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苦しみと喜びの予感

 アトラスがグラト国から帰国の途についたという知らせを持った伝令を、馬で走らせた頃。

 そのパトローサでは、ラクナルたちの勝利の知らせを受けていた。国内に攻め込んだ敵は殲滅されて、王都パトローサを脅かす敵は居なくなった。その知らせに王都カイーキの人々は落ち着きを取り戻し始めていた。


 そんな王都パトローサの王宮の一角で、侍女頭のハリエラナがユリスラナに声をかけていた。

「あらっ。もう大丈夫なの?」

「エリュティア様も、体調をお崩しとか。私もじっとしていられません」

 ユリスラナはそう言いながら、未だ体に残る不快感をぬぐい去る作り笑顔を浮かべた。侍女頭のハリエラナは、快活だったユリスラナの憔悴ぶりに三日間の休息を命じたが、その三日間にユリスラナの存在感の大きさを感じ取っていた。

 細やかな世話をする侍女はいくらでもいた。しかし、ハリエラナの見たところ、エリュティアと歳も近く、エリュティアがまるで親友とでも話すように親しげに心の内をさらけ出して会話できる侍女に、ユリスラナの代わりは居なかった。


 ユリスラナは日々の仕事に集中できないほどの体のだるさや吐き気に、春先からずっと悩まされていた。しかし、それも、ここの所ずいぶんましになってきたとも感じている。ハリエラナが与えてくれた三日間の休暇は、ユリスラナの体調改善の最後の仕上げとも言えたかも知れない。しかし、彼女の表情に体調のせいばかりではない陰りがある。

 彼女はエリュティアの侍女として召し出される前の田舎の村娘だった頃に、子どもを身籠もった近所の女性の世話をした事がある。

 悪阻つわりに苦しみながらも、家族のために洗濯をする女性を手伝って、川から飲み水を運ぶ力仕事をしたり、料理を作る女性の代わりに、遠くの市に買い出しに行ったり、時にベッドから起きられないほど疲れ切った女性の傍らで会話の相手を務めた。

 そんな妊婦が、悪阻つわりの苦しみも赤ちゃんを授かる代償だと笑顔で教えてくれた。赤ちゃんを受け入れる心づもりを確認した誕生の女神アルテレシアが、一月ほどでその苦しみを打ち消してくれるとも語って聞かせてくれた。

 あの時、あの女性が語ったように、いつまで続くのかと不安にさせたユリスラナの体調不良が、誕生の女神アルテレシアの祝福を受けたように薄れ、今は子宮に灯った命の火に愛情が湧く。

「やはり悪阻つわりだったのかしらね」

 彼女はその父親の姿を思い浮かべた。ギリシャ人エキュネウス。そして二つの不安が湧いた。一つは戦に出向いた父の安否の不安。もう一つは、彼女は自分が異邦人の子を身籠もったのではないかという期待と不安。彼女はそれを誰にも相談できないでいる。

(今はエリュティア様のお世話に専念しなくては)

 彼女は心の不安を振り払って現実と向き合う事にした。


 ユリスラナの回復と入れ替わりように、最近のエリュティアは気分が悪く食事も喉を通らないほど体調を崩している。ただ、元々病弱な彼女の体調が優れず、何かにつけてベッドから起き上がれないほどになるのは過去に何度もあった。

 次女頭のハリエラナは薫り高いハラサの実の皮を細かく刻んで入れた小さな布袋を手にしてエリュティアの部屋へ運んだ。その後ろにはユリスラナが水差し壺を手にして続いた。

 ベッドに伏していたエリュティアは入室者に気づいて、苦しそうで疲れ切った表情に作り笑顔を浮かべて侍女をねぎらった。

「あらっ。ユリスラナ。体の具合はもう良いの?」

「ええっ。体が丈夫な事だけが取り柄だと言われてますから」

 ハリエラナは二人の会話に耳を傾けながら、エリュティアの澄んだ笑顔にユリスラナの存在感を感じ取っていた。やはりエリュティアの身の回りの世話にユリスラナは欠かせない。

「これを枕元に」

 ハリエラナは手にしていた小さな布袋をベッドの隅に吊した。

「何なの?」

 首を傾げるエリュティアにハリエラナは提案者の名を明かした。

「ユリスラナがおまじないにと」

 ユリスラナがおまじないの説明を加えた。

「私の生まれ故郷の村では平穏の女神ルミルネ恩寵おんちょうと言うんです。爽やかな香りで悪霊を追い払うんです。きっと気分が晴れますよ」

 調理人には旨そうなコクのあるスープの香りや、人を酔わす甘い花の香りさえ不快感を感じる事のあるエリュティアだが、布袋に顔を近づけて、ほんのりと漂う爽やかな酸味をイメージさせる香りを心地よさそうに楽しんだ。彼女はその果実の名を言い当てた。

「ハラサの香りね」

「ええっ。それから、汲んだばかりの井戸水にハラサの果汁を入れました。口の中がすっきりして呑みやすいですよ」

 ユリスラナはカップに水差しの壺から飲み物を注いでエリュティアに手渡した。エリュティアは疑う事もせず、カップを傾けて飲み干した。

「ああっ。冷たくて美味しい」

 ハリエラナはそんなエリュティアの言葉を信じられない表情で聞いた。今まで彼女自身やユリスラナ以外の侍女がいくら勧めても、日々の飲み物さえなかなか口にしなかったエリュティアだった。

 ハリエラナは笑顔でユリスラナに命じた。

「では、ユリスラナ。貴女はエリュティア様のお側に控えていなさい」

 後は、二人っきりでそっとしておけば、エリュティアの心も晴れるだろう。ハリエラナはそう考えて部屋を離れた。ただ、彼女はユリスラナがエリュティアに向けた配慮が、ユリスラナ自身が経験した妊婦向けの世話の一つだとは気が付いていない。


 しかし、エリュティアとユリスラナを二人っきりにすると言うハリエラナの配慮は功を奏した。

 大きな枕を背の支えにして、ベッドの上で上半身を起こしたエリュティアが、心に秘めた悩みを吐き出していた。

「あの方に、余計な心配はかけたくないのに。あの方の足手まといにならないようにしなくては」

 ユリスラナは察した。エリュティアが口にしたあの方とは夫のアトラスの事。エリュティアは自分がアトラスの足手まといになる事だけを心配しているようだった。

「いいえ。遠く離れていても、アトラス様はエリュティア様の事を愛しておいでです。わたしにはそれが分かります」

 ユリスラナは自分の体験を重ねてそう言った。エキュネウスの子を身籠もったのではないかという彼女の思いは、不安だけではなく、今は遠くアトラスと共にいるエキュネウスの愛を感じ取る事も出来た。

 しかし、エリュティアは哀しげな表情を崩さずに言った。

「あの方が不在の間、この国の民を守るのが私の責任のはずなのに。こんな体では……」

「いえ。民を守るためにラクナル様たちは既に役割を果たされました。民の生活を守るためにライトラス殿たち役人の方も大勢居られます」

「いま、町の様子は、民の安寧は?」

 エリュティアにそう問われてユリスラナは口ごもった。民の目線で町の様子を眺めてそれを伝える事がユリスラナに期待される責任のはずだが、彼女は体調不良でこの一ヶ月の大半を王宮の中で過ごしていた。

「リマルダの地を取り戻した者たちが都に凱旋の途中だとか。これで戦の気配も少し薄れたものかと」

 ユリスラナはそんなありきたりな返答で口を濁した後、新たな提案を口にした。

「いかがでしょう。アトラス様のご無事を祈って刺繍などされては。ご気分も晴れるかと」

「そうね」

「では、新しい糸と布を市で買い求めて参りましょう。コンナの貝で染めた青紫の糸など、白の布地に映えると思います」

 買い出しの名目で外出し、町や人々の様子を眺めてエリュティアに報告できるだろう。彼女は自分の思いつきに満足した。次の瞬間、ユリスラナはエリュティアが微笑みながら無意識にお腹を指で撫でる仕草をしたのに気づいて、ふと考えた。

(ひょっとしたら、ご懐妊?)

 この時期にエリュティアの妊娠に気づいたのは、ユリスラナだけだったろう。ただ、それに気づいたのは彼女自身の妊娠体験が理由で、彼女はその考えを人々の前で口にしにくい。


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