「このことはゴルロース様に報告するからな」
農民の母と娘の元に牛が残された。戸惑いがその場を支配した。蛮族の女戦士に救われたが、何をどう言えばいいのか分からない。アドナもまた、偶然に農民の一家を救う事になったが、彼女にとってこんな経験は初めてで、どんな声をかけてやればいいのか分からない。
周囲の人々を巻き込んだ奇妙な沈黙の時を経て、少女が一番素直に反応した。少女がアドナに伝えねばならない心。少女はアドナに向き直って丁寧にお辞儀をして言った。
「どうも、ありがとうございました」
母親も娘のお辞儀を見て改めて気づいたように、自分もまた深々とお辞儀をして言った。
「親切なお方。どうもありがとうございました。これで私たち母子が救われます」
生まれて初めて受けた感謝の言葉に、アドナは狼狽えるほど戸惑い、その表情を隠す事も出来ない。人々はこの女戦士の素直な姿を驚きと共に眺めた。
「奴らが取り返しに来ぬうちに、さっさと牛を連れて帰る事だ」
アドナはそれだけ言って母子に背を向けた。ただ、彼女の表情から戸惑いが抜けていない。さらにアドナを混乱させる声が響いた。
「王の左様!」
民衆の中から繰り返しわき上がる声と、その民が彼女に向ける視線で、アドナは意味は分からないが自分の事だと悟った。神官とのやりとりを眺めていた民衆がアドナを信用できる仲間と認めたと言う事だろう。
アドナは密かに「王の左」と呼ばれる事がある。左腕のないアトラスの弱点を護衛しようとすれば、自然に彼女はアトラスの左に位置している。民はアドナという彼女の名前は知らなくても、その立ち位置で体格の良い女戦士の顔は、いつしか広く知られていた。
アドナに向けられる民の言葉は続いていた。
「王の左様! 他にも家畜を奪われた者が数多くおります」
「王の左様! 神官どもは盛んにこの国が海に沈んでいくと申しております。本当でしょうか」
その言葉にアドナは眉を顰めた。この大地に降りかかる災厄が広がりつつあるという事実は、民の混乱を避けて今しばらくは伏せておくはずだった。しかし、神官たちは大げさな準備で、自らを誇示するためだけに、民の心に危機を煽っていた。
「安心するがいい。アトラス様もエリュティア様もそなたたちと共におられる」
アドナはそれしか言えず、逃げるように馬に跨って駆けさせた。馬上で、彼女はさっき聞いたばかりの言葉を反芻していた。
「ありがとうだって?」
初めての言葉。人の人生が触れあった瞬間に、素直に伝わった感謝の心。あの少女の素直な心が、戦士として武に一途なアドナの心を溶かして一人の素直な女にするようだった。それが心地よく涙が溢れた。
奴隷の身分だった彼女は、ゴルススに初めて人として扱われて以来、人というものについて考えていた。戦士としての役割は重要であっても、その人生に価値を見いだせなかった。
ただ、あの少女が放った一言は、彼女がこの世に生きて足跡を残したということを教えた。多くの人々が繋がりあって、アドナはアドナという人格を持って、その中の一人だった。
彼女は溢れてきた涙を拭おうとせず空を仰ぎ見た。涙を抑えるようにぎゅっと結んだ口元も綻ぶようで、泣きながら笑うような奇妙な表情になった。ただ、喜びで満たされた彼女には、そんな姿を見られている恥ずかしさもなかった。
道を行き交う人々は、馬上の屈強な女戦士の目から涙が溢れているのを不思議そうに眺めたが、あまりに素直な彼女の姿に、笑う者は居なかった。




