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戦国鷲君伝  作者: ゆきまる
第一章 継承
4/30

初陣

 矢野城は金子城より小さい城だが当時としては珍しく平城としていた。城下は高い土塁で周辺を囲み、その土塁の向こうは堀かわりの小さな川が流れている。一種の要塞化した城が矢野城なわけである。城主矢野義綱は露丸の伯父に当たる。また、矢野家は遠州国人衆では一、二を争う福田家と並ぶ名家でもあったが福田家当主福田元信が逝去した後は矢野、金子、朝比奈の三大勢力が築かれつつあった。ちなみに露丸の実母は福田元信の娘にあたった。

「露丸よ、そろそろ元服してはどうかな?」

「私は城を持たぬただの童子です。そのような者に名など要りませぬ」

「しかし、幼名のままでは全軍の士気にも影響するばかりか、立派な大人としての威信も欠けることにもなる」

「………」

露丸はしばらく黙っていたがここにいる義綱と景成、家継の代理の葛良かつら忠平から相次いで説得され、元服することを決意した。葛良忠平は今でこそ家継に仕えているが以前は福田家の家臣であり、露丸のことをよく元信から聞かされいたので知っていた。紆余曲折を経て、徳村家に身を寄せている。翌日、質素ではあったが元服式を行い、名を父照政の一字を取って『玄十郎げんじゅうろう直政なおまさ』と改めた。本丸より眺めた城は歓喜に満ち溢れ、兵たちにも酒が振舞われた。一日中続いた宴の光は敵城となった金子城からも見えたらしい。

「あの空に映る光は何だと思う?」

義康が控えていた上野伊賀に聞いた。

「おそらく何かの準備を整えているかと思われます」

「何かの準備とな!?、お前の配下の忍びが侵入できなかったのか?」

「面目次第もございませぬ。どうやら、敵も忍びを雇ったらしく何者かはわかりませんがかなりの手練かと…」

現に数人の忍びが葬られている事実が伊賀の耳にも入っていた。

「そうか…、もはや猶予はないか…」

義康は決断した。しかし、決断するのが遅かったとも言えた。敵が篭る矢野城は難攻不落と名高き城でもあったからだ。翌朝、義康は軍の編成を行い、その数は三千程度で士気は盛んであったがこの編成には島田興房や大澤信蔵ら旧臣らも数多く含まれていた。天守には総大将となった鶴丸をはじめ一門の義康、義政、義兼の他、奥山邦継ら側近の姿があった。

「そうか…、知らせがきたか…」

義康が邦継からの知らせを受けた。金子露丸元服の儀が無事に済んだことは今川家中に知らせの馬が走った。

「忍びを雇い、元服も済ませたとは…。く、悔しい!!!」

義姫は悔しがった。すでに双方の戦いが始まっているのだ。先手を取られたと悟った義姫は弟義康に言い放つ。

「すぐに露丸を攻めるのじゃ!。そして、首を持って参れ!」

義姫の物凄い形相に義康も臆したが攻める段取りはできていた。まず、鶴丸と義姫を守るため、弟義兼と兵五百を金子城に待機させ、義康は義政を先鋒に千の兵を率いて街道を進んだ。また、参謀には邦継を起用し、同じく千の兵をもって間道を進み、後方には五百の兵で興房、大澤の両名を配した。矢野軍二千が金子城より出陣したのである。この知らせはすでに直政のもとへ届いていた。矢野城にいる兵は五百にも満たない。

「さて、直政よ、どうする?」

初陣を飾る直政の第一声を待つかのように義綱が言った。

「………」

しばらく黙っていたが意を決したかのように口を開く。

「本来なら籠城して援軍を待つところですが戦いになれば城下の民を巻き込むことになる」

「ならば、どうしますか?。何か策がない限り、籠城が一の策となりますが…」

「全ての民を城へ入れられぬか?」

直政は義綱に聞いた。

「それは城の規模を考えても無理というもの」

「あいわかりました。左馬介、あれはできているな」

「はっ、すでに」

忍び装束ではなく具足に身を包んだ左馬介が答える。

「では、あれに旗をつけて土塁の上に立たせよ。そして、木盾を置いて弓隊を伏せよ。間道には油をまいて合図があり次第、火を放て」

「では、直ちに」

左馬介が退ると景成が感心しながら言う。

「なるほど。地の利を生かした戦略ですな」

「しかし、それでは…」

義綱は絶句した。道に火を放つなど聞いたこともなかったが背筋に寒気を感じた。なぜなら、火の壁になるどころか焼け死ぬ可能性も孕んでいたからだ。

(こ奴…、正気なのか?)

疑うように顔を覗いている義綱に直政は冷静に言う。

「御爺上、この策、すでに敵の耳に入っているはず。無闇に殺すことはできませぬ。敵とはいえ父に仕えていた者なのですから」

この言葉を聞いて義綱は納得した。

(なるほど…、警告を発したというわけか…。敵にもすでに忍びがいることはわかっているらしいからな。万が一、道に入り込んだとしても周りに油の匂いが立ち込めていることを知れば退き揚げるということか…。なかなか考えたものじゃ)

ついで、忠平が聞く。

「では、残りはどうなります?」

「川に杭を打ち込み、馬の渡河を防ぐ。これは左馬介がすでに行っているので問題はない。十分に足止めはできるだろう。そのうちに朱鷺田、諏訪原の両城に急使を送れ」

早い行動に忠平は驚かされた。

(まだ二十にも満たない若造がここまで考えるとは凄すぎる。この者、きっと大きくなられるぞ。殿以上に…)

殿とは家継のことではない。死した主君福田元信のことである。

「では配置を決めよう」

配置は城下を囲む土塁に左馬介率いる忍び三十と景成率いる弓隊百を置き、四箇所に急遽物見櫓を建てた。城の配置は城の正面に位置する多聞丸に忠平率いる弓・槍隊百五十、義綱の子で唯一、直政派に属した矢野義時率いる足軽隊百は二の丸、本陣は本丸に置き、城下への侵入を防ぐため、貴房の兄である達房たちふさに足軽隊五十を与えて警戒に当たらせた。そして、城の抜け道から二人の急使が密かに朱鷺田、諏訪原に走ったのは言うまでもない。

 配置が終わってまもなくして…、

「直政、敵は正面の山麓に布陣した模様じゃな。旗の数からして千というところだな」

と具足に身を包んだ義綱が言った。

「左馬介の情報では千五百と聞く。残りは興房殿であろう。義康め、旧臣をも取り込んだか」

左馬介が駆け寄る。

「申し上げます、奥山勢が間道を通って参りましたが殺りますか?」

「来たか…。智謀に長ける奥山のことだから疑うと思ったが…」

直政は深刻な表情をした。邦継の智謀など所詮、その程度のものとなる。

「やるのか?」

悩む直政に義綱が声をかける。

「やむ得んか…、任せる」

「はっ」

左馬介が下がると義綱が口を開く。

「邦継は馬鹿じゃないのか?、罠があるか疑ってもよいだろうに…」

「………」

直政は邦継の末路を天守より見つめた。突如、間道より炎があがったのである。炎は間道をどころか間道の左右を囲む森にも広がったのだ。真っ赤に染まった光景が双方の陣から見えた。炎に包まれた間道は逃げ惑う奥山勢たちで溢れ、阿鼻叫喚の壮絶な状況に覆われたという。軍勢を指揮した邦継は間道の入り口に達しようとしていたため、炎からは辛くも逃れることができたが側近を含め、留守を守る者を除く全ての兵が死傷した形となった。また、この火計の恐怖で逃げる兵が続出したとの知らせも直政の耳に入った。そして、この知らせは義康のもとへも届いていた。

「直政とは一体何者ぞ!?」

奥山勢を全滅寸前にまで追い込んだ炎に義康は驚き恐怖したという。半日も経たないうちに矢野軍は大打撃を受けていることには違いなかった。義康は他にも罠が仕掛けられていると判断し、傍らに控えていた上野伊賀に言う。

「伊賀よ、内部より火を放て。それに呼応して我らも動く」

「はっ」

伊賀の行動は素早かった。左馬介に遅れを取っているとはいえさすがは忍びである。すぐさま、配下の忍びを集めると警戒の手薄なところから侵入した。しかし、左馬介もまた簡単に侵入を許すほど馬鹿ではない。

「来たか、迎え討つぞ」

左馬介率いる忍び三十のうち、十を土塁に残し、残りは伊賀を迎え討つため、城下に入った。すでに城下では左馬介の知らせを受けた達房が各所に関所を築き、検分を行っていたが忍者にとって変装はお手のものである。矢野忍軍は関所を軽々と突破し城を目指す。それでも、左馬介と伊賀の駆け引きはすでに決着が着いていた。左馬介の巧みな策で伊賀の忍びは次々とその姿を消すか、返り討ちに遭い、五十もの忍びのうち大半を失った。城に行きたくも亀井忍軍がこれを防ぎ、退きたくても土塁が逃げ道を塞いでいた。それでも、突破口はすぐに見つかった。事もあろうに達房が軍勢を率いて駆けつけてきたのだ。達房が率いているのは農兵が多い。正規の軍ではないため、強さがあまりにも違う。伊賀らは農兵に突入し、あっという間に囲みを突破してしまったのだ。直政は天守にて達房の報告を受けた。

「呆れて物が言えぬわ!。農兵はほとんど素人に近い。しかも、此度の戦ではほとんど訓練もされておらず士気も低かったことはお前も知っていたはず。それを忍び相手に使うとは何たることか!?」

義綱は激怒した。直政はそれを制して言う。

「負傷者はいるのか?」

「はっ、配下の家臣が十人程と農兵が二十六でごさいます」

「命を失った者は?」

「それは運良く」

達房は恐れながら言った。

「御爺上、相手が兵ならば互角でしたな」

と微笑しながら言った。しかし、義綱は怒りが収まらない。

「笑い事ではござらん!。農兵とはいえ我が軍の足軽にござる」

このままでは達房を斬りかねないと判断した直政は、

「達房、この件については戦が終わってからにしよう。次なる戦で汚名を返上致せ」

「ははっ」

達房は深々と頭を下げて退がった。

「直政は甘すぎる。兵を自分の道具だと思っているのではないのか?、彼奴は…」

義綱は怒りの矛先を直政に向けた。

「御爺上はいつからそのように血の気が多くなったのですか?。無闇に人を殺さないのが御爺上の良きところだったはず」

義綱は痛いところを突かれたと気づき、勢いを収める。

「…しかし、手傷を負った者たちは我が城下の者、黙っていることはできぬ」

「今は戦なのです。被害を最小限に食い止める事こそが指揮する武将の役目なのです」

「…たしかに…」

「達房の行為が悪ならば義康はどうなるのです?」

「………」

「御爺上は身内が起こすもめ事には関与せず、他家の者が失敗すれば斬り捨てる。これではあまりにも比が大きすぎるのではありませんか?」

「………」

「私がこの城を頼ったのは御爺上の性格を考えての事。これ以上の暴挙に出るならば直ちにこの城を出る」

直政は吐き捨てるようにして言い放った。義綱はしばらく黙っていたが直政の言葉に納得したのか前言を撤回した。

「お前の言う通りだ。無益に人を殺す、そんな考えを持つのは人に非ず。鬼畜にも劣る愚問なり。わしが悪かった。許せ」

義綱は年が五十も離れた若者に深々と頭を下げたのである。

「頭をあげてください、もう済んだことです。それよりも今は戦に集中しましょう」

「うむ、そうだな」

二人は天守より敵陣を見つめた。

 その日の夜、直政は天守の最上層から敵陣を見つめていた。

「どう動く?、義康よ…」

火計を警戒して無闇に陣から動くことはないと判断した直政は未だ動かない援軍に苛立ちを覚えた。そこで直政自ら説得する策を義綱に伝えると義綱もこれに応じた。

「ここは何とか死守してみせよう。伊達に長生きはしとらんからな」

義綱の士気は盛んのようだ。さらに、

「元盛、いるか?」

「はっ」

義綱は家臣の倉田元盛を呼んだ。元盛は先の織田家との合戦で右眼を失ったものの、武人としての影響力は大きく、義康ですら一目を置く人物でもある。

「これよりお前は直政に従い、共に行動せよ」

「はっ」

元盛は主君の命を受けて直政に敬服する。

「何から何までかたじけのうござる」

直政は血のつながりのない祖父義綱に感謝した。直政はその日のうちに景成、忠平、左馬介ら数騎を率いて隣の朱鷺田城に移った。義康勢に知られぬよう警戒した上のことである。直政らを迎えた朱鷺田城主朱鷺田忠政は父の腹心で家老を務めていた人物でもある。そんな忠政にも忍びがいた。名は利十りじゅうといい、伊賀の出である。無論、左馬介のことは知っていた。

「話しは利十から聞いている。しかし、義康は持久戦を選択したそうだ」

「火計が通じたのでしょう」

直政の心は痛んだ。そこで話題を変えた。

「忠政殿、私は元服を致しました。これも知っておられますか?」

直政としては半日だけの戦いであったが多くの犠牲を被ったことを罪としていたからだ。

(家を二つに分けてはならぬ)

この戦いが長引くようなことがあれば家は確実に2つに割れてしまう。そうなってしまえば勢力の弱体化は免れない。直政はそう判断した。

「………おる。これも利十から聞いた。直政と言ったかな」

最初のほうは聞いていなかったが忠政には確かに忍びがいるようだ。

「利十殿は良い主君を持たれた」

直政は忠政の人徳をよく知っていたのでこの言葉が自然と飛び出たのだ。忠政が利十を呼ぶと直政も左馬介を呼んだ。利十は以前に左馬介と組んでいたときがあったという。

「久しいな。また会えるとは思わなかったがお主を敵に回したくはないな」

と利十が語れば、

「いやいや、そんなことはあるまい」

と左馬介も穏やかな表情で応じたが内心はお互いの実力を見極めようと一手一手探りを入れていたのであるが直政と忠政にはわからなかった。

「ところで忠政殿、今、この朱鷺田と諏訪原、併せて如何ほどの兵がありますまいか?」

直政が聞くと忠政は嫡子忠勝を呼び寄せた。忠勝は侍大将の位にあった。

「我が軍の兵数は募兵を入れて千五百程にござる。うち、騎馬は二百、足軽八百、弓隊が五百というところです。戦いはいつでもできるよう準備は整っています。また、諏訪原のほうはここより少し多い二千程との事。掛川の兵も併せれば十分、本城を奪還できまする」

先崎十左衛門と並ぶ武の持ち主である忠勝は早く戦がやりたくて仕方ないといった感じで話した。その姿を見て苦笑した忠政は、

「一両日中に準備を整えておけ」

と命じた。すると、忠勝の表情は明らかに歓喜に変わった。父の許しを得たのは初陣以来になる。初陣はくしくも矢野家臣であった宮琵疼斎みやびとうさいが農民と組して『天下泰平党』と名乗り、国人衆の城下や村落を荒らし、遠州北部に勢力を築いていた森長政を味方に反乱を起こした。宮琵・森連合軍は要衝高天神を攻めたが今川家の先鋒となっていた金子照政に破れて敗走した。長政は辛くも城に逃れることができたが疼斎は忠勝の手によって捕らえられ、駿府に護送されたのである。その後の疼斎はその多彩なる謀略の知識を買われて義元に側近として迎えられたという.。忠勝が部屋を退出すると直政が口を開く。

「掛川は兵を出さないでしょう。因縁がありますからね。例え、出したとしても多くを期待できません」

掛川城主朝比奈泰能とは宮琵の一件以来、不仲となっている。ほとんど逆恨みなのだが全ての戦功を持って行かれたと思っているためだ。

「そうですな。あの御方に期待しても無理な話し。ならば、義康が矢野を攻めている後ろを突いてはどうか?」

「本城を攻めよと?」

「如何にも」

直政は少し考えた後、口を開く。

「無理ですね。そのことは義康が一番よくわかっているはずです。堅固な城の上に幾重の罠が仕掛けられているはずです」

二人は顔を見合わせた。二人の後ろにはそれぞれ左馬介と利十が控えている。まるで命を待っているかのように…。まず、直政が言う。

「双方とも金子城に潜入できるか?」

二人は同時に頷いた。

「三日以内に我らが金子城の大外丸を中心に攻め入る。おそらく、二の丸の手前まで行けるだろうが攻めるまでに城の図面を用意してもらいたい。これは利十に一任する。それと内部に何人か潜入させておくよう。左馬介には密かに城門の閂を壊してもらすと共に武器庫に火を放て」

策を述べられると左馬介が即答する。続いて、利十が言う。

「すでに普請後の図面があります。配下の者も城内にまぎれ込ませています」

と、直政の言葉を先読みしたかのような発言だった。これには直政も驚かされた。そして、直政は利十が持ってきた図面を見る。

「櫓が邪魔しているな」

城の死角は全て櫓によって失われていることに気づいたからだ。これを何とかしなければ城の陥落はありえない。

「火を放ちましょうか?」

利十が聞くと直政が応じた。

「そうだな、それしか方法はなさそうだ。頼む」

「はっ」

「それと…」

直政の言葉の動きが止まる。考えに迷いが生じているようだ。忠政は直政の悩みが何であるかすでに読んでいた。年の功というやつだ。

「どうした?、これができるのは忍びをおいて他にはない」

利十も左馬介もわかっているようだった。

「わかりました。これも世の常でしょう」

直政は忠政の後押しを得て利十に命じる。

「弟を暗殺してもらいたい」

直政は暗殺という策は嫌いだったが今の自軍のことを考えればやむなしの判断だった。まだ幼少の弟を殺したくなかったがこれも戦国という時代の運命なのか…。直政の言葉を聞いた利十は静かに頷くと左馬介と共に退がった。

「やむ得ぬことだな。今の鶴丸の存在は矢野にとってあまりにも絶大過ぎる」

忠政も静かに言う。

「…そうですね…」

直政もまたしみじみと言う。

「戦国の世に情は禁物ですぞ」

「わかっています」

直政は次なる一手を打つため、新たなる戦いの場へ足を踏み出した。

 その日の夜、均衡が破られた。金子城から火の手が上がったのである。兵たちは混乱に陥った。火の手は武器庫、米蔵をはじめ南口丸と二の丸に続く天照門を守護する泉明櫓にも広がった。火薬を使っているのかところどころで爆発も起きている。また、城内に敵襲の噂が流れ、これに内応する者が城の井戸に毒を入れたとの噂も共に流れた。これは左馬介が城に潜入した配下に命じて行わせたものであったが効果は絶大だった。城中で左馬介が暴れている間に利十は十人の忍びを率いて天守に向かった。当然のことながら矢野忍軍がその行く手を阻むが左馬介配下の吉野時蔵率いる別働隊が現れて敵を引きつける。時蔵は亀井忍軍の副棟梁を務める忍びだ。利十はその隙に真っ直ぐ天守に潜入した。そこに本丸を守る足軽隊が現れるが城中の混乱で浮き足立っている足軽など利十の敵ではない。疾走の如くの素早さでこれを突破した。

 一方、城中に突如湧きあがった火の手を目にした義姫は怒りに満ちていた。

「おのれ~~~、露丸めが!。我が城を一夜にして落とす気か!?。義兼、何をしておる!、早く火を消さぬか!!!」

「ははっ」

義兼は急ぎ義姫の前を去る。義姫の怒りは絶頂に達しようとしていた。義康の矢野城攻めがうまくいっていないのもその一因になっていたのだが天守をも揺るがす大きな爆発音が響き渡った。

「な、何事ですか!?」

と大声で叫ぶと小姓が駆け寄る。

「申し上げます、武器庫に保管してあった火薬が爆発して二の丸は壊滅状態に陥っております。もはや、火を消しとめるのは不可能」

顔面蒼白になる小姓に対し、義姫は真っ赤の顔となる。

「この返しは必ず…」

雪辱を誓う義姫は畳を何度も踏みつけた。そんな中、もう一つの戦いが天守内で起きていた。天守に潜入した利十だったが今度は手練揃いの上野伊賀と対峙したのだ。敵の数は数倍もあったが善戦していた。

「利十か…、まだ生きていたとは…、久しぶりに会ったがこれも運命と思って我にその命を渡せ」

伊賀は殺気を放ちながら言い放つが利十は直刀と呼ばれる忍者刀を構えて動じなかった。すると、他方より利十に向けて手裏剣が投げつけられる。しかし、利十はそれを読んでいたかのようにひらりとかわすと向かってきた三人の忍びを斬り捨てた。そこへ一瞬の隙を突いて伊賀が背後より襲った。背中を刺されたものの、利十は怯むことなく伊賀の片腕を獲った。共に深手を負ったが勢いは伊賀にあり、暗殺は断念する他に方法はなかった。

「不覚…」

そう心に思いつつ城を去った。左馬介もまた二、三の傷を負いながらも全ての城門の閂を壊した上で自分の配下と利十の配下を纏めて朱鷺田城に引き揚げることに成功した。

 …未明、直政は単身利十の屋敷を訪れた。屋敷は城の一角にあった。足軽に扮して警備していた忍びたちを驚かせた。小さな物を持参している。

「しばしお待ちを」

忍びの一人がその場に留まらせて利十の寝所に赴いた。そして、戸越しに言う。

「直政様が参られております」

「そうか…、失礼の無きように」

利十の言葉を受けて忍びは直政を寝所に導いた。中には左馬介もいる。左馬介もまた利十の容態を心配して駆けつけていたのだ。左馬介は平伏し、利十も一礼する。

「わざわざ恐縮に存じます。此度の戦いは私が伊賀に油断したため失敗しまいました。忍びに失敗は死同然にござる。どうか許されたい」

「忍びとはそこまで諦めの早い者たちなのか?。此度の策を出したのは私だ、私にも責任がある。お主に傷を負わせた責任が私にもある以上、簡単に死を口にするものではない。しかも、お前の主君は私ではなく、忠政殿であろう。その主君を見捨てて先に死することは許されぬ。お主が死ぬと申すならば私もこの場で腹を斬ろう」

直政がそう言った途端、死を覚悟していた利十の表情が変わり、左馬介も驚きを隠せない。

「若、無闇に死ぬなどと言わないで頂きたい」

左馬介が諌めると、

「直政様は金子の家を継がねばならぬ身。私ごときのためにそのようなことを…」

利十は感涙のあまり、両手で顔を覆った。白の包帯に包まれた傷口からはわずかに血が滲んでいる。側に控えていたくの一が包帯を替えた。直政は今の今までくの一がいるこに気づいていなかった。

「利十よ、人間、死するときはいつでも死ねる。だがな、それは全てを果たしてからでもよいだろう。誰も文句は言うまい。文句を言う者があれば私が相手をしてやるぞ。此度の戦いも敵は片腕を失ったと聞く。お主は無勢ながら善戦した。良いところを挙げればいくつも出てくるだろう。人間五十というが私とて支えてくれる者がいなければいつ死ぬかわからぬ。利十よ、ここからは私の独り言と思って聞いて欲しい。お主には朱鷺田忠政という主君がいる。左馬介にも私がいる。主のために死するのであればそのような戯言が申せるが他人のために死することはない。今回は失敗ではない。お主の働きは大きい。後で褒美を取らす故、傷が癒えたら私のところに来るがいい」

直政は小さな木箱を取り出しながら続ける。

「これは我が家に伝わる秘薬だ。傷にはよく効くという。使うといい」

「あり難き幸せに存じまする」

「利十、必ず来いよ。待っているぞ」

直政は木箱を手渡すとその場を辞した。そして、その足で二の丸にある屋敷に向かう。この屋敷は元々、朱鷺田家臣小山信十郎の屋敷だったが病死し、後継ぎがなかったため放置されていたのを直政が借りたのだった。ここには景成、忠平、達房らが住みこんでいる。二の丸に屋敷を構えるだけあって信任が厚かったのだろう。中も結構広い。直政が戻ると奥から景成が姿を現した。

「まだ起きていたのか?」

「はっ、どうでございました?」

「うむ、あれなら大丈夫だろう。常人ならひと月は要するだろうが鍛え上げた利十ならばひと月もいるまい」

「それはようございました」

「で、城のほうはどうであった?」

「はっ、かなりの騒ぎになっております。義康は戻っていませんが邦継が帰城致しました。ただ、その邦継の姿を見て義姫はさらに激怒したと」

「ははは…、そうだろうな。少し惨い気もするが半数以上が重傷という事態に怒らぬほうがおかしい」

「義姫はいずれ忠臣を失うかもしれませんな」

「もう離れつつあるだろうな。野望欲望の多きは犠牲をも大きくする」

「ところで十左衛門殿が参っています」

「いつ来た?」

「つい先ほど。来るなり鼾をかいていますが」

「わははは…、彼奴らしいな。しばらくすれば起きてくるだろう。彼奴は人の気配を感じるのがうまいからな」

直政の言葉に景成は苦笑した。あれだけよく寝入っている者が起きてくるのはおかしいと思ったからだ。しかし、十左衛門は本当に起きてきた。これにはさすがに驚かされた景成だったが実は用を足しに来たらしい。直政の顔を見ると眠気を吹き飛ばしたかのように話しかけてきた。

「おお、若、お久しゅうございます。また暴れられたようですな。矢野の城を離れたと聞きましたときは驚きましたぞ」

「すまぬな、援軍の遅れが気になっていたのでな。諏訪原の動きはどうだ?」

「もうすでに動かれております。明日中にも着くでしょう」

「そうか、御爺上も義康相手に善戦していると聞く。これで形勢を逆転できれば言うことはない」

「そうですな」

「だが、義康の動きが気になる…。十左、今一度走ってもらえるか?。これをもって御爺上のもとへ」

「心得ました。敵に囲まれる前に城へ行きましょう」

「ん?、敵は兵を増やしたのか?」

左馬介からの知らせはなかった。このとき、左馬介は事実こそ確認していたが矢野忍軍の執拗な追手を振りきるのに苦戦を強いられていた。

「はっ、もともといた兵に邦継勢二百と城からの増援三百を得たとのこと」

十左衛門の言葉を受けて直政と景成は顔を見合わせて高く笑った。訳のわからない十左衛門はきょとんとしている。

「なるほどな。義康は矢野城を落として奪ってしまおうという魂胆か。おそらく、本城を捨てるつもりだろう。これはおもしろくなるぞ。私は忠政殿のもとへ行くが後は頼む」

と言い残して直政は忠政のもとへ向かった。

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