憎しみと神々の記憶
幕舎の中にいても宿営地に闇が迫る事が分かる薄暗がりの中、アドナがランプを灯しに来たふりを装って、幕舎の中のアトラスの様子を探りに来た。アトラスはうつむき加減にベッドの脇を行ったり来たり。アドナはそれが心が乱れる時のアトラスの癖だと知っていた。
「衛兵だけで良い」
そんな短い言葉で、アトラスは幕舎の入り口の衛兵以外の人払いを命じてアドナを追い払った。
「私は何をしたらいい?」
各国が聖都に集う安寧という夢が破れたアトラスは、自分の心の中が復讐という目的で塗り替えられている事を自覚している。一方、彼を信じてついてきた者たちの事を考えれば、アトラスは自分の未熟な復讐のために、多くの者たちの命を犠牲にしてきた。今また兵士の命を復讐のために犠牲にしてしまうのかという恐れも感じている。しかし、今のアトラスには復讐以外に行動の目的を見つける事が出来ない。
アトラスは復讐や憎しみを考えた時、それを乗り越えた女性を知っていた。彼は幕舎の中で一人、ベッドに腰掛けながら、両手で顔を覆った薄明かりの中に、その人物の面影を描いて名を呟いた。
「フェミナ様」
アトラスはため息をつきながらベッドに身を横たえた。身も心も疲れ切ったアトラスは本人も気づかぬうちに眠りに陥った。
フローイ国の王女リーミルの機転で、フローイ国との和議がなった後、フェミナと彼女の夫グライスについて交わした言葉は今も覚えている。
アトラスは憎しみの目を向けるフェミナに尋ねた。
「あの夜、フェミナ様はグライス殿と会われたのか」
アトラスとの一騎打ちの後、死を目前にした夫は妻と再会できたのかと問うたのである。
「僅かに」
「何か言われたか」
「この王都を再建せよと」
「ならば、それがグライス殿の意志だろう。勇者が残された命で愛する者に託した意志。立派に継いでみせるが良い」
アトラスは、眠りに落ちたまま、この未熟な自分がずいぶんと立派な物言いをしたことに苦笑いをしていた。
「今の私は、多くの者たちを犠牲にした。神々は、この私に誰のどんな意志を継げばいいと?」
そう呟いたのか、現実なのか夢の中だったのか、本人には区別がつかない。そんなアトラスに、夢が切り替わって、鋭くリシアスの声がした。聖都解放の後、聖都の防衛で死んだ父ガルラナスの墓を詣でたときのことだ。
彼は憎しみと哀しみの籠もった声で叫んだ。
「お前が、わが父を殺したのだな」
アトラスは幼いリシアスが突き出した短剣を奪い、そして、それを返しながら言った。
「リシアスよ。未だ、この命をそなたにくれてやるわけにはゆかぬ。しかし、時が来れば再び会いに来い。その時のために、この短剣はそなたに返しておこう」
そう言ったアトラスに、リシアスの母が哀しげに言った。
「アトラス様。この子リシアスには、憎しみと復讐の道を歩ませたくはありません。それは、アトラス様にも……」
人は憎しみを生きる支えにするべきではなく、復讐を目的に生きるべきでもないという。あの時、アトラスは答えた。
「運命の神が、我が運命を変えてくださるなら考えても見よう」
神にすがるべきではないという彼は、一方では自ら自覚する未熟な部分を、神々にすがろうとする矛盾を抱えていた。それは復讐で混乱する今のアトラスも同じだった。
運命を変えるといえば、アトラスはエリュティアにその願いを抱き続けていた。思いもかけず結ばれる運命が訪れた。夢の場面は、あの日の宮殿に移り変わった。アトラスがシュレーブの地を彼女に与えて領主にしようとしたときのことだ。
エリュティアが言った。
「せっかくの申し入れなれど、私は亡国の王女の身の上、統治の才もなく」
「いや。それは謙遜が過ぎるでしょう。統治など学べば良いだけです」
「政も民の事も知らずに生きてきました。今更、何を学ぶのでしょう」
「貴女はシュレーブ国王女として生まれ、貴女を支える家臣にも恵まれておりましょう」
「何故、私は、シュレーブ国の王女などに生まれたのでしょう」
「それは運命の神の差配。人間には思いも寄らない事ですが、神々もその地位にふさわしい魂を選ばれたのでしょう」
「別の運命でも良かったのに」
「今の貴女が居られたからこそ、私は貴女を支えに出来るのです」
「私のような者が、貴方様を支える事が出来ると?」
エリュティアの言葉に、アトラスは大きく頷いた。
(これは夢か……)
夢の中で、これは夢だと自覚している事がある。この時のアトラスは夢と現実の記憶の狭間にいた。
(運命の神か……)
その神の名はアトラスの心からもう一人の女性の記憶を呼び覚ました。エリュティアと共にアトラスを導き続けた女性。
アトラスは聖都を攻める折りに背後を脅かすゲルト国を攻略した。国王ハッシュラスが謀略で殺された後、ゲルト国を去った時の記憶。アトラスの前にリーミルが立っていた。
口ごもるアトラスに、彼女は強い口調で言った。
「私は自分の判断を運命の神のせいにはしない。私の罪は私が背負う。そして私に審判を下すのは審判の神ではない。私の行為が邪ならば、審判の神の槍に貫かれるのも恐れはしないわ」
真理の女神の息子、審判の神が人の死に際して与えられた運命を全うしたかどうかの裁定を行うとされている。審判の神は、審判の神の息子で、審判は同じだが、人々の生前の行いの正と邪を判断し警告の罰を与え、それは時に死を意味する。リーミルは行為の罪も罰も背負うと言った。
彼は久しぶりに思いだしたリーミルの姿に癒されていた。アトラスにとって、時に姉が弟を叱りつけるように接する女性だった。ただ、その肉親のような接し方の裏に、アトラスへの女性としての愛を秘めていた。今も鈍いアトラスに苦笑いをしているかも知れない
「リーミル様か」
そう呟いたのは夢の中だったのか、目覚めた後だったのかよく分からない。すでに幕舎の外から差し込む朝日で明るかった。まだ、迷いは多い。しかし、それもいつかは晴れる希望が見えた気分だった。
夜間、幕舎の出口で護衛の任についていたアドナが、出てきたアトラスの表情を眺め、少し首を傾げた後、納得したように笑顔を浮かべた。
この日、アトラスは指揮下の兵士たちを、予定通りトステルの町へ進めた。行軍は順調で戦の気配はなかった。やがてトステルの町が見えてきた。
物見の情報から役人や大商人たちが逃げ出したと聞いていて、無人の町を想像していたが、改めて物見の兵を出して町を探ってみれば、無人かと思った家に踏み込めば、ベッドに伏した病人と介護の家族が息を殺して潜んでいたり、生きる事を諦めたような年寄り夫婦がいたり、物陰にちらりと見えた怯えた視線を確認すれば幼子で、危険を察した母が物陰から飛び出して幼子の手を曳いて逃げる姿もある。町を離れる術のない弱い者たちが、権力と財力のある者たちから見捨てられた町だった。
そんな町に踏み込んで間もなく、部隊の先頭スタラススの傍らを歩いていたナローデスが嬉しそうに叫んで駆けだした。
「あっ、お爺さま」
ナローデスが駆け寄った年寄りは、背後に多くの民を従えていた。アトラスは行軍を停止させて老人に尋ねた。
「そなたがルドカルか。生き残った民を守ってここまで来るとは大変だったな。危険を知って民を捨てて逃げるグラト国の役人どもに、そなたの姿を見せてやりたいものだ」
アトラスは、グラト国の役人たちは民を見捨てたが、ルドカルは避難民たちを見捨てず、苦しみを共にしながらやって来たと讃えた。
ルドカルは駆け寄ってきた孫の頭を撫でながら言った。
「関所を封鎖していた役人が居なくなったので、生き残った民を連れて参りました」
ルドカルたち、ゲルト国の避難民を町の西側で足止めしていた関所の役人も、アトラスの接近を聞いて逃げ出していたと言う事である。
アトラスは気になっていた事を尋ねた。
「どうして、そなたは私を頼る気になった?」
「ハッシュラス王が凱旋した時、アトラス様だけが公正無私であられた。そしてゲルト国が滅んだ折り、アトラス様だけが我らをゲルト国の民としてみておられた。我らゲルトの民は肌で感じております。頼るならこの方だと」
ルドカルは土下座し、額を地面につけて言葉を続けた。
「今の我らがアトラス様に差し出せるものはこの命だけ。命を賭してお仕えいたします故、我らをお救い下さい」
元は敵として抗い、今は差し出す国土や財産もなく、許しを請うために命を捧げて下僕として生きる覚悟だと言うつもりだろうか。彼の背後を眺め回せば、ボロ布を纏い長い避難生活で疲れて飢えた民という印象が漂う数百の者たちがいた。老人や乳飲み子を抱えた女、親を亡くしてた寄る者の居ない姉と弟。そんな者たちがアトラスを眺めていた。
憎まれ蔑まれ続けたアトラスにとって、彼にすがるような目で見られた経験はほとんど無かった。ただ、悪鬼と噂のあるアトラスに対する恐れも見て取れる。そんな民の中から、ルドカルがその勝手な振る舞いを叱りつける間もなく、一人の幼女が進み出てきた。幼い頃から野山を駆け回ったアトラスは、幼女が差し出した花を知っていた。
「これは珍しい。ルーラの花か」
アトラスの言葉にルドカルが答えた。
「ルージ国ではルーラというので? ゲルト国ではローチと申して願い事を託す花でございます」
「どうしてそんな花を?」
「これからやって来るアトラス様に、我らの身の保護をお願いすると言ったところ、この娘は姿を消していたかと思うと、どこかでこの花を見つけて参りました」
願い事を託す貴重な花であるだけに、険しい山岳地帯に僅かに生える珍しい植物である。おそらく大地が海に沈む過程で、その花が咲いていた山の中腹がこの少女の目の前に現れた。それは少女にとって魔法のような幸運であったかも知れない。彼女はその花を祈りを込めて差し出している。
しかし、避難民の安寧を願う少女の額や頬に、花を得るための彼女の幼い冒険の代償の傷がある。幼い少女は命をかけてこの願いを託す花を手に入れたのだろう。
アトラスは戸惑った。どんな表情を浮かべて応じればいいのだろう。彼はぎごちない笑顔を浮かべて少女が差し出す花を受け取った。しおれかけてはいるが新鮮な香りを放っていた。アトラスは言った。
「分かった。共に生きよう。このローチの花を約定の証として心に留めよう」
民として保護下に置くというアトラスの言葉に避難民たちの間から歓声が沸き起こった。
(見捨ててはおけぬ)
というのがアトラスの判断だった。アドナがスタラススの顔を眺めて笑顔で頷いて見せた。
(このアトラス様は、元のアトラス様だ)
スタラススも彼女のそんな想いに納得して頷いた。
この時、耳に聞こえる地鳴り、体に感じる揺れ、どちらが先か考える暇もなかった。アトラスたちは全身で激しい地の揺れを感じた。地の揺れと共に大地が沈む光景を眺めてきたゲルト国の避難民は今度は自分の番かと恐怖におののいて悲鳴を上げ、老人は尻餅をついて地に倒れ、それでも不安定な体を支えるため地に伏して、救いを求めてありったけの神の名を叫んだ。幼子の手を曳いていた母は、子の名を呼びながら子を抱いて地にうずくまった。
地の揺れがどれだけ続いたのか考える余裕もなかった。冥界の神がアトラスの迷いをあざ笑ったかのようなタイミングだった。しかし、ゲルト国から避難してきた者たちの反応は違った。
「おおっ。アトラス様が我らを救ってくださらねば、我らは海に沈んでいたところです」
ルドカルはそう言った。ゲルト国の民を東へと追い立てるように沈み続けた大地が更に沈んで、数日前に彼等が住んでいた土地も沈んだのではないかという。避難民たちも次々に頷き合っていた。
しかし、大地の消失はアトラスたちの思いもかけないところに飛び火して、今やこのアトランティスの大地に安全な場所は何処にもなく、アトラスはアトランティス全土が海に沈む気配を見せていたことを知る事になる。
アトラスはルドカルに向き合って命じた。
「我が軍旗を残す。そなたに指揮権を与えた証拠とせよ。これからやって来る兵士たちに本人が望めば軍務を解き故郷に帰せ。残るという者は、この地で物資の護衛をさせよ。混乱の中、ゲルト国の領地を纏め上げてきたそなたにしか出来ぬ事だ」
この町に留まって、グラト国の都パシロンを攻略に向かうルージ軍の後方支援をしろという事である。ルドカルという男を心から信頼せねば任せられない任務だった。
その命令にルドカルは戸惑った。
「しかし、我らゲルトの民は、所詮、この地ではよそ者。グラトの民が私に従いましょうや」
ルドカルの問いにアトラスは明快に答えた。
「グラト国の役人たちは真っ先に逃げ去ったが、民の中には逃げられず町に残った者も居よう。そう言う者たちを労ってやれ。民の心はついてくるだろうよ」
エリュティアはそうやって数多くの民の敬愛を集めている。アトラスも彼女に学ぼうと思った。
「では、全力を尽くします」
そう言って頭を垂れたルドカルに、アトラスはこれからの腹づもりを語った。
「明日の早朝に発つ。シュウル付近で戦があればよし、敵が戦を避ければ、夕刻には敵の都パシロンだ」
アトラスとしては町の外で待ち受ける敵と戦って町を占領したい。もし、敵が町に立てこもって戦う事を選べば、パトローサに攻め込んだ時と同様、グラト国の旧都は戦場になって炎上する。
しかし、そのパシロンではアトラスが想像も出来ない状況に見舞われていた。
今回、アトラスが夢でたどった記憶。よろしければ、第二部からそのシーンを詳しく読み返してみませんか
◎フェミナのシーン :第二部 第220話「伝えるべきこと」
◎リシアスやその母とのシーン;第二部 第483話「エリュティアの涙」
◎エリュティアとのシーン :第二部 第489話「恋の神の悪戯」
◎リーミルとのシーン :第二部 第392話「別れの日」
すみません。
お礼の仕方が分からないのでこの欄を利用して失礼します。
誤字の指摘をいただいた方、ありがとうございました。さっそく修正させていただきました。
誤字が内容気をつけますが、これからも何か気づいた点がありましたらご指摘をお願いいたします。
どうもありがとうございました




