表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王女は死神となりて  作者: 由岐
第2章 花と海と二人の少女
4/45

1.男と少女

 さらさらと心地の良い、穏やかなせせらぎが聴こえる。


「ごきげんよう。お嬢さん」


 その声に、ゆっくりとまぶたを開く。

 少女の目に飛び込んできたその光景は、まるで春の素晴らしさをこれでもかと詰め込んだかのようだった。

 色とりどりの花が咲き乱れる草原に、小魚が泳ぐ穏やかな小川。

 青空を飛び歌う小鳥達。

 暖かな陽の光、そして命の息吹。

 そんな空間に、一人の男と少女だけが居た。


「あなたは……?」


 少女の問いに、無精髭を生やした和服の男はにんまりと微笑んで言った。


「んふふ、誰だろうねー?」


 まともに返答する様子が見られない。

 すると、少女は眉根にしわを寄せた。


「……答える気はないのね」

「いやいや、名乗れないのには事情があるんだよ。おじさんはね、君にお願い事をしたいんだ」

「そんなことより、私はあなたの名前をきいているのよ! まあ、礼儀としてまずは私から名乗りましょう。私の名は──」


 そこで、少女の言葉がつっかえた。

 何度も、何年間も当たり前に口にしてきた言葉が出て来ない。


 ──私の名前は……何だった?


 自分の名前がわからないだなんてありえない。

 背筋が凍るような、頭が真っ白になるような、言いようのない焦りが這い寄ってきた。

 何かとんでもないことが起きている。そう直感した途端、嫌な汗が顔を伝った。


「……おじさんもね、君と同じで自分の名前が思い出せないんだよ」


 眉を下げてそう言った男は、花を潰してしまわないように、草原に腰を下ろした。

 少女は立ち尽くしたまま、動けないでいる。


「ここ、景色も良いし空気も美味いし、良いとこでしょ? だけどね、いつもおじさんはここでひとりぼっちなんだ。君みたいにたまーにふらっとやって来る人とか、魔物なんかも来るんだけどさ。ここにずっと居るのはおじさんだけなんだ」


 男は続ける。


「ほとんどの人はおじさんの話を聞かないで、あの橋を渡って行ってしまうのさ」


 川に架かる小さな橋を指差して、男は少し寂しそうな声色でそう言った。

 少女は何故か、あの橋に近付くのが怖かった。あれには己が近寄ってはいけない、何か大きな力が働いているように感じたからだ。


「……ここは、何なの?」

「未来への花園……とでもいうのかな。おじさんはここで、君のような子にいつも同じことを尋ねてる」


 男はじっと、少女の顔を見上げた。

 男の目には、まだこの場所への戸惑いが隠せない少女が、まるでひとりぼっちの子猫のように写っていた。

 大切に扱ってやらねば壊れてしまいそうな、そんな危うさを感じるのだ。


「君には何か、やり残したことはないかい?」

「私が……やり残したこと……?」

「思い出してごらん。どうしても、自分にはやらなければならなかったことがあるのか。強い意志の力があるのなら、思い出せるはずだよ」


 男に促され、少女は自分の胸に手をあて、深い意識の底を潜っていく。

 潜れば潜るほど、その身に纏わり付くような重い感情が明確になっていった。


「私は……そう、誰かを……とても強く憎んでいて……」

「憎んで、どうしたかった?」

「……殺したかった。その誰かが、とんでもない極悪人だったから」

「今でもその人を憎んでる? 殺してしまいたいと……そう、強く思ってる?」

「……ええ。そうしなければ、これから先も多くの命が犠牲になるの。そして、私の憎しみが晴れることもないでしょう」

「それが、君の意志なんだね」


 少女は、重く頷いた。


「おじさんなら、君の意志を成し遂げる力を与えられる。その代わりに、おじさんのお願い事を叶えてほしいんだ」


 男は立ち上がると、懐から卵のように丸い、乳白色の石を取り出した。海辺に流れ着いたガラス玉のような、独特の手触りだ。


「おじさんのもう半分を、見つけ出してほしい」

「……どういうこと?」

「君の場合なら、おじさんが力を与えれば全てを取り戻せる。だけど、おじさんは違う。おじさんの半分は、随分昔に無くしてしまったからね。それを、取り戻したいんだ。この石があれば、きっとそれがある場所まで導いてくれるから」


 意識の奥底で沈んでいた、重苦しい憎悪の念。

 それを晴らすには、この男の願いを叶えると約束する必要がある。


「……お願いしても、良いかな?」


 ──私の願いと、彼の願い。そのどちらも叶えるためには……


「……引き受けましょう。必ず私が、あなたの半分を見付け出すわ」

「ありがとう。そう言ってくれて、本当に嬉しいよ」


 男から石を受け取り、少女は小さく笑んだ。


「……そろそろお別れの時間だね。向こうに洞窟があるのがわかるかい? あそこを抜ければ、君はここから出られるよ」

「あなたは行かないの? またここで、一人きりになってしまうのに……」

「おじさんはまだ、ここを出られないのさ。君がもう半分を見つけてくれるまでは、ね。だから君は、もう行かないと」


 ほんの短い間だったが、この男に悪い印象は抱かなかった。

 だからこそ、そんな彼の願いを叶えてやりたいと、少女は思ったのだった。


「歩き出したら、決して振り返ってはいけないよ。もしも振り返ってしまったら、君は問答無用で向こう岸へ渡らなければならないからね」


 そう告げた男の表情は、ただただ真剣だった。


「肝に銘じておくわ」

「また会おうね。この先、驚くことや辛いことも沢山あるだろう。だけど、おじさんは君を信じて、ここで待ってるからさ。いってらっしゃい、お嬢さん」


 その会話を最後に、少女は彼の忠告を守り、ただ真っ直ぐに洞窟へと向かった。

 暗いそこは、ひたすら長く続いていた。

 どれだけ歩いたのか、本当に前に進んでいるのかもわからないほど、ただ歩き続けた。

 それなのに疲れは一切感じない。

 そして──


「光……! もうすぐ出られるのね」


 暗さに慣れた目には、あまりに眩しすぎる光。

 洞窟から出た少女は、腕で目を覆った。



 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ