命、不安と期待
時はやや戻る。エリュティアの居室で女たちが話しをしている頃、大臣ライトラスも彼の執務室に数名の男たちを集めていた。
リマルダの地に攻め込んできたグラト国王とその息子を討ち取ったラクナルたちが、リマルダの地の勝利の後、王都に、凱旋するという知らせが届いたばかりか、ラクナルたちの軍に加わったヴェスター国に併合されていた領地の者たちも手を携えているという。旧シュレーブ国の重臣にすれば、奪われた領地が戻ってきたという気がしただろう。
宮殿で政務を預かるライトラスとジグリラス親子が笑顔で言った
「ラクナルたちは王都に戻る前に、ルードン河川辺に立ち寄るとか。勇者が勇者の墓に敬意を現す追悼の儀式でもするのであろうよ」
勝利者が、先に戦死したマリドラスたちが勇戦した戦場の跡地を訪れてから、王都に凱旋するつもりだという解釈である。
テウススが二人の言葉に別の解釈を加えた。
「いや。あの辺りにはクスニルス殿が残した船や筏がある。それを使って兵を対岸に渡し、王の後を追うつもりでしょう」
テウススが冷静に見たところ、ラクナルは凱旋するとは伝えていない。リマルダの地の勝利の後、治安維持のための部隊を一部残して、クスニルスとマリドラスが戦った西に向かうと伝えてきただけである。
テウススの判断も当然の事で、グラト国奥深く攻め込んだアトラスの応援に駆けつけねばならない。王都に凱旋するというのは、ライトラスたちの希望的な解釈である。
テウススは表情に出すのは抑えたが、幼い頃からアトラスに仕えた者として、その役人たちの姿に不快な印象も抱いていた。パトローサの役人たちは、シュレーブ王家を象徴するエリュティアのもとに、分割された領地の多くが戻ってくる事で、失われた国の再興を喜んでいるのではないか。その彼等には、王たるアトラスの姿は見えていない。
そんなテウススの考えに気づく事もなく、一時の戦勝報告に浮かれたジグリラスが、父親のライトラスの顔を眺めて言った
「しかし、勇者の凱旋の折には、エリュティア様のお言葉を賜らねば」
「なるほど。前もってお願いしておかねばなるまいな」
息子の言葉にライトラスは頷き、周囲の者たちの同意を求めるように、部屋に集う男たちの顔を見回した。大臣の言葉に反対する者は居ない。
テウススは改めて思った。
(ここは消滅したシュレーブ国なのか)
シュレーブ国は勝利者によって分割されて、今やこの王都のある地はルージ国のはずだった。しかし、ルージ島の海没と共に、ルージ国の統治機構は消滅し、今のこの地は旧シュレーブ国の重臣たちが治めている。更にアトラスが遷都を決意したことで、ただの一都市に過ぎなくなっていたパトローサは王都の地位を取り戻した。そして、この王都に住まう者は多いが、ルージ島生まれの生粋のルージ国の人間と言えば、先の戦いで傷ついたルージ軍兵士がいるだけ。更にこの部屋に集った人数はテウススを含めて8名。テウスス以外の者たちは旧シュレーブ王家に仕えた者たちばかりだった。
「儂が直に行ってお願いしよう」
大臣ライトラスは自信満々にそう言って部屋を出て行った。部屋の主が姿を消し、集まりは散会となった。
そんな経緯の後、エリュティアは居室に大臣ライトラスの訪問を受けた。
「凱旋した者たちにエリュティア様のお言葉を」
大臣は帰還した将兵にエリュティアから労いの言葉をかけてやってくれと言う。しかし、取り次いだ侍女頭のハリエラナは、あっさりと拒絶した。
「エリュティア様の体調が優れませぬ。労いの言葉は、アトラス王が帰還した折りに、王直々に賜るのがよろしいかと」
国の政務を預かる大臣と、エリュティアの身の回りの世話を取り仕切るただの侍女頭では、身分が違うはずだった。大臣ライトラスは彼の申し入れをエリュティアに窺う事もなく拒絶するハリエラナの表情に、この女が先代の侍女頭のルスララと同じか、それ以上に任務に忠実な頑固者だと悟った。ただ、不快感はない。ライトラスとハリエラナの二人にとって共通するのは、元シュレーブ国王家に対する敬愛と、そのシュレーブ国の儀礼に対する忠誠と言えるだろうか。
傍らでそんな会話を聞いていたユリスラナは、改めてハリエラナの忠誠心の深さを思い知らされる気分だった。元シュレーブ王家に対する忠誠心。王家を崇める彼等が蛮族と蔑むのがギリシャ人。そのギリシャ人の子どもを身籠もった自分はエリュティアの侍女にふさわしくないと判断されるに違いない。ハリエラナに妊娠を打ち明けられない。
ユリスラナは不安を振り払うように、この場を立ち去る理由を言った。
「エリュティア様がご所望の刺繍糸など、町の市で贖って参ります」
ハリエラナは黙ったまま頷いて了承した。町で様々な噂話を仕入れてエリュティアを楽しませる。それが彼女の大きな役割の一つだったが、体調が優れず間が空いた。体調が戻ったいまなら、明るく陽気な話題をいくつも拾ってきて、ベッドに伏せったエリュティアの傍らでその光景を語って楽しませる事も出来るだろう
宮殿を一歩出たユリスラナは、この町のわずか一ヶ月の変貌ぶりに驚いていた。ヴェスター国に分割統治された領地がルージ国に編入された。更にフローイ国に奪われた土地も戻ってくると言う。その事実は旧シュレーブ国の人々にとってシュレーブ国の復活に思える。そんな明るい情報に王都の人々は明るい希望に沸いているように見えた。ただ、その希望の内側に言いしれぬ不安がかいま見えるが、その正体が分からない。
そんな町を行き交う貧しい身なりの人々の間に、聞き慣れない言葉の訛りが混じっている。よほど遠方の地域から来た人々が居ると言う事だろう。
彼女の体験でこの雰囲気に近い状況を当てはめれば、攻略戦の折の聖都の光景が思い浮かぶ。あの時も戦火を逃れた各地の人々が押し寄せた。ユリスラナは今の王都のどこに、あの凄惨な光景が重なるのか分からないまま街道沿いにある一軒の雑貨屋に踏み込んで行った。
店に入ると、普段は店員に客の扱いを任せている店主が声をかけてきた。
「おや。ユリスラナさん。久しぶりだねぇ」
彼の意図は分かる。ユリスラナから宮殿の事やこの国の情勢の一端を聞き出したいのである。
ユリスラナもそんな事は気づいている。
「ええ、エリュティア様の事で忙しくて」
「エリュティア様はお元気かね?」
「ええっ。お元気にしておられるわ。王が不在の間は自分が民を守るのだと仰ってるの」
ここで店主は待ちに流れる意外な噂を口にした。
「エリュティア様が聖都へ移るという噂は本当かね?」
「まさか。エリュティア様は王都でアトラス様の無事を祈って刺繍などされてます。私が買いに来たのは、そのエリュティア様のための糸よ」
そう言いながら、糸が並べられた棚を眺めていると、突然にユリスラナの足下が揺れた。小さな揺れなど日常茶飯事で、慣れっこになっている彼女さえ驚かせる揺れだった。天井に近い高さの棚に並べた商品が降ってきた。天井が軋んで今にも崩れ落ちてくるのでは無いかと恐怖を覚えた客や店員が、悲鳴を上げて店の外に飛び出した。
しかし、間もなく大地は何事もなかったかのように静止した。混乱するのは愚かな人間だけ。大地はぴたりと静止して揺るぎないという感じさえする。
人々が恐怖に怯える会話がユリスラナの耳にも届いた。
「いったい、今度は何処が沈んだのやら」
「西や東で始まった。今度は南に違げえねぇや」
右腕に乳飲み子を抱き、左手の先に幼子の手を曳いた女が会話に割り込んだ。
「いったい。どこへ逃げれば良いんだい?」
そんな言葉で、ユリスラナは今の王都の様相の一端を知った。この町には大地が海に沈むという凄惨な光景を目撃した者が、地が揺れる都度、恐怖に怯えてこのアトランティスの大地の中心の大都市に来た。西のフローイ国から来た者。南西部の旧ゲルト国から山崩れで閉ざされた巡礼道を危険を冒して通ってきた者。東の地から来た者もいる。
そんな人々が語る生々しい体験談で、王都の民は、アトランティス全土を襲う災厄に気づきかけていた。しかし王宮で生活する者たちは人々の声に耳を塞いで遠くの土地の出来事のように思いこもうとしている。
「代価はいらねぇ。エリュティア様のためだ。好きな物を持っていきな」
店主は揺れが収まって店に戻ってきたユリスラナにそう言った。エリュティアに対する敬愛が感じ取れるほか、店主にとってユリスラナから得た王宮の情報も、刺繍糸の代価に値する。そして、滅び行く世界で財産を持っていても仕方がないという諦めさえ感じ始めているようにも思える。
ユリスラナは不安や驚きを押さえる作り笑顔でぺこりと礼をして、棚から刺繍糸を三束手にして店を出た。
彼女は重い足取りで王宮へと帰りながら、ふとお腹を撫でて新しい命に問いかけた。
(私たちは、何処へ逃げればいいの)
避難民は各地から押し寄せているようだ。海に沈むという信じられない災厄が、周囲全ての方向からこの王都に迫れば、逃げ道はない。ユリスラナは理解していないが、アトランティス大地は周辺部から海に飲み込まれつつある。人々は沿岸部の港や住民と共に外洋を航行する船も失っていた。破滅に瀕する大地から海を越えて外の世界に脱出するのも難しくなっている。
帰りついた王宮では、エリュティアを巡って騒ぎが起きていた。
「エリュティア様がまた体調を崩された」と。
ユリスラナはため息をつく思いで眉を顰めた。エリュティアはシュレーブ王家の血を曳く最後の一人。人々にとって心の拠り所だった。少しでも体調の悪い素振りを見せれば、周囲の者たちは大騒ぎになる。しかし、大騒ぎをする周囲の者たちに、エリュティア自身が迷惑に感じているだろう。
聖都包囲戦の折り、病の悪霊に取り憑かれて生死の境をさまよったエリュティアを看病したユリスラナには、今のエリュティアが重篤な病ではない事を感じ取る事が出来る。何より刺繍糸の買い出しに出かける前、彼女はエリュティアと会話してその雰囲気を強く感じ取ってもいた。
エリュティアの居室では、ベッドに横たわったエリュティアが起き出そうとするのを諫めて寝かしつける侍女や、病の悪霊を祓う香を焚く侍女、エリュティアの額に乗せた濡れタオルを換える侍女で慌ただしい。しかめ面の薬師が、いくつかの容器から薬草を丁寧に選んでいた。
ハリエラナがユリスラナに気づいて、小さな鍋を差し出して命じた。
「ユリスラナ。これを煎じてきて頂戴」
鍋に入っているのは薬師が調合した薬草である。ユリスラナはくんくんと鼻を鳴らしてその香りを嗅いだ。薬とはいえ不快な香りがする。ユリスラナ自身の経験で言えば、この部屋に炊き込められた香の香りだけでも不快なのに、こんなものを煎じて飲まされたら、きっと、気分がもっと悪くなる。
彼女は遠慮がちに、彼女の見立てを口にした。
「あの……、勘違いかもしれませんが、ご懐妊では」
「ご懐妊?」
ハリエラナと薬師は顔を見合わせて同じ言葉を吐いた。二人にはエリュティアが病弱で体調を崩しやすいという先入観があった。男性の薬師が、エリュティアから妊娠の兆候を見いだすには、この時期のエリュティアは元の華奢な体型のままだった。ハリエラナはその律儀な性格から病弱なエリュティアを労る事ばかり考えていた。
微熱を出して長く苦しそうに寝込むというエリュティアの症状の中に、妊娠の兆候を見いだせずにいたと言う事だろうか。ユリスラナにしても、自らその経験をしていなければ、妊娠の始まりだと気づく事はなかっただろう。
「そう言えば……」
指摘されてみればハリエラナにも思い当たる節がある。薬師も頷きながらも言った。
「しかし、今しばらく慎重に、ご容態を見守るのが上策かと」
「そうかもしれません」
この国の世継ぎの誕生を軽率に判断を下すべきではない。しかし、あと数十日も様子を見れば、確実な事が分かって、王にも国民にも、喜びの知らせを告げる事が出来るに違いない。
ハリエラナが不思議そうな笑顔で尋ねた。
「でも、ユリスラナ。貴女、良く気がついたわね」
がさつな娘だと考えていたが、見直す必要がありそうだった。ユリスラナは微妙な兆候に気づいたのは、自分自身の妊娠の経験のせいだとは言えず笑ってごまかすしかない。
「えへへへへ」
そんな会話に一番驚いていたのは、ベッドの上のエリュティア自身だった。
「私が妊娠……。あの方の赤ちゃんがお腹に?」




