もう「普通」と言うのをやめろ
嫌われてもいい。けど、はっきり言いたい。
僕は「普通」が嫌いだ。
否定されても構わないが、僕は自分のことを「普通」とかいう奴が大嫌いだ。
小説やアニメじゃよく聞く「俺は普通の高校二年生だ」とかいう耳タコなセリフに嫌悪感を感じている。
「平凡」「普通」「なんの変哲もない」「一般的な」「平和な」「よくいる」「高校生」こういう言葉が好きじゃない。正しい使い方をしている分には構わない。だが、物語の主人公にこれほど似合わない言葉はないと思っている。
主人公とは憧れたり、共感できるものだ。しかし、この「普通」という言葉は主人公の後者の性質を強制的に読者に受け入れさせようとしている。そしてこういうこと言っている奴らほど、超能力とかチートステータスがあたかも「おまけ」のようについてくる。例えば「特に趣味はない」とか言うのにコンピューター知識に博学過ぎたり、青春を毛嫌いしているやつほどリア充など矛盾したことが多すぎると思う。こんな文章書く僕よりよっぽど特殊じゃないか。
「普通」であることを表現することは何一つ構わない。『君の膵臓を食べたい』みたいに普通であることで物語を面白くするのもいい。ただ、すべてを一つの言葉で片付けようとする態度に、僕は憤りを感じている。
なぜ、自分は取る足らない人間であるのだろう? 周囲に否定されたから? 特別な才能がないから普通なのか? 帰宅部だからなんの変哲もないのか?
はっきり言わせてもらうとこれらは全く関係がない。しかし、あの「普通」という言葉は、そこにある(あった)であろう特別さをすべて排除し、のっぺりとした面白みがないものへと変えてしまう。ほくろの位置ですら、その人の属性になるというのに、それらをすべてなかったことにしてしまう恐ろしさがある。
僕は人を覚える際に、その人の特徴を考える。その人の髪の毛、顔、名前、身長、身振り、服装、雰囲気など、例を挙げればきりがない。これらが複雑に組み合わさることで、外見的アイデンティティが確立されるのだ。森鴎外の『高瀬舟』なんて面白い。
「只喜助が弟殺しの罪人だと云ふことだけを聞いてゐた。さて牢屋敷から棧橋まで連れて來る間、この痩肉やせじしの、色の蒼白い喜助の樣子を見るに、いかにも神妙に、いかにもおとなしく、自分をば公儀の役人として敬つて、何事につけても逆はぬやうにしてゐる。しかもそれが、罪人の間に往々見受けるやうな、温順を裝つて權勢に媚びる態度ではない。」
(著作権が切れ、ネットで簡単に読めるのでぜひ一読してほしい)
ここであえて罪人の「普通」の様子と完全に真逆の描写をすることで、この喜助という男の異常な様子が分かるだろうか? 物語を読み進めば分かるだろうが、むしろこの喜助という男は善意に満ち溢れた人で、病気に苦しむ弟を助けるために安楽死を促進したのだ。森鴎外の喜助の紹介の仕方は、我々読者に「なぜこの男が普通じゃないのか?」という極めて原始的な問いを持たせながら、物語へと引き込ませるのだ。
単純な「なぜ」こそが読者を物語へ吸い込ませる簡単な仕組みであるというのに、なぜ「普通」という言葉を使ってわざわざ難しくするのだろう?
普通という言葉には何一つ特別性はない。読者も疑問を持たないから、その人物についてあまり詮索しようとしない。人間は首を突っ込みたがる、知識や情報を求め続けるどうしようもない生き物だから、相手を軽く刺激してやればいい。英語のレポートでは、イントロダクション内の読み手に興味を持たせる文を「Hook」と言って、読んで字がごとく、読み手を引っ掛けるのが目的である。なぜ文字数の制限がない小説でやらないのかという話である。
誰も物語の主人公が普通でならなければならないとは言っていない。別に本当に普通であっても、ひと手間を加えてやればいいのだ。材料をそのまま出すんじゃなくて、何か足してやればいいのだ。その料理が美味かろうが不味かろうが関係なく、その時点で調理は完了している。例えば好きな音楽をテクノやカントリーにするだけでも、人としての個性が一つ誕生する。アニメ好きやアイドル好きも個性だ。スポーツが好きでも、スポーツ観戦が好きでも、両方でもいいじゃないか。こんな簡単なことで、その人物は生き生きとしているように見えてくる。
あえて不味くするのもありかもしれない。物語には時々大っ嫌いな奴が出てくる。(とりあえずここで普通の話は置いておく)なぜ大嫌いなのかを考えると、そいつがとてつもなく嫌な奴だからだ。太宰治の『人間失格』の主人公はこれでもかというほど人間として堕落している。だが、その堕落した様子がむしろ面白く感じて、次はどうなるのだろうかという期待を読み手与えるのだ。もしかしたらよくなるかもしれないという希望を持たせながら、とことん裏切っていく物語の進行に、僕は舌を巻かされるばかりである。
気づいたかもしれないが、悪役を悪役らしく描写するためにはそのような表現の仕方が必要である。敵が「普通」あって何が面白いだろうか? 普通じゃないものを書け。僕はそう言おう。少しでいい。ちょっぴり自分に似せてみたり、嫌いなクラスメイトに似せたりするだけで、その悪役は「特別」になるのだ。
思えばこの国は「特別」であることを忌み嫌う習慣があるかもしれない。「出る杭は打たれる」って言うし、何かとルールやテンプレにこだわりたがる。少々ステレオタイプかもしれないがスカートの丈を定規持って調べるのは正直言ってバカじゃないかと思う。間違いを指摘されることを恥とする習慣がある。無知を馬鹿と称し、周りと少し違うだけでイキってると貶す。この文章を読みながら「イキってるのはお前だ」と思っているかもしれない。僕は別にそんなことを言われても大丈夫だし、この思想を正しく共有できる環境にいる。ただはっきり言わせてもらえば、小説を書くのに何一つルールや法律は存在していないということだ。だから僕は自分の持つ権利を最大限に使ってこの文章を書いている。異論は認めるし、理解はしようと試みる。ただ、僕が分かることはないと思う。
いじめの標的にされない処世術のため「普通」を装っていたのかもしれない。だけど、大人になって普通なことはひどく退屈で実際の就職活動になんも役に立たないと言っておこう。僕が思う本当に普通な奴は、見ただけで忘れそうな顔をしてて、最低限の受け答えしかしない機械のような人間だ。君が思っている普通とは違うかもしれない。だけど、僕にとっての普通は「何も特徴がない人物」だ。道端に転がっている小石と同じで見てもすぐに脳内にそこに居たことすら忘れてしまうような人だと思う。決して人権侵害をするつもりはないけど、具体的に言うとすればそういう風に僕は考える。
結構辛辣な批判を書いたと思う。納得したかもしれないし、僕のことを嫌いになったかもしれない。僕としては分かってもらえる前提で書いてるわけじゃないし、流行の波というテンプレ化しやすい日本では完全に否定することは不可能だと思う。あくまでこういう手段もあるのかという風に受け取ってほしい。
最後にもう一回言おう。僕は「普通」が大嫌いだ。
せめて「普通」と書くならば、何がどう普通なのか教えてくれ。
「蜘蛛ですが、なにか?」の322話くらい、普通であることの意義を読み手に伝えてほしい。