王国政治史
セイント王国の財務大臣ケハンはここにきて頭を悩ませていた。金が、絶対的に足りない。「あの日」から刻一刻と悪くなるばかりの経済状況は、ついに次の年の予算を組むことすら出来ない程に悪化してしまった。
勇者の誕生。十数年前同盟国ブレイブの送ってきたその吉報を、自分を含めた大臣連中はどこか複雑な思いを抱きつつ受け取ったと思う。漠然とした不快感、いや、それは正しくは嫉妬だった。
かつて人間界全てが「世界帝国」に属していた時代、この辺りは流刑人の処刑地だったという。その歴史を立証するように、この国は資源どころかまともな飲み水さえも自然からは手に入れる事が出来ないのである。そんな貧弱国の国政を動かす立場になってみれば、嫉妬の感情の一つも沸くものである。
王は純粋に喜んでいた。選挙によって選ばれたこの国の代表者は、実際の所宰相インテラー率いる「中道派」を国民が支持した上での副産物以上の価値は無かった。そんな飾り物の様な彼の価値観の方が、恐らく一般的なのだろう。実際問題勇者の誕生により人間界全体の活気は増した。宿敵である魔族の存在を商人が恐れなくなったのもその一因だし、勇者と言う唯一無二の資本に対し、人間界中から投資が行われ始めた事も大きい。しかしその恩恵はセイント王国に行き渡る事は無く、むしろ急発展する人間界のツケを払わされるかの如く逆風が吹き荒れたのだ。
——水相場十倍だと!?バカな・・・
――世界的なインフレーション現象に加え・・・
――加え、何だ!?そんな、一夜で物価が十倍になるなど!!
――ブレイブ王国への投資合戦による損失を、他の所で補おうとしているらしく・・・
思い出すたびに憤怒が体からせりあがってくるのを感じる。ここ数年、大臣たる自分どころか王ですらも徹底した水管理を行われている我が国に対して、勇者が生まれたというだけの隣国は富が黙っていても流れてくるという。馬鹿な。そんな馬鹿な事があって良いものか。
キリの無い怨嗟の念と戦いながら予算表と戦っていると、後ろから声が聞こえた。
「ケハン、遅くまで精が出るね」
「宰相様」
弱冠二十七の若い宰相は、その顔にくっきりと浮かんだクマを隠そうともせずケハンに笑いかけた。時刻は日付が変わって数時間、明かり一つない外の景観とは裏腹に、この聖セイント城にはどの部屋にも明かりがともっていた。
「また、来てるんだって。ブレイブ王国から」
「彼等も必死ですね。そこまでしてこの何もない国の実権が欲しいのでしょうか」
「あの人たちが欲しいのは「権威」だよ。まさか勇者の世界帝国をなぞらえてる訳では無いだろうけど」
宰相インテラーは笑っていた。この国の予算五十年分の借款を押し付ける事実上の従属契約。そんな物を突き付けられてなお笑っていられるのは、この人の途方もない芯の強さのためだとケハンは知っていた。知っていたからこそ心の底から同情した。そして、そんな彼に更なる凶報を紡がなくてはいけない己を嫌悪した。
「私は、受け入れるしかないと思います。この国の財政は、もう」
「・・・やはり駄目か。うん、分かってる。これは僕が判断しなければいけない事だ」
親と子ほど年の離れたこの宰相に、全てを投げ出すしかない己は何なのだ。外交大臣シュルトはここにきて未だ諸国と対等な関係を――名目上――維持せしめているし、労務大臣ワークはそれこそ身を削るが如き奮闘により失業率を二分に抑えている。そして、劣悪化していく一方の環境を強いながら、今なお民度の高さをこの国の民たちが保っているのは、宰相インテラーの誠実な人柄と堅実な政策が民の心を支えているのが大きい。彼らと共に政権を担う自分が、劣悪な環境を言い訳にするのは許される事では無い。
何か、何か打開案は無いのか。悲壮な顔をひた隠しにしてやはり微笑む宰相を前に、財務大臣は有るはずのない奇跡を求めて頭を働かせた。
間違いなくこの街は世界一の街だ。それも、全て己の力で築いた街。眼前に広がる世界で唯一の「一億都市」、ブレイブ王国の首都セントラルは、夜の闇をかき消さんとする輝きを持ってキルイの名誉欲を満たしてくれた。
呼び出す声に振り向くと、外交官が跪いていた。その手にある文書を受け取り一瞥する。顔に自然に笑みが浮かぶのを耐えきれなかったらしく、外交官に怪訝な視線を向けられる。
「お前は、嬉しくならないのか?」
「国王陛下とブレイブ王国の威信の示すところ、当然の事だと思いましたので」
顔色一つ変えず外交官が答える。自分の周りに追従者しか置かなくなってずいぶん経つが、未だに追従と言うのは耳に心地よいものだ。なればこそ自分の人生と才覚、そして天運を余すことなく使い切り、王になった甲斐があるというものである。
「百五十年前の勇者の建国した「世界帝国」!それを唯一継いだネオン帝国も今や俺の手のひらの上!ははははは!そりゃあそうだ!「勇者の伝統」のみが権威の根拠である老大国と!現に勇者の成長明らかな我が国と!そりゃあ我が国が勝るに決まってる!」
勇者。初めてその名前を聞いたのは自分が三十になろうという時だった。まともな環境で育っていればわらべ歌にでも聞こう勇者の雄姿は、捨て子だった己にはそれまで縁のない話だった。
――勇者様がこの国に!お生まれなさった!
国中が狂喜する中、己一人が冷静であったように思える。知識も教養も無かった分だけ、勇者のありがたみが分かってなかっただけなのかもしれない。いや、現にその通りだったのだろう。実際、「勇者」は世界中に繁栄をもたらし、それを全力で利用した自分は、今この世界でも有数の権力を持つに至ったのだから。
「国王陛下と王都セントラルに永遠の繁栄を!勇者とブレイブ王国に永遠の祝福を!」
外交官の追従が、今度は少し耳に障った。無論今度は表情には出さない。この感情は、絶対に外に出してはいけないものだと分かっていた。勇者を利用し成り上がった、勇者を擁する事が存在価値であるブレイブ王国の王として。
――あいつは、生まれてくるだけで偉いのか。
暗い感情。ソレは出世栄達の甘い蜜と不可分のものだった。結果として自分は蜜を捨てられず、今に至るのだ。後悔はしていない。する理由も無い。一時の嫉妬の念と、今の生活。比べるに愚かしい。
――生まれた事が罪。じゃなきゃあ俺たちはこんな所でこんな事してねえよ。
昔の事だ。最早関わる事も無い異界の記憶。この国の施政を司る己には相応しくない記憶。やはり表情には出さず、キルイは頭の声を消した。
外交官を下げ、財務大臣を呼んだ。小太りの財務大臣は小走りでこちらに向かってきて、やはり跪いた。
「なあ、今この「セントラル」の税率ってどのくらいだっけ?」
「はっ、単純な所得から引かれる物だけで言いますと、凡そ七割弱です!」
「じゃあ、もう少し上げれるな。八割だ」
財務大臣の顔が引きつるが、否と言う選択肢は無い。この男にも分かっているはずだ。国民の支持を得ているのは国王ただ一人であり、その他の官僚と言うのはただの部品に過ぎないのだと。
「八割、大丈夫でしょうか」
「勇者の住まう街に住めるんだ。八割どころか九割でも住み手はいる。違うか?」
「は、はいっ。その通りです!」
勇者の安全神話は世界共通であり、「セントラル」に住むという事は、未来の脅威への予防のみならず、現実の脅威の発生も起こりえない、完璧に近い治安を享受する事が出来る、という事だ。加えて国の所有する潤沢な資金から行われる安定した経済活動。ここで物乞いの一つでもしていた方が、例えば隣国「セイント王国」で普通に暮らすよりも裕福な生活が送れるのだ。
どたとたと帰っていく財務大臣を見送りながらキルイは舌打ちをした。あいつがもう少し有能ならば、本当に九割と言っていたのに、と。ネオン帝国の大企業八社と中小企業千二百社余りを買収し、更にネオン政府に与えた借款の費用を計上すると、やはり予算に余裕がある訳では無いのだ。
「勇者」を利用すれば金は木から生えてくるのだ。存在そのものが至尊である勇者。国から、世界から徹底的に保護され、愛される勇者。
――あいつは、生まれてくるだけで偉いのか。
再びせりあがってくる暗い感情を抑え、キルイは次の財務大臣候補を考えた。
相変わらず、荒れた道である。自分の身よりも馬の身を心配しながら、ヴァイスは歩き続けた。彼の愛馬ホルホスが引く馬車からはがしゃがしゃと物騒な音が漏れるが、このひたすらに荒れた街道を通る者など他に居ないので、普段とは違い特段の注意をしていなかった。
辺りを見渡すと茶色の畑が一面に広がっていた。ここセイント王国領土でも育つ唯一の作物「タロッタ」は、強い生命力を持つが故に土地の生命力を奪ってしまう。一般的には毒草と変わらぬ評価を受けているそれを育てざるを得ない程、彼らの生活は困窮しているのだろう。
商人である自分にとっては願ったり叶ったりである。ヴァイスはまだ見ぬこの国の権力者に向かってほくそ笑んだ。
「死の商人」。商人仲間から付けられた綽名は妥当ではないと思う。「武器」程確実な資本は無い。国力の弱った国の行きつく先は二つ、戦争か内乱である。どちらに転んだにせよ、そこに発生する需要などは分かり切った事では無いか。商人として確実に儲かる資本を動かすのは当然の事である。
――武器は物言う事も無ければ変わりゆくことも無いしな。
商人の九割が何らかの形で投資を行っているという「勇者」。馬鹿馬鹿しい事だ、と思う。実際何の力を持っていようと、現状は十幾つの子供でしかないのだ。そんな不確実な資本に投資を行うなど、ブレイブ王国に募金しているのと変わらないでは無いかと思う。
ひたすら長い道のりを歩くが、一向に景色は変わらない。以前この道を通った時はこれほど長く感じただろうか。変わらぬ景色と陰鬱な空気がそうさせているのかと思うと、さしもの「死の商人」もいい気分では無かった。
――最早手遅れか。
そう思わなくも無かったが、それにしては末期感が無い。本当に手遅れの国と言うのはそもそも民が尋常の職務を行っていない。民が大人しく畑を弄っているうちは、国の限界は見えないだろう。
街道を進んで四か所目の墓地が目に入る。元流刑地というだけあって墓だけは多い。その殆どにかつての罪人が埋葬されているというのだから、全くこの国はあらゆる面で呪われている。売る物だけ売り切ったらさっさと帰りたい所である。
ようやく街らしきものが見え、ヴァイスは安堵する。しかし近づくにつれ、その安堵はそっくりそのまま不安へと変わっていった。
――何だ、この街は。
商人としてあらゆる街を見てきた。ネオン帝国二百年の都「ヒロイックシティ」やブレイブ王国の「セントラル」の様な大都会だけではなく、東西南北を渡り歩いて商売を続けてきた。勿論、セイント王国にも十年ほど前に水を売る為に入国した経験がある。その時に商売を行った街「マンターン」は確かこの辺りであったと思う。自分の記憶と目の前の風景が交錯し、ヴァイスは頭を押さえた。
広場の中心、かつて水を湛えていたはずの噴水はわずかにその面影を残すのみとなっており、そこから見える建物たちは皆等しく今にも崩れそうである。滅びかけた文明の跡地には雑草一つ生える事は許されず、剥がれた石道からは生命力の欠片も無い荒土が不気味に顔をのぞかせていた。そして何より驚くべきことは。そうした荒廃の中にあって、この街は清浄なのである。浮浪者も居なければ倒れている者もいない。街と言えるかどうかも定かではない世紀末の街は、驚くほどの秩序を保っていた。
街並みに圧倒されていると、後ろから何かを引くような音がした。振り向くとこの街の住民と思わしき男が重そうに荷台を引いている。目が合うとその窪んだ瞳を威嚇するようにこちらを睨む。その視線が馬車に向かわないうちにヴァイスは大人しく道を譲る。
「皆ぁ、水だぞぉ!水を汲んできたぞおっ!」
男が叫ぶと人々は一斉に建物から出てきた。皆一様に荷台の中身――水を刺すように凝視していたが、誰一人として抜け駆けをしようとするものは居なかった。妙に行儀よく荷台から一人一杯ずつ水を受け取っている住民を見ながらヴァイスは小さく舌打ちをした。民度の高さで言ったら「セントラル」などより遥かに上である。
とても内乱と言う空気では無い。ここでは武器が売れそうでも無い事に、ではなく自分が商売道具を間違えたらしき事に後悔が止まらない。水であれば原価は格安でありながら更に高く売れる。セイントの水不足を予見しなかった訳では無いが、よもやそこまでとは思わなかったのだ。近々水を持ってまた来ようと誓いながら、ヴァイスは街を後にした。残る選択肢は「戦争」。聖セイント城へ馬車を向かわせながら、ヴァイスはふと疑問に思った。
――あの水。あの大量の水はどこから汲んで来たのだろうか?——
相も変わらず土色の風景を見渡していると、その疑問はもやもやと頭の中に残った。
全て自分の責任だった。こうなる事は分かり切っていて、その上で何かを甘えていた自分の、償いようもない責任である。
この国の民は強かった。まだ若く未熟な自分をあえて選んだのも、自らで選んだ為政者に決して逆らわない事も、全てその強さゆえの事だった。誰だって長い物に巻かれつつ、都合が悪くなったら反発するのが楽な生き方に決まっている。そんな妥協と理不尽から決別した民が、何で訳もなく凶行に奔るものか。理由も原因も分かり切っている。聖セイント城「協議の間」。王を除く重鎮全てを集めたこの部屋の扉を、インテラーは集合時間の二時間ほど前に開けた。
二人、既に先客がいた。苦渋の顔つきを手元の紙に向けている財務大臣ケハンと、目を瞑って何かを考えている様子の外務大臣シュルトだ。宰相である自分にとっての優秀な部下であり、若輩者の自分にとっての政道の師である二人の考えている事は良く分っていた。今さら何の言葉をかけれる訳でも無く、自分の席に座る。
――セイント王国民による水強奪事件。暗記する位読み込んだ手元の資料を、意味も無くもう一度見返す。ブレイブ王国領内にて「水」の強奪事件が発生。犯人はセイント王国民と断定される。当初ブレイブ政府はこの事件を深刻には捉えていなかったが、被害地域周辺の農民の訴えを聞きセイント王国に犯人の引き渡しを求める――
水。生きるための本能が彼らを動かしたのだ。それを咎める事が、どうして宰相たる自分に出来るものか。しかし、ブレイブ王国が引き渡しを求める事もまた当然なのだった。
――もう少し早く決断していれば。
ブレイブ王国から提示された借款。それを受け容れていれば。何故受け容れなかったのかと己の胸に尋ねた時、まごう事なき民の為だったと言えるか。似て非なる、国というものを守ろうとした為だったのではないか。
答えの出ない問いを自分自身に投げ掛けていると、後ろの扉が乱暴に開かれる。ケハンは咎めるような目を向けるがやがて諦めて視線を紙に戻す。インテラーはたった今部屋に入ってきた男に会釈をした。
「余裕だな、宰相様よ。今軍部じゃあアンタみたいな顔をしてる奴は張り倒されるだろうぜ」
一見して傍若無人な男――全軍総帥アレスは今にも唾の一つでも吐きそうな形相をこちらに向ける。この国の首脳部の中で唯一自分と歳の差が無いこの男の経歴は、その傍若無人を黙認されてしかるべき物である。尤もそれほどの男であるから、人をあからさまに罵倒するときには必ず何かの意味があった。
「やはり軍では、対ブレイブ論が主流なのか」
「少しばかり語弊があるな。軍で主流なんじゃねえ、この国での主流に軍も乗っかってるまでの事だ」
アレスは言うや否や荒々しく椅子に座る。耳に痛い事を言う物だ。この国での主流。対ブレイブ論。それは当たり前の事で、議論を重ねた所でその思想が覆る訳ではない。根本的な問題を解決しない事には意味のない事なのである。
少し時間を置くと、続々と大臣が入室し、集合時間一時間前には全員がそろっていた。インテラーは立ち上がり、緊急会議の開始を宣言する。
「事ここに至って尋常の議論などは無意味と思う。誰か、決定的な打開案の有る者は?」
当然、誰の頭にもそんな物がある訳が無い。インテラーは少し間を置くと、声に力を込める。
「では私の案を聞いて欲しい。今回、民の凶行は許される事では無いが、さりとてそれを罰する事は決してできない。このような事態を招いたこの国の政権を担う者として、断じてだ」
何人かが頷く。そう、感情の面では迷うことは無いのだ。後は、どうやって罪を償うのか。
「・・・私が被害地域に行く。そして被害者に償いを行い、被害届を取り消してもらう」
一同がざわめき始める。動揺は当然の事だった。等しく戸惑った表情をしている一同の中で、ただ一人アレスだけはこちらを真っすぐに見つめていた。若き総帥は、不機嫌でも無く憤怒でもないその表情を全く変えずに、一言だけ言い切った。
「軍は、出せねえぞ」
その強い目を見て、しっかりと頷く。やはりこの男は傑物だった。宰相インテラーが自ら出向くという意味を完全に理解した上で、自分の案に従ってくれるのだ。
「総帥、それはどういうことだ。宰相が他国に出向くのに、護衛の一つもないなど」
違う、違うんだシュルト。これは宰相としての威信の元に被害者を黙らせに行くんじゃない。哀れな民の間違いを、同じ立場で代わりに償おうというだけの話なんだ。そして、あわよくば。「勇者」の二文字の元に経済独占を行っているブレイブ王国を通さずに、有り余る資源を有しているブレイブ民と直接取引が出来れば。そのツテを掴むことが出来たら、何かが変わるのではないか。
アレスは急に立ち上がり、シュルトをぎょろりと睨んで笑う。その目は、シュルトを飛び越えてインテラーを映していた。
「何と言おうと出せねえ物は出せねえ。どうしても行くって奴がいるなら俺がこの手で切り捨ててやるよ」
強硬派の将軍を抑えてくれるという事か。本当に、一から十まで気の回る男だ。
「ありがとう、アレス」
振り向きもせずにアレスは部屋を出る。それを合図に大臣たちは一斉にインテラーの元にやってきた。しかし、何を言われたとしても翻意する気はインテラーには無かった。
自分は何者なのか。ルキウスにとってその疑問は物心ついた時からの永遠の謎だった。
勇者様、と人は自分の事を呼び、崇める。唯一自分の事を名前で呼ぶ母ですら、その目に映っているのはルキウスではなく「勇者」だった。
剣術でも、魔術でも、学問でも人に負けたことは無かった。勿論それなりの努力は重ねたが、努力量以上の成果であることは明らかだった。母は自分を処女のまま生んだというし、魔物は自分を見るだけで逃げていく。間違いなく、自分は「勇者」という生き物だった。
ただ、それだけだった。「勇者」という概念の擬人化。それ以上でもそれ以下でも無く、周りの人間もそうある事を求めていた。
正義感はある方だと思う。困っている人を助ける時、ある程度なら自分の身を犠牲にするのも惜しまない。しかし世界はそれを勇者の当然の責務として判断し、ルキウスの善意などは眼中にもないのだ。
部屋を見渡す。個人の部屋にしては不必要な程広い部屋。無駄に贅を凝らした装飾物の数々。物心ついた時から寝起きする部屋だが、そこに愛着は少しも無い。誰かが勝手に用意した家具は一月も使わぬうちに新しい物に代えられ、そこに自分の意思は反映されない。代えられた古い方の家具が「勇者様お下がり」として原価の数十倍の値段で輸出されている事を知ってからは、部屋そのものに汚らわしささえ感じる。
誰が悪い訳でも無かった。誰も悪くない中で、何がここまでの歪みを生んだのかと考えた時に、自分の存在以外にあり得ないのである。
――何者なんだ、僕は。
「勇者」なる存在にくっついたモノ。本来なら不必要な個人の意思。人を助けた時に感謝されたいと思う事も、自らの趣味を持ちたいと思う事も、勇者には全く持って不要な事だった。世の中の誰一人として、「ルキウス」の意思が表に出る事を望んではいない。
選挙が、始まった。この国の国王キルイは独裁者で知られるが、その大前提には国民の支持があった。国民の八割を超える支持が、強力な独裁を可能にしているのだ。ルキウスは国王が好きでは無かった。自分を見る目に、明確な敵意を感じる事がままある。彼の提案である「選挙に公平を期すために勇者には選挙に関するあらゆる活動を禁じる」為の法律が適用されてもう長い中、自分の政権を脅かす政敵としての敵意では無いだろう。生まれて以来王の要請には殆ど従ってきた己に、恨まれる筋合いは無いはずだった。そうした感情は無論表に出さない。国王の言及した通り、自分の一言は、選挙の結果を左右してしまう。
この辺りでは見ないような古びた服を着た集団が大挙して自分の元にやってきたのは、選挙が終わる二日前の事だった。
「キルイの暴政には耐えきれません。どうか勇者様が王になって下さい」
泣きながら訴える民の顔を見ると、格好に反して案外顔色は良かった。少なくとも餓えては無いのだな、とルキウスは何となく思った。
「そもそも勇者様が王になる道を封じたのはキルイです。かの者の奸智に、勇者様は騙されているのです」
確かにキルイがこう言わなかったら、自分が王に祭り上げられていただろう。どんな政策を取ろうと、誰に政務を任せようと、国民は誰も何も言わないし思わない。それが良い事なのかはルキウスには分からなかった。
自分の代わりに母が受け答えをしていた。どうやら、母は乗り気のようだ。となれば、自分はあの王に反旗を翻す事になるのだろう。
国王キルイ。唯我独尊の独裁を敷きながら八割の民に支持された男。貧しい生まれから己の才覚で成り上がった男。世界一の都を築き上げ、さらなる繁栄に突き進もうとする男。何もかもが自分の理解の外にある不出世の国王が、ルキウスの頭の中で突如貧者の姿と化した。
――お前は、生まれてきただけで偉いのか。
いつか国王が自分に向けたその目と全く変わらぬ視線を向けるその男の、嫉妬と悲しみの感情に耐えきれずルキウスは目をそらした。
馬が、悲鳴を上げていた。その背に鞭を打ちかける直前、我に返る。狙いの外れた鞭はアレスの足を強かに打ったが、その痛みを苦痛と思うことは無かった。
インテラーが殺された。相も変わらず粗末な着物を着て一人出向いた宰相は、宰相とも認識されずにブレイブの民に暴行を受けて死んだ。
アレスに怒りは無かった。宰相ではなく民として出向くと決めた以上、こうなる事も覚悟の上だったのだろう。誰が悪い訳でも無く、ただ自分の責務と向き合った男が死んだというだけの話だった。
今自分の体を動かしているのは焦りだった。ただでさえブレイブ王国に対する敵意が高まる一方である今の情勢で、今回の事件は戦争の引き金になりかねないものだ。逸る軍部の中枢にはとりあえず釘を刺したが、現場レベルでは未だ暴発の危険性が残っている。目下ブレイブとの国境に一番近い砦「ザクス砦」を目指してアレスは馬を走らせているのだ。
――本当に、焦りだけなのか?
そうだ、それ以外に何がある。怒りも悲しみも同情も無い。なるべくしてなった事だ。
――では何故泣く、何故嘆く。何故己の身をあえて傷つける?
止まない己の心の声から気を逸らそうと、足の力を強める。しかし馬は今度こそ限界が来たようで、激しく抵抗をしてアレスを振り落とす。ザクス砦まではまだ遠い。途中にいくつか村はあるが馬の備えなどはある訳も無い。一回、息を吸い、アレスは全力で走り始める。馬に乗っている時よりも体への負担が大きく、その分だけ心の声が薄まってくれた。
怒り、悲しみ、同情。そんな物は無い。あるものか。散々綺麗ごとを抜かした挙句、殺されていては世話は無い。しかもその結果として、この国には更なる騒動が勃発しようとしているのだ。むしろ憎んでも良いくらいである。
――綺麗ごとを言うのが僕の仕事だ。それを実現させるのが君たちの仕事。
始めて会った時、笑いながらそんな無責任な事をほざいたあの男。結局、何一つ実現は出来なかった。
――全て僕のせいだ。
そうだ、お前のせいだ。あらゆる重圧を一人で背負って、あらゆる逆風を一身に浴びて、それでもいつだって笑っていたお前。何一つとして結果を出せず、それでも国民から愛されたお前。だから国民はお前に怒りをぶつける事が出来ず、他国に八つ当たりをする道を選んだ。全て、お前のせいだ。
――ありがとう、アレス。
何がありがとうだ。お前に感謝される謂れは無い。あるものか。他人を過大評価する馬鹿。自分を過小評価する馬鹿。誰もお前に感謝されるような立派な人間じゃねえよ。無能な大臣共も、人様の物を盗みやがった国民も、人殺ししか取り柄の無い総帥も、どいつもこいつも皆クソッタレだ。
全力で走りながら、体中の機能全てをすり減らしながら、それでもアレスは泣いていた。幾度となく咆哮し、それ以上に嗚咽した。
全員切り捨ててやりたい。ブレイブの民全てを切り殺し、その血で喉を潤したい。散々好き勝手やった挙句に政権を奪われた前国王や、ついに王になりやがった諸悪の根源たる勇者などはなます切りにしてもまだ足りない。
しかし、それはインテラーの死を無駄にする。奴の死の意味を、最悪の形で定義してしまう。だから、怒りも悲しみも感じてはならないのだ。正しい行動をとろうとする上で、吹き荒れる感情は邪魔にしかならなかった。
走り続けてどれほどたったのか。涙はとうに枯れ、感情は叫び疲れて死んでしまった。前から騎馬が走って来たのにも、アレスは気づかなかった。
「そ、総帥!?なぜこんな所に・・・?」
声をかけられようやく気付く。一度動きを止めた体は、限界を迎えたかのように力が入らず、その場に座り込む。
「・・・話は後だ。馬に乗せろ。ザクス砦まで・・・」
言いかけて、アレスは気づく。目の前の騎乗の兵士が、無数の傷を負っている事を。
「ザクス砦は・・・陥落しました・・・」
遅かった。この国の民たちの多年に渡る我慢も、大臣共のあがきも、宰相インテラーの死も、全て、全て無駄になった。
「私たちは・・・」
兵士が語り始める。最初はインテラーの遺体を回収するために使者を向かわせたこと。向こうの民がそれを信じず、侵攻への下準備だと判断して王——勇者に報告した事。勇者の出軍が異様に早く、動揺したザクス守護兵が弁解するよりも先に応戦した事。そして、圧倒的な勇者の力により、半日どころか数刻と持たず、ザクス砦を落とされた事——
「————ハ」
アレスは笑った。笑うしか無かった。最初から勇者の元にひれ伏していれば誰もかも幸せに生きれたのだ。それをしない、と。たったそれだけで、何もかもが無駄になった。誰もかれもが一生懸命だった。一人で何もかもを背負って死んだ男が居た。それもこれも全て空回りの茶番と化した。
「殺せ」
一言、呟いた。兵士が目を見張ってこちらを見る。感情を抑え込んでいた理性は働く理由を失い、爆発した感情は全て憤怒となってアレスの体を駆け巡っていた。
――僕は、この国が好きだ。セイント国民として生まれて、願わくばセイント国民として死にたい。自分が生まれて育った国が、その国の生まれであるってだけで下に見られるのは、嫌だ。
そうだ、誰しも生まれ育った国を守ろうとしただけだった。それを、そんな当たり前の事が、俺たちには許されなかったのか。
「全軍に通達しろ。
・・・勇者を殺せ。無理でも殺せ。何人犠牲を出そうと、あの化け物一人を殺せ」
全く、世の中と言うのは何が起こるか分からぬ。ネオン帝国の外務大臣シェルゴーは自室で一人ほくそ笑んだ。この豪華絢爛の部屋から追い出されそうになっていた事など、今の自分には嘘のようであった。
極上のワインを喉に通す。至福の味わいは、己が幸福であるがゆえに一層引き立つものだ。幸福の上にのみ幸福あり。即興で考えた格言の様な何かに、シェルゴーは酔った。
あの男。勇者によって成り上がり、勇者によって失権した男。ついぞ先日までは恐怖と憎しみを無尽蔵に生み出してくれた男も、今やワインを味わう為のチーズのようなものだった。
富の暴力によりこの国の手綱を握られた時、外務大臣の自分は雲隠れしていた。国を盗られた責任の十割を押し付けられるより、雲隠れの責任を問われる方が楽だと判断したのだ。しかし結果として皇帝から激怒され、今にも罪人にされようかと言う間際、キルイ失権の知らせが届いたのだ。
無論、それだけでは代わりの外務大臣が立てられるだけで己の境遇が変わらない。しかしキルイを退け新たに王になったのが弱冠十六の「勇者」であると聞いた時、復権への起死回生の案が閃いたのだ。
「キルイめのあの強引すぎる政策の数々・・・全く、今思うと滑稽じゃわい」
誰に話すでもなく、シェルゴーは呟きまたグラスを傾ける。ネオン帝国だけでなく、様々な国がブレイブ王国の経済的拡大政策の餌食となっており、そのツケは狡猾な王の消えた今、何かしらの歪みを持ってブレイブ王国を襲うはずだった。それを見越しブレイブ市場からの撤退を提案した己は、今思い出しても冴えていたと思う。
勇者討ち死にの報は大陸全土を駆け巡り、勇者ブランドは大暴落した。各国がその損失に喘ぐ中、ネオン帝国だけは無傷であり、ブレイブには借款を返し切るどころか逆に借款を押し付ける事に成功した。世界で最も栄えたセントラルも今は昔、勇者が消え、王無き今、廃れる速さは目に見える如しだという。となれば、二番手であった「ヒロイックシティ」に人が流れてくるのは必然であり、罪人扱いが一転して英雄扱いも当然というものである。
しかし、とシェルゴーは手を動かすのを止める。何故勇者はセイント王国如きを攻めるのに失敗したのだろう。セイント側は兵力の八割が討ち死にする壮絶な被害を受け、逆にブレイブ側は殆ど兵力の消費がないという。そんな圧倒的な戦の中で、何故勇者という最も重要な人物だけが一人死んだのだろう。
案外、名前だけが独り歩きしていただけで実のところ大したモノでも無かったのかもしれない。だとしたら、実に迷惑に世界を引っ掻き回してくれた物である。顔も知らぬ男に毒づながらワインを傾けるが空であり、ワインを期待していた頭が空回りする。手持無沙汰な頭は常には考えぬようないらぬ事をを考え始めた。
――もしも今、魔族の軍勢が攻めてきたらどうなるのかな。
背筋が少し寒くなる。がしかし皇帝から呼び出しの使者が来ると、頭は自分の功を誇る言葉で埋め尽くされた。