悪鬼(ストカル)への回帰
アトラスが焦りを隠せず叫ぶように言った声が宿営地に響いた。
「ルドカルに出した使者は、未だ戻らぬか」
アトラスの心の中で戦の様相が変わっていた。敵の都へと一気に兵を進めるつもりだったが、状況は想像を超えて変化していた。千変万化に変化する戦場の気配を感じて対応する経験は積んでいたが、戦場予定地の近くで地形が大きく変わった経験はなかった。
グラト国の都に攻め込むにしても、背後は固めて安心したい。ルドカルという男はグラト国王トロニスから旧ゲルト領の政務を預かっているとはいえ、才気をその人柄の内に隠す篤実な男だという印象があった。
(理を説けば、我らに敵対する事はあるまい)と言うのが、アトラスの考えだった。そして、その篤実な男は現在のゲルト国で何が起きているのか、隠し事をせず伝えてくるだろう。アトラスたちを驚かせた海の光景の説明も得られるはずだ。
アトラスの焦りに気づいたスタラススが会えて感情を抑えて答えた。
「今しばらく、かかるやもしれません」
スタラススの態度に、アトラスは内心恥じた。指揮官として配下の者の前で焦りや動揺を見せてはならない。アトラスはそう信じる孤独な人間だった。
(ゲルト国の東半分の統治を任されたルドカルの住まいまで二日、面会に一日かかるとすれば、使者が急ぎ戻って首尾を報告するまであと二日)
アトラスはそう考える冷静さを取り戻していた。ただ、そんなアトラスを眺めてスタラススとアドナは顔を見合わせて思った。
(王はマリドラス殿たちの死に動揺し、復讐で心が乱れている)と。
聖都で開催するアトランティス議会の元に各国が集い、アトランティスの安寧を取り戻すという彼の夢は潰れ、聖都解放のために共に戦い生き残った盟友と信じていたグラト国のトロニスにも裏切られていた。エリュティアという伴侶は得たが、彼女と共に進むべき方向を見失っていた。
今は目の前の敵と戦う事しかないアトラスだったが、この時、意外な事に、戻ってくるのに未だ間があると考えていた使者が戻ってきた。
彼は自らの幕舎に、スタラススやクセノフォン、エキュネウスたち主だった者を集めて、使者を迎え入れた。
使者は手短に、ルドカルがアトラスの申し入れを受け入れたという状況を告げた。ただ、見慣れない少年を引き連れていた。使者は少年の身分をアトラスたちに告げた。
「ルドカル殿が、この少年をアトラス王のお側に置いていただきたいと」
戦の中立を保ってくれと言うアトラスの提案に、ルドカルは服従するという印に人質を送ってきたと言う事だった。
少年の歳は幼いが、表情に思い詰めた気迫がある。
「お初にお目通りします。ルドカルの孫でナローデスと申します。祖父からの言づてを申します。ルドカルとその民はアトラス様に臣従する故、我らの安寧を配慮をお願いしたく存じます」
「もちろんだ。味方は大切にせねば」
「祖父は、民と共にルージ国に迎え入れてもらうのだと申していました」
「迎え入れるとは?」
「我らもルージの民になると」
少年ナローデスのたどたどしい言葉に首を傾げたアトラスに、少年を連れ帰った使者が言葉を補った。
「元ゲルト国の大地は海に沈み、グラト国との境が僅かに残っていただけ。ルドカル殿は数百の民と共にその地に逃れられておりました。トステルの町の関所が封鎖されていたため、我らはそれを避けてルドカル殿を探し当てた次第です」
元ゲルト国の中央にいるはずのルドカルに出した使者が二日で戻ったのは、面会の相手がグラト国との国境に近いトステルの町の近くまで避難していたからだった。
アトラスは人数に驚いて尋ねた。
「数百の民だと? 生き残ったのは、わずかそれだけか」
ゲルト国はアトランティス大陸南西の田舎とはいえ、その都だけでも数千の人々が生きていた。ゲルト国全土にはその数百倍の人々が居ただろう。
ナローデスが語るのは、アトランティスの大地の南西部に位置したゲルト国の大半がすでに海に沈み、今は隣国のグラト国に隣接していた部分が僅かに避難民とともに残っているに過ぎないと言うことである。アトラスは言葉を失って周囲の者たちの顔を眺めたが、言葉を発したのは少年ナローデスだけだった。
「私の母も民を救おうとして亡くなりました」
「それは辛い事だな」
「やっと、トステルの町にたどり着くかと思った時、関所は閉鎖されて足止めされました」
その言葉に、アトラスはグラト国の意図を理解した。もはや、元ゲルト国の領地にも、わずかに生き残った女子どもや年寄りにも、何の価値も見いだせない。そればかりか、彼等が避難民として侵入してくれば、グラト国内が混乱する。ゲルト国の残骸がまだ沈み続けるなら、それと一緒に残った民も沈んでくれたら、手間が省けると言う冷酷な判断だったろう。
少年は哀しげに言った。
「封鎖を破って民を通そうとした父は、関所の役人に斬られて殺されました」
海に沈み続ける大地に追われるようにたどり着いた国境だったろう。避難民にしてみれば命がけでも関所を突破して安全な場所に逃れたいに違いない。しかし、彼等は関所を通れず、残された僅かな大地で飢えと不安に苛まれながら過ごしていた。
アトラスからの使者はそんな彼等の元に着いて、彼等に希望を与えたと言う事だろうか。少年は期待に満ちた視線をアトラスに向けて言った。
「使者殿と面会しアトラス様のお言葉を聞いて、祖父が言いました。アトラス様なら私たちを救ってくださると」
しかし、アトラスは少年の言葉を否定するように首を横に振った。
「いや。今の私には、果たさねばならぬ大事な用がある。今の情勢を見極めた後、我らはトステルの町に兵を進める。その折りに関所は解放しよう。後は好きに生きるがいい」
幕舎の中に驚きの雰囲気が漂い、幕舎に集う者たちは顔を見合わせた。今までのアトラスなら、即座にルドカルの申し入れを受け、避難民を保護する命令を下しただろう。しかし、今のアトラスは違った。
少年ナローデスは誰より驚いて、すがるような声で言った。
「私たちをお見捨てになるのですか」
彼の言葉に、アトラスは諭すように優しく言った。
「そなたは私を頼ってここへ来た。しかし、その私はグラト国との戦が目的だった。これは、運命の神の差配として受け入れねばなるまいよ。そなたはお爺さまの所に帰る事だ」
「私はお爺さまの代理としてゲルト国の民の保護をお願いに来たのです。帰れと言われても、願いを聞き入れてもらわねば、私は帰れません」
「私は、そなたの祖父に人質など要求してはおらぬ。しかし、そなたが我が元に留まるというなら、我が戦を飽きるまで見ていくが良い」
見ず知らずの民の保護より、今は自らの復讐を優先させるという。アトラスは話しは終わりだと言わんばかりに、スタラススに視線を転じて命じた。
「スタラススよ。そなたなら歳も近い。ナローデスの面倒を見てやれ」
幕舎に集う者たちは、アトラスの意志を飜す言葉もないまま、幕舎から立ち去って戦の準備に戻るしかなかった。
アトラスは情勢を探るため、兵をこの地に留めたまま南や東へと物見を派遣した。ただ、二日経って戻ってきた者たちが告げた内容は、代わり映えせず、唯一、アトラスの興味を引いたのは、グラト国が遷都を計画しているらしいという事だったろうか。
グラト国は先の戦でルードン河の南岸の広大な領地を手に入れ、アトランティスの中心たる聖都の近くの町へと都を移すという。アトランティス全土に覇を唱える意図がうかがえる。
(トロニスの奴め。最初から和平に興味はなく、覇権をねらっていたのか?)
アトラスは憎々しげにそう考えて言った。
「彼等が引っ越す前に奪うぞ」
アトラスの言葉にクセノフォンが尋ねた。
「遷都で空っぽになった町を奪うので?」
政治的な機能は、既にイドランの町に移して政務を預かる大臣たちは役人の多くと共にそちらに移ったという。残っているのは旧都を懐かしがる王妃やその家族とその身の回りの雑務をする者たちだけだという。
「王妃や王家の身内には都と同じ価値がある」
アトラスの言葉にスタラススが尋ねた。
「人質というわけで?」
「人聞きが悪い。アトランティスの和平のために、協力をお願いするのだ」
アトラスは微笑みながらそう言った。ただ、アトラスの傍らに仕え続けてきたスタラススは、幼い頃から感情を抑えて生きてきたアトラスの目の中に、怒りと憎しみ感じ取った。
(我らが王よ悪鬼に染まらぬよう)
スタラススの目に映るのは、謀略で父を失ったあと、憎しみに凝り固まって戦に臨んだ三年前のアトラスの姿だった。聖都に集う安寧の世界の希望を盟友に裏切られ、故郷を同じくする数多くの者たちを死に追いやられた。その憎しみがアトラスを戦に駆り立てていた。
そんなアトラスの陣に最初の補給物資と共に、パトローサから連絡を携えた使者が着いた。王トロニス率いるグラト軍と戦うために派遣したラクナルからの戦況報告はアトラスを喜ばせた。
「さすがはラクナル。戦場巧者よ」
ラクナルは町から民を脱出させながら、町を占領するグラト軍をリマルダの地の奥深く誘い込んでいた。一方、本国がアトラスに突かれた事に気づいたグラト軍は、その攻勢も緩み、退却の気配も見えてきたという。
ラクナルは一部の味方を迂回させて、ルードン河の川辺に繋留されていた船の半分を焼き払わせたという。しかし、意図して一部の船は残した。退路を断たれる事を危惧したグラト軍の退却が始まるだろうが、ルードン河川辺で兵を渡す船が足りずに混乱する。ラクナルはその混乱に付け込んで一気に反撃に移るという連絡だった。アトラスは即座にラクナルの計画を支持した旨を伝えるよう使者に命じた。
今ひとつの知らせは、シュレーブ国の分割後にフローイ国やヴェスター国に併合された領地の者たちがルージ国に帰順を求めているという知らせだった。
アトラスは機嫌良く、彼等の帰順と民の保護を認めた。
「分かった。ヴェスター国に併合されていた領主たちの帰順を認めよう。そして、申し伝えよ。帰順するには兵を挙げ、ラクナルの元に集い、グラト軍と戦え。ラクナルにはトロニスの尻に噛みついて離すなと」
そんなアトラスの言葉をナローデスは口惜しそうに聞いていた。
(その地は受け入れるのに、どうして我らゲルト国の民は?……)
ナローデスはふと気づいた。アトラスが喜んで受け入れたのは、兵を出す事が出来る地域。それに比べればナローデスの祖父の元にいる避難民など、兵にもならない女や子ども、老人ばかりだった。
(アトラス様は、戦が出来る人間だけが大事なのだ)
ナローディスの寂しげな表情から、彼の本心を悟ったようにスタラススが首を横に振っていた。いまのアトラスは本当のアトラスではないと。
ギリシャ人歩兵を指揮するクセノフォンが尋ねた。
「我らはどういたしましょう」
「今はもう待たぬ。予定通りトステルの町の北へ兵を進めよう、そこで兵を整え一気に敵の旧都を奪う」
そんな命令でルージ軍の兵士たちは前進を始めた。陽の光は痛いほど熱く、流れる汗は途切れなかった。やがて、トステルの町が近づき、町の様子を探らせた物見が戻って告げた。
「町は混乱しています。町の長は逃げだし、民も我らが王の噂に怯えて我先に逃げ出しているようです」
そんな報告に、クセノフォンはアトラスの意志を訪ねた。
「町へ入り、直ぐに占領しますか」
「いや。罠かも知れぬ。明日の朝、様子を見てからにしよう」
アトラスは、フローイ国で蛮族のゲルエナサスの軍を町に引き込んで焼き払った事がある。あの時と敵味方が変わっただけで状況は同じ。逃げたというのも見せかけだけで、ルージ軍を町に誘い込む策略かもしれないと言う。
「今夜はかがり火を増やし、敵の夜襲に警戒せよ」
アトラスはそれだけを命じただけで、彼のために張られた幕舎の中に、一人、姿を消した。スタラススはその彼女の後ろ姿を眺めて尋ねた。
「アドナ。お前でも無理か」
彼女は護衛として王の側に侍り続けて、アトラスの心情も良く察している。時に王を叱りつけるほどだった。しかし、アドナは首を横に振った。
「ああ。王は私が入り込めるよりずっと深いところに閉じこもっている。もし、引っ張り出す事ができる者が居るとすれば……」
「エリュティア様か?」
スタラススの問いに、アドナは残念そうに首を横に振った。
「いいや。もうお亡くなりになった方だ」
そんな言葉に、スタラススも思い当たる記憶をたどった。姉のようにアトラスに接して、時にアトラスを叱りつけながら導いた女性、リーミルの面影だった。
アトラスが思い起こす記憶の一つ
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口ごもるアトラスに、リーミルは強い口調で言った。
「私は自分の判断を運命の神のせいにはしない。私の罪は私が背負う。そして私に審判を下すのは審判の神ではない。私の行為が邪ならば、審判の神の槍に貫かれるのも恐れはしないわ」
真理の女神の息子、審判の神が人の死に際して与えられた運命を全うしたかどうかの裁定を行うとされている。審判の神は、審判の神の息子で、審判は同じだが、人々の生前の行いの正と邪を判断し警告の罰を与え、それは時に死を意味する。リーミルは行為の罪も罰も背負うと言った。




