私は、生きている?
これは、私の自伝的小説です。
私の過去と、こうであって欲しいと言う未来の話です。
1話目は、まだ本編に入っていません笑
長ーいプロローグといった感じです笑
私は現役学生をやっているので、更新がなかなかできないかもしれません。
それでも気長に待ってくださる方は読んでください!
君の声が聞きたい。
私は、君の声が聞きたいです。
私は、和泉家の長女として生まれました。
和泉 風音。それが、私の名前です。父と母からの、生まれて初めての贈り物です。
私の耳生まれつき聞こえません。
私はあたりを劈くような静寂と共に生まれてきたのです。それは、はっきりとうるさいとも、静かだとも取れぬような、静寂です。私には、「音」が聞こえます。「音」と言っては語弊があるかもしれません。近しいこたえとしては、「波」でしょうか?私には、波が聞こえます。流れる血液の音。どくん、どくんと重く響く心臓の音。私の身体を流れるあらゆる物の音。私が生きているという確かな証。生命の音。とても、落ち着く、優しく温かい、生命の音…
「高度感音性難聴」
それが私の一生にまとわりついてくる障害の名前でした。
母は、言いました。
「あなたには、聞こえる人と聞こえない人の架け橋になって欲しい。」
私が一生背負い続けることになるこの運命が
誰かの役に立つならば……
私には年が3つ離れた妹がいます。
彼女は私とは何もかも正反対で。
世間で俗にいう「いい子」の典型のような子です。成績は、オールAで、生徒会もやっていて、学級委員をやったことがない年はなく、先生のお気に入り。
お父さん、お母さん…
私は、生きてても良い人間だと思いますか?私は、生きていることであなたたちに迷惑しかかけているのではないですか?
他の人からしたら機械音にしか聞こえないかもしれない、あなたの声は私に優しく話しかけます。一度、0と1の文字列に変換されたあなたの言葉は、デジタルに変換されてしまったあなたの声は、決してデジタルではない心のこもった優しい想いを伝えてくれます。
「すべての言葉には魂がある。」
本当にそうだと思います。
それは、耳が聞こえないという特殊な環境にある私だから早く気づいたことです。
普通の人、いわゆる健聴者の人々は、一体どのくらいの人がこのことを本当の意味で知ったでしょうか?
耳の聞こえない人は、「耳が聞こえる」という環境をあまり好みません。
例えば朝、起きるとき。それまで心地よい静寂に包まれていた私のセカイに、どっと波のようにありとあらゆる音が押し寄せるのです。人工内耳を付けるとき、私は一瞬恐怖に襲われるのです。反対に、人工内耳を取るときは、安らかな気持ちになれます。
この世界は、あまりにもうるさすぎる。日々、喧騒に包まれたこの世界は、私には、いらないモノです。
健聴者が耳が聞こえなくなってしまったとき、大抵の人はすごい恐怖に襲われるそうですが、私にとって、それは不思議以外の何者でもありません。なにがそんなに怖いんだろう?なんでそんなに嫌がるのかな?と、思います。
彼らは、言います。自分たちが難聴になってしまったのは、とても不幸だ、と。
それでは、生まれつき難聴だったわたし達は生まれつき不幸だというのですか?
私は、そうは思いません。
たしかに、難聴だということは多くの不便が伴います。時には、生命の危険も孕みます。
だけど、確かな「自分のセカイ」を生まれつき持っている私たちを、それでも不幸だというのですか?世の中には、「自分が生きている」ということを確かめるために自傷行為をする人々がいます。
だけど、私たちはいつでも「生きている」事を実感できるのです。
私は、否、私たちは、不幸なんかではない!
毎日、毎日この世界で最も神秘的な、「生」の躍動を感じ、包まれる、最も幸せな人種なのだ!
その証拠に、私は、ほかの人々には聞こえない、聞こえるはずのない「声」を聞いている!
拙い私の分を読んでいただき、ありがとうございました!良ければ感想とかメッセージを頂けると、嬉しいです!!