リライト
小腹がすいたので、駅構内のコンビニに入った。
この店は品揃えが豊富で、他では売っていないパンやサンドイッチもあり、出勤前に朝食を買っていく人で混み合っている。
ミウはポケットの小銭を鳴らして確かめ、お菓子売り場へ向かった。
ところが、いざ行ってみると、これといって心惹かれるものがない。チョコレートもビスケットも、スーパーでいつも見かけるパッケージばかりだ。新製品や珍しい味、たとえばクランベリーポテトや抹茶パインのようなものを期待していたのだが、当てが外れてしまった。
どうしようかとうろうろしていると、雑誌のコーナーにいた男が振り返り、あっと声を上げた。
「ミウちゃん! ミウちゃんじゃない?」
男は赤いジャージ姿で、目と眉がくっきりと濃い。誰だっけ、とミウは思う。書店でバイトをしていた時の先輩だったか、友達の友達、それとも近所の人だったかしら。
「久しぶりだなあ! 元気だった?」
「はい、おかげさまで」
ミウは曖昧にうなずいて言った。確かに見覚えのある顔なのだが、名前が思い出せない。お元気でしたか、とおうむ返しに尋ねる。
「こっちは変わりないよ。魚が四十匹もいると退屈しないね。ミウちゃんは今何してるの?」
「そうですねえ。ちょっと警察のお世話になったり、職場で陰湿ないじめに遭ったり、借金取りに追われて沖縄まで逃げたりしましたけど、それは私じゃなくて別の人だったので大丈夫です」
男の顔を見ていると、なぜだか勝手に言葉が出てくる。そんな人いたかな、と首をかしげるが、いたような気もする。
「そういえばこれ、ミウちゃんに渡そうと思って持ってきたんだよ」
男は鞄を開けて、薄くて大きな絵本を取り出した。紺色の表紙に、金銀の星が描かれている。
変なの、とミウは思った。まるで今日ここで会えるのがわかっていたような言い方だ。
それでもつい受け取ってしまう。体を温める宇宙人の食べ方、というタイトルに惹かれたのと、表紙がつるつるしていて綺麗だったからだ。
「つるつる……ってこれ、ブッカー? 図書館の本じゃないですか」
裏を見ると、バーコードラベルが貼ってある。突き返そうとすると、いいのいいの、と男は言った。
「ちっともよくないですよ。図書館の本は又貸ししちゃいけないんです。それに返却期限を守らないと」
「大丈夫だよ、読んだらすぐ俺に戻してくれればいいから。じゃあ」
「あ、ちょっと」
男はばたばたと行ってしまった。追いかけようとしたが、駅の人混みに紛れてもう見つからない。ミウは本を抱えたまま、一人で肩をすくめた。
家に帰り、本を開いてみた。外国の絵本のようで、文章に独特のリズムがある。絵は大きくて鮮やかだが、子どもに読み聞かせるには言葉がまどろっこしい感じもする。
「ふわふわとただよっている白身魚のような思い出たち、なんて変な表現ね」
内容はそれほど目新しいものではなかった。宇宙人の一家が、新しく越してきた町でいろいろ戸惑いつつも、元気に暮らしていくという話だ。食べ物の絵がとてもおいしそうに描かれていて、そのページだけは何度も読み返したくなった。
「あの人、どうして私にこの本を……」
最後まで読み終えて、あれっと思う。
〈ミウが見つけた話〉
本文が終わった後に、そう添えられていた。あの男が手書きで足したのか。いや、明らかにタイプされた文字だ。
一枚めくり、奥付を見る。そこにもミウの名前があった。作者や絵作家の名前の後に、フルネームで書いてある。ひえ、と思い、思わず本を閉じた。
わけもなく辺りを見回し、もう一度本を開いてみる。やっぱりミウの名前が書いてあった。
「何だろ、これ」
名前の上を指でなぞってみる。他の部分とは、わずかに手ざわりが違う。美容院やマッサージ店のポイントカードのような、リライト式の印字面に似ている。
「もしかして、読んだ人の名前がいちいち上書きされるのかな」
感心しつつも、絵本にそんな機能が必要だとは思えなかった。主人公の名前が自分の名前に書きかわるとか、町の名前を好きなものに変えられるとか、そういうゲーム的な楽しみがあるならともかく。
「それに……」
ミウは奥付の名前を眺めてつぶやいた。
「私の名前、未有じゃなくて未生なのに。肝心なところで間違ってるよ」
さっさとあの男に返してしまおうかと思ったが、彼がどこに住んでいるのか知らなかった。第一、名前すら思い出せないのだ。
そういえば、これは図書館の本だっけ。
裏表紙のバーコードを見ると、縞猫市立横耳図書館と書いてある。そんな場所、聞いたことがない。
「まあいいか」
他にどうしようもないし、しばらく持っていようと思った。またあの男に会ったら返せばいい。そうすれば、奥付の表記が彼の名前に変わるはずだ。
「名前って、どうしてこんなに気になっちゃうんだろ」
ミウは絵本を本棚にしまい、立ち上がった。スーパーで特価になっているチョコ菓子とスナックを買ってきて、遅めのティータイムにしよう。
ポケットの小銭を鳴らし、玄関を飛び出した。