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幼い愛の想い出

 ピレナはその光景を大きな波がヤルージ島を包んだと語った。彼女は未だ若く、目撃した情景を言葉で表現するには未熟だった。しかし彼女の真剣な眼差しで、今まで見た事がないほどの災厄を目撃したのだろうと分かる。

 そして、浜にいた兵士がフェイサスに異変を告げに来た。潮が乱れ、潮が引く時間にも関わらず潮が満ちてきた。それは砂浜に乗り上げて、明日の満潮まで一夜を過ごす予定の軍船を波に浮かべて沖へ流し去りかけるほどだったという。

 いくつかの状況を照らし合わせれば、無視できない出来事が起こりつつあるのは間違いない。フェイサスはそれを自分の目で確認しようと判断した。

「リネ様。今から船を出し、ヤルージ島に出向いて事の次第を確認して参ります」

「そなたが行かずとも誰かを行かせればいい」

 リネの表情に怯えが見えた。オルエデスが引き連れてきた兵士たちに怯えていて、身辺を守る者が減る事を嫌がっているのだろう。しかし、オルエデスはピレナに突き飛ばされたことが信じられないように尻餅をついたままで居た。この様子なら、兵を指揮してルージ国を害する意図はあるまい。フェイサスはリネを安心させるように言った。

「いや、事は重大。私自身が確認し、リネ様のご不安を取り除かねば。リネ様のお側にはクイグリフス殿がおります」

 彼はそれだけ言い残して足早に立ち去った。そんな会話の間、オルエデスは存在を忘れ去られたように尻餅をついたままでいた。これから妻にすべき女性に拒絶され、突き飛ばされて無視されている。オルエデスにとってそんな経験は初めてだった、よろよろと立ち上がる彼にバイラスが手を貸して囁くように言った。

「何やら異変があったようです。我らヴェスター国にも大きな災厄になるやも知れません」

 しかし、混乱する状況もオルエデスにとって他人事に過ぎない。彼はいち早く不安げなリネの元へ駆け寄った。

「叔母上、ご安心なされませ。このオルエデスがついております」

 今はリネの歓心を買っておくのが得策だった。しかし、リネもオルエデスを無視するように周囲を見回して叫んだ。

「ピレナ。ピレナは何処じゃ?」

「ピレナ様は居室に」

 侍女の言葉通り、ピレナはフェイサスが立ち去るのを眺めるや、後は用はないと言わんばかりに身を翻して居室に戻っていた。

 

「ザイラス。私は何を?」

 若いピレナは運命に流されながら生きてきた。父や母に逆らっても、それは少女らしいワガママで、子どもがだだをこねる姿だった。しかし、母にオルエデスとの縁談を持ちかけられ、初めて自らの意志で運命を変えようとした。

「でも、私は何をして良いのか分からない」

 彼女はベッドに横たわり、粗末な飾り紐を胸の上で握りしめた。今はザイラスの遺品になった品物だった。彼女は何かを祈るように目を閉じた。

 やがて陽が落ち、侍女がランプに火を灯しに来たが、結い上げた髪も解かずに寝息を立てていたピレナの顔を眺めて、そっと毛布だけ彼女に掛けて部屋をでた。起きていれば思い悩むだけの近頃のピレナの安らぎの時を邪魔してはならないと考えていた。


 ピレナは夢を見ていた。夢が夢である証拠に、彼女は今の年齢の姿のまま、八歳の頃の落馬の記憶の中にいた。兄に無理にねだって愛馬アレスケイアに乗せてもらったが、僅かに駆けただけで振り落とされた。彼女の具合を心配して駆け寄ってくる兄やその近習の中で、一人だけ距離を置いて、ザイラスはアレスケイアの手綱を掴んで、その興奮を静めるように馬の首を軽く叩くように撫でていた。ピレナは自分を振り落とした馬と、ザイラスを睨むように眺めた。

 後にザイラスは笑いながら言った。

「気高いアレスケイアは『私に乗りたければその資質を見せよ』という挑戦的な目でピレナ様を眺め、ピレナ様もまた『絶対にお前を乗りこなす』と挑む目をしていらっしゃいましたよ」

 振り落とされたピレナの動きから、大した怪我はしていないと判断して、アレスケイアの世話の役割についたらしい。彼はそんな貴人におもねらない広い視野を持った男だった。

 貴人におもねらないというのは、ザイラスの立場にも良く出ていた。彼はピレナの兄のアトラスの近習として側に仕え、他の近習たちさえ口にし辛い事をアトラスにずけずけと指摘した。素直なアトラスは彼の進言を受け入れて信頼感に変えたが、アトラスがもっと傲慢な性格なら、ザイラスを斬り殺していたかも知れない。ピレナはアトラスの妹としてそんな場面のいくつかに同席して眺めた記憶がある。

 

 彼女の夢は移り変わり、彼女は怯える手の震えを抑えながら馬に飼い葉を与えていた。その彼女に、背後からそっと囁く声がした。

「馬を信頼してやってください。そうすれば信頼で応えてくれる」

 ザイラスから乗馬の手ほどきを受けたと考えている彼女が、ザイラスから最初に受けたアドバイスだった。

「さあ。撫でてやって」

 ザイラスは背後からピレナに手を添えて馬の鼻面を撫でさせた。

(温かくて、柔らかくて、優しい)

 彼女は指先に感じる感触と、馬が彼女に注ぐ視線を眺めてそう思った。心がわくわくする経験に、背後の人物を笑顔で振り返った彼女は、ザイラスの存在感に再び思った。

(温かくて、柔らかくて、優しい)

 馬と同列の感慨を抱かれた事を知ったら、あの時のザイラスはどんな顔をしただろう。そんな思いで現実のピレナはくすりと笑った。過去の記憶と現在のピレナが夢の中で入り交じってしまっていた。

 王子アトラスの誤りを進言して正させ、その妹のピレナには馬の飼育係の小役人がする飼い葉を与える作業を求めながらも、彼自身は透明であるかのように個性を顕す事を避けていた。

 夢は館の庭園に移った。その片隅にザイラスが一人うつむいて庭石の一つに腰掛けていた。ピレナは侍女に混じって刺繍や琴の演奏を学ぶより、兄やその近習たちに混じって勇ましい話を聞くのが好きだった。ザイラスが近習仲間のオウガヌに彼の出自の卑しさをからかわれた場にも彼女が在席してオウガヌを睨み付けた。

 夢と現実が入り交じる夢の中で、彼女は初対面のオルエデスを生理的に嫌悪する理由がようやく分かった。彼女は身分を鼻に掛けて周囲に威張り散らすオウガヌが嫌いだった。オルエデスは様々な噂や行動にオウガヌと同じ雰囲気を漂わせていた。

 そんな気づきに納得する間もなく、夢は進んでいった。現在の彼女と同じ姿だった夢のピレナは、いつの間にかあの頃の記憶と同じ十歳の頃の姿に変わっていた。彼女は声を掛けた。

「ザイラス。元気を出して」

「ピレナ様。オウガヌが言うとおり、私には見るべき出自がない」

「でも、私の父リダルの命を何度も救った勇者はロフナルだけ。我が国の一番の勇者。ザイラスの父ロフナルは、私の父の命の恩人です」

「しかし、勇敢であろうと、忠誠心があろうと、農民出身に過ぎません。私は他の近習たちとは違う」

 彼の言葉に、ピレナか確信を込めた笑顔を浮かべて言った。

「私は貴方と結婚しても良いと思ってるのよ」

 今のピレナが、過去を振り返ってみれば、あの時の言葉に気恥ずかしさを感じつつも本気だったと感じている。ただ、ザイラスは大人の恋愛に憧れる幼いピレナの言葉を朗らかな笑顔で逸らした。ピレナはザイラスのそんな素直な笑顔が好きだった。

 

 窓辺から漏れてきた朝日が目を射てピレナは目覚めた。彼女は夢の余韻に浸りながら不満げに呟いた。

「夢の中からも悲しみが消えてるのね」

 彼の死の悲しみが彼女の心から消える事が偽りの愛の印なら、今の彼女には、ザイラスが彼女に残した言葉が暖かな雰囲気と共に残っているだけだった。

「私は他の誰かのために出来る事を一生懸命にいたしましょう。それが私がピレナ様と同じく静寂の混沌ヒュリシアンの調和の一部だということを証明してくれるでしょう」

 アトランティスの人々は、この世界が静寂の混沌ヒュリシアンの一部が細かく別れたものだと信じている。生き物も草花も死ねばそこに戻って調和をなす。身分の違いなど消え去って大きな調和に溶け込むはずだった。

 

 その日、ピレナは居室に引きこもった。食事も部屋に運ばせて済ませた。母親のリネがオルエデスの相手をさせようと説得しに来た。その背後にはオルエデスがリネに取り入って二人の関係を深めようという意図が見え隠れしていて、かえって、オルエデスへの嫌悪感が高まった。

 そんな彼女が部屋の外へ姿を見せたのは、館の中に大きな騒動を感じたからだった。フェイサスが戻るには未だ早すぎる。

「オルエデス殿の兵が」

「町が襲われている」

「警備兵が殺された」

 漏れ聞こえてきた言葉から、血にまみれた気配が感じ取れた。彼女を呼びに来た侍女は腰に長剣を帯びた勇ましい姿と、自分の手で民を守り抜くという決意に満ちた視線の彼女を見つけた。

 彼女は決意を込めて言い放った。

「オルエデスはどこ? 私が成敗してあげるわ。私はザイラスの思いを引き継がなければ」

 剣の束に手を掛けた彼女の心に恐れはなく、ザイラスにふさわしい女性になりたいという思いで満たされていた。



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