吸血君とこじれた関係
「待って...、やめて、ねえ、吸血君!!!」
怖い。今まで笑ったり、怒ったりしていた吸血君から、人としての感情が感じられない。此方にふらふらと、微笑みながら近づいてくるその姿はまるで先程の殺人鬼のようだし、煕った眼は獣のように瞳孔を開かせている。
「止まって...、近づかな」
重い物が、自分の腹に当たる感触。お腹の痛みと、込み上げる嘔吐物、そして眼の前の彼が握っている拳から、奈々は自分が何をされたか判断した。酸っぱいものが胃から逆流してくる。
奈々はその場に倒れるようにして座り込むと、思いっ切り口から嘔吐物を出した。息がしづらくなる。視界が狭まって、苦しさから冷静さが掻き消される。
すると、吸血君は奈々の両腕を掴み、押し倒して上に乗った。顔が赤くなり、瞳孔が開いて眼が活発化している。ってことは、彼は今...極度の興奮状態...!?
はっ、はっ、と乱れた呼吸を落ち着かせようとしながら、奈々は「吸血君、どいて!!!」と叫んだ。本来なら押し飛ばせるところを、今は傷によってそんな力がないことを悔いる。
吸血君の口が、歯が、いや、牙が傷口に近づいてくる。
「やめて...、待って、駄目...、ねえ吸血君!!!!」
ブツッ、と何かが切れる。
傷口の近くの肌が、皮膚の繊維が、牙によって裂かれていく。体内の血がゆっくりと流れ出るのが感じられ、それをごくり、と嚥下する眼の前の男性に、奈々は釘付けになった。眼の前にいるのは、奈々が知らない人だった。
吸血君は、そんなことをしない人だった。
吸血君は、正義感の強い人だった。
吸血君、は...!!
信じていたのに。信頼していた。彼のことを、彼の言葉を、彼の行動力を、彼の気持ちを。それなのに、彼は...。
涙が頬を滑り落ちる。滑り落ちても落ちても、直ぐに溢れる涙を拭うことも出来ず、奈々は只々声を殺して泣いた。
怖い。痛い。苦しい。
「あっ...、うっ...。」
傷口を牙が噛み、刺すのに堪えれれず、喘ぎ声にも似た嗚咽が漏れる。乱れた服も、髪も、全てがもうこの場から去りたい、と願っていた。
「きゅう...やめ...。おね...が...。」
奈々の声は届かない。吸血君は、血を飲むのを止めない。
「おね...がい...こ、...小日向...く...。」
するり、と彼の手が自分の躰から離れていった。眼から、獣のような光が消えている。
「あ...、奈々ちゃん、僕...!」
血だらけの手を、ガタガタと震わせながら、小日向君はそう叫んだ。眼に、怯えが走っている奈々を見て、声を震わせる。
「ぼ、僕、一体、何を...。」
涙が彼の頬を伝っていき、そして奈々の頬に落ちた。血だらけの手を、甲を、腕を見て眼に、後悔の念が映る。彼の瞳に灯された光は、明らかな『喪失感』だった。
「奈々、ちゃ...。」
最後にそう、彼の声が聞こえたっきり、奈々は視界が狭くなり、暗くなってくるのを感じた。
***
起きると奈々は、白い壁に囲まれた寝台にいた。腕には細い管が繋がれ、生理食塩水でも入れているのだろうか、何かが注がれている感覚が鈍い神経機能から伝わってきた。眼を薄っすら開けて、何があったのか考える。
何故、自分は此処に...。
「...!!」
思い出した、吸血君がやったんだ。何時もならきちりと結ばれた髪を乱れさせながら、奈々は荒くなった息を整えた。間違いない、此処は病院だ。
「...な、奈々...。」
くるり、と振り向くと、お母さんが此方を見ていた。寝起きらしい、半分傾けていた首をゆっくりと持ち上げて、泣いたような顔で無理に笑う。
「お母さん、私...。」
「良いから寝なよ。後で事は全て話すから。あんたから聞きたいことだって山程あるしね。」
無理に寝かされたような格好になり、お母さんは「飲み物とって来るね。」と部屋から出て行った。
上に付いた照明に、自分の点滴の管が繋がれた腕を翳す。もう一つの腕で、傷口辺りをなぞると、くすぐったさと痛みとが混じった、変な感じがした。
吸血君は、どうしてるんだろう。
私が今此処にいるのは、彼のせいだ。あれは...とても、怖かったし嫌だった。気持ち悪かった。今でも、拭いきれないそれは心の奥底に、どろどろと住み着いている。
腕を元の位置に戻すと、腕は小さな痛みと共に、ベッドに埋もれていった。
***
「...そう言えば。」
お母さんが、お水のコップを持ったまま、静かにそう切り出した。無表情だった顔に、静かに、ふんわりと微笑みを浮かべて。
「貴方が言っていた、吸血君って、由来があるからそう呼んでいたのね。」
「...え?」
「あの日、奈々を病院まで担いで来て、それから手術中もずっと待機していたんだから。その時に、粗方事情を聞いただけの話よ。」
お母さんは、ふと遠くを見るような眼を浮かべた後、また続ける。
「...最初はね、怒ったり苛ついたり、取り敢えず色んな感情をぶつけたわ。でもね。」
コップを握った手を、お母さんはもう一回持ち直す。
「...彼はね。」
「お母さん、止めて!!!」
お母さんは、驚いたような表情を浮かべた。荒々しい吐息が漏れ、恐怖が躰を走る。信じていた人から裏切られる、あの気持ち。
嫌だ、思い出したくないのに、また...!
「...ごめん、ちょっと早すぎたね。」
そう言って奈々の頭を撫でると、お母さんは病院から出て行った。
***
きっと、彼は私を襲ったことなんて言わずに、私が通り魔に襲われたとでも言ったのだろう。計算高くて、聡くて。
私のことなんて、最初から只の餌程度にしか思っていなかったのだろう。
それに、浮き上がって信用なんてしてた、自分が馬鹿だったのだ...。
***
「退院おめでとう、奈々ちゃーん!!」
美琴ちゃんが中庭で、そう叫ぶ。
机の上に散らばった都市伝説切り抜きに、懐かしみを憶えながらも、奈々は美琴ちゃんと、他の友達に微笑んで、「ありがと。」と呟いた。男子も、女子に混じりはしないけれど、遠くから退院お祝いを叫んでいた。男子というものは、下世話な話も時にはするものなので、まあそんな話もしていたらしいが。
「...な、なんか、大原、大人しくなってねぇ?」
「それが、なんか通り魔に派手に肩とかやられたらしいよ。にしても病弱な女の子みたいな設定って意外と有りだな。」
「俺は断然積極的派だね。あとデカい派。だから貧乳はパス。」
いつの間にか、自分の好みの話となった男子に心底軽蔑するような眼を向けた後、女子達は「小日向君にはもう会ったの?」と聞いた。
「...あ、会うわけないじゃん、あんな奴...。」
震えた声を落ち着かせようとしながら、奈々はそう言った。
吸血君、もとい小日向君は、となりの席にいながら、話すような間柄ではなくなった。朝、会ったらたまに会釈する程度、意味深な目線を授業中に交わすことも無く、昼休みや放課後に教室で話すことでさえ無くなっていた。
『奈々ちゃーん!』
誰かの、ふわりとした、温かくて、自分が悩んでいることが馬鹿らしくなるような声がして、奈々は後ろを振り向いてその姿を探した。居るはずもない人物を、眼で追う。其処で、一瞬、彼のふわりとした笑みが誰か違う人の笑みと重なる。
...なに、しているのだろう。
別に彼がいなくたって...、困ることなんて、何も無い。
重なる面影を探す意味など、何も無いのに。
***
「...学校どうだったの。」
「別に...、普通だけれど。」
「...あのね、奈々。」
「何?」
「吸血君...、小日向君はーーーー。」
***
何で、彼のことを、全て知らずに、自分は自分の価値観だけで全てを思い込んでいたのだろう。彼には、彼で事情があったはずなのに、自分は被害者面ばかりしていて、情けなかったり不甲斐なかったりが、込み上げてきて。
勿論、彼がやったことは、嫌だったし気持ち悪かったし、もう二度と経験はしたくない。
でも、思えば彼は彼なりにずっと我慢してくれていた。
『奈々ちゃ〜ん...また血飲ませてよぉ...。』
『お早う、奈々ちゃん!また血ィ飲ませて!!』
『僕の餌になって下さい。』
何で、たった一つの彼の過ちで、彼のした善行や楽しかった...、日々まで、全てを忘れようとしたのだろう。
何で...、そんなもの、自分らしくない。
***
次の日の放課後、誰もいない教室に、奈々は一人で居続けた。日誌や、その他の仕事を終わらせる為ではない。奈々にとって、大切なことをしたくて、居続ける。ガラリ、と扉が開いて、一人の男子が来るのを待ちながら、奈々は椅子に座って待っていた。
何の位経ったのだろう、少しずつ解れてきた緊張の糸が、緩みきって、奈々はいつの間にか眠っていた。
『奈々ちゃん!』
何か、声が聞こえる。誰、だろう...。段々、頭の中で反芻されていたのが、耳の奥からも反響されるようになった。
「...吸血、君?」
はたと眼が覚めると、吸血君は此方を見ながら、奈々の髪を撫でていた。奈々が起きたのに気づき、途端に顔が豹変する。髪をから手を離すと、「ごめん。」と一言呟いて、扉に向かった。
『吸血君...、小日向君は、貴方を噛んで、血を飲んでしまったことをきちんと説明していたわ。通り魔のせいになんかしていない。』
吸血君は、きっと彼なりに、彼のしたことを償おうとしているのだと思うのーー。
「待って、吸血君!!!!!」
君に、聞きたいことがあるの。だから、待って...。
遅くなってごめんなさい、最近ドタバタしていました(汗)
もう少しで完結です。




