1.男と少女
さらさらと心地の良い、穏やかなせせらぎが聴こえる。
「ごきげんよう。お嬢さん」
その声に、ゆっくりとまぶたを開く。
少女の目に飛び込んできたその光景は、まるで春の素晴らしさをこれでもかと詰め込んだかのようだった。
色とりどりの花が咲き乱れる草原に、小魚が泳ぐ穏やかな小川。
青空を飛び歌う小鳥達。
暖かな陽の光、そして命の息吹。
そんな空間に、一人の男と少女だけが居た。
「あなたは……?」
少女の問いに、無精髭を生やした和服の男はにんまりと微笑んで言った。
「んふふ、誰だろうねー?」
まともに返答する様子が見られない。
すると、少女は眉根にしわを寄せた。
「……答える気はないのね」
「いやいや、名乗れないのには事情があるんだよ。おじさんはね、君にお願い事をしたいんだ」
「そんなことより、私はあなたの名前をきいているのよ! まあ、礼儀としてまずは私から名乗りましょう。私の名は──」
そこで、少女の言葉がつっかえた。
何度も、何年間も当たり前に口にしてきた言葉が出て来ない。
──私の名前は……何だった?
自分の名前がわからないだなんてありえない。
背筋が凍るような、頭が真っ白になるような、言いようのない焦りが這い寄ってきた。
何かとんでもないことが起きている。そう直感した途端、嫌な汗が顔を伝った。
「……おじさんもね、君と同じで自分の名前が思い出せないんだよ」
眉を下げてそう言った男は、花を潰してしまわないように、草原に腰を下ろした。
少女は立ち尽くしたまま、動けないでいる。
「ここ、景色も良いし空気も美味いし、良いとこでしょ? だけどね、いつもおじさんはここでひとりぼっちなんだ。君みたいにたまーにふらっとやって来る人とか、魔物なんかも来るんだけどさ。ここにずっと居るのはおじさんだけなんだ」
男は続ける。
「ほとんどの人はおじさんの話を聞かないで、あの橋を渡って行ってしまうのさ」
川に架かる小さな橋を指差して、男は少し寂しそうな声色でそう言った。
少女は何故か、あの橋に近付くのが怖かった。あれには己が近寄ってはいけない、何か大きな力が働いているように感じたからだ。
「……ここは、何なの?」
「未来への花園……とでもいうのかな。おじさんはここで、君のような子にいつも同じことを尋ねてる」
男はじっと、少女の顔を見上げた。
男の目には、まだこの場所への戸惑いが隠せない少女が、まるでひとりぼっちの子猫のように写っていた。
大切に扱ってやらねば壊れてしまいそうな、そんな危うさを感じるのだ。
「君には何か、やり残したことはないかい?」
「私が……やり残したこと……?」
「思い出してごらん。どうしても、自分にはやらなければならなかったことがあるのか。強い意志の力があるのなら、思い出せるはずだよ」
男に促され、少女は自分の胸に手をあて、深い意識の底を潜っていく。
潜れば潜るほど、その身に纏わり付くような重い感情が明確になっていった。
「私は……そう、誰かを……とても強く憎んでいて……」
「憎んで、どうしたかった?」
「……殺したかった。その誰かが、とんでもない極悪人だったから」
「今でもその人を憎んでる? 殺してしまいたいと……そう、強く思ってる?」
「……ええ。そうしなければ、これから先も多くの命が犠牲になるの。そして、私の憎しみが晴れることもないでしょう」
「それが、君の意志なんだね」
少女は、重く頷いた。
「おじさんなら、君の意志を成し遂げる力を与えられる。その代わりに、おじさんのお願い事を叶えてほしいんだ」
男は立ち上がると、懐から卵のように丸い、乳白色の石を取り出した。海辺に流れ着いたガラス玉のような、独特の手触りだ。
「おじさんのもう半分を、見つけ出してほしい」
「……どういうこと?」
「君の場合なら、おじさんが力を与えれば全てを取り戻せる。だけど、おじさんは違う。おじさんの半分は、随分昔に無くしてしまったからね。それを、取り戻したいんだ。この石があれば、きっとそれがある場所まで導いてくれるから」
意識の奥底で沈んでいた、重苦しい憎悪の念。
それを晴らすには、この男の願いを叶えると約束する必要がある。
「……お願いしても、良いかな?」
──私の願いと、彼の願い。そのどちらも叶えるためには……
「……引き受けましょう。必ず私が、あなたの半分を見付け出すわ」
「ありがとう。そう言ってくれて、本当に嬉しいよ」
男から石を受け取り、少女は小さく笑んだ。
「……そろそろお別れの時間だね。向こうに洞窟があるのがわかるかい? あそこを抜ければ、君はここから出られるよ」
「あなたは行かないの? またここで、一人きりになってしまうのに……」
「おじさんはまだ、ここを出られないのさ。君がもう半分を見つけてくれるまでは、ね。だから君は、もう行かないと」
ほんの短い間だったが、この男に悪い印象は抱かなかった。
だからこそ、そんな彼の願いを叶えてやりたいと、少女は思ったのだった。
「歩き出したら、決して振り返ってはいけないよ。もしも振り返ってしまったら、君は問答無用で向こう岸へ渡らなければならないからね」
そう告げた男の表情は、ただただ真剣だった。
「肝に銘じておくわ」
「また会おうね。この先、驚くことや辛いことも沢山あるだろう。だけど、おじさんは君を信じて、ここで待ってるからさ。いってらっしゃい、お嬢さん」
その会話を最後に、少女は彼の忠告を守り、ただ真っ直ぐに洞窟へと向かった。
暗いそこは、ひたすら長く続いていた。
どれだけ歩いたのか、本当に前に進んでいるのかもわからないほど、ただ歩き続けた。
それなのに疲れは一切感じない。
そして──
「光……! もうすぐ出られるのね」
暗さに慣れた目には、あまりに眩しすぎる光。
洞窟から出た少女は、腕で目を覆った。