/F_o_a_F/ (たぶん)友達のともだちから聞いたはずの不穏な話
夕暮れの巨影
_/2011年/東京都江戸川区/女性/25歳/無職/
その頃、C子さんは心身共に崖っぷちの状況に陥っていた。
外食産業大手の企業に就職したものの激務に体力と気力を保つことができなくなり、逃げ出すように退職したのが前年の12月。
ただでさえ弱っていたところへ、同棲していた彼氏が二人でこつこつ貯めた結婚資金を持ち逃げして突如失踪した。それがクリスマス当日だ。
「やっぱり夢を諦めきれない、とかそんな綺麗事、書き置き残してね。イブの日にベッドで臥せってる私にレアチーズケーキ作ってくれた、あのときにはもう逃げるつもりだったんだと思う。妙に優しくって。次の日、目が覚めたらいないわけ。通帳もカードもない。最悪。こんなみじめなクリスマスプレゼントってある? もうどうしていいかわかんなくなって」
もしかしたら彼が考えを改めて戻ってくるかもしれないという儚い希望を捨てきれず、一緒に暮らした賃貸マンションを引き払うことができなかった。
「そんなことあるわけないってほんとはわかってたはずなんだけど、仕事やめて、男に逃げられて、これ以上、今の状況を変えるってことがもう無理になってたんだと思う。体力的にも、精神的にも」
結婚資金の他はほとんど蓄えがなく、退職金も雀の涙。自己都合退職扱いなので失業保険が給付されるまで二ヶ月ちょっとは待たないといけない。給付までの期間、電気・ガス・水道料金あたりはなんとかなるが、携帯電話の通信費はかなりつらい。何よりも、彼氏と折半していた家賃の支払いは絶望的だ。一ヶ月分を払ったところでパンクしてしまう計算だった。
年が明け、体調はまだまだ低調だったものの、日々の糧を得るために近所のスーパーでパートタイマーを始めた。不安定な状態で飛び込んだ新しい職場の人間関係には只々疲れしか感じず、ストレスは雪だるま式に膨れあがっていく。
ある日、レジ打ちをしているときに客の老人がひどく驚いた顔でこちらを見ていた。隣のレーンのレジ打ちをしていた同僚のパート主婦に、引きずられるようにバックヤードへ連れ込まれる。あなた、どうしたの? なんで泣いてるの? そう問われて初めて、レジを打ちながら声を上げて泣いていたことに気づいた。
店長の指示で仕事は品出しだけを割り振られるようになった。パートの同僚たちからは居ないものとして扱われるようになった。
帰ってきて、スーパーの残り物の惣菜とカップスープで夕食を取る。その後は小さな音にしてテレビを見る。
深夜になるが、なかなか眠れない。そのまま朝になる。
白々と明けていく空を眺めているうちに、焦燥感と不安感が鎌首をもたげる。将来のことを考え、何も考えられなくなる。すべて失敗してしまった、という言葉だけが頭の中でリフレインする。異様な緊張感に襲われる。
「お医者さんに行って薬はもらったよ。眠れないからって。でもそれ飲むと今度は何もやる気が出なくて、家にいるときはずっと天井だけ見て過ごしてた」
一度、実家へでも帰って静養すべきだったのだろう。だが、そういう考えには至らなかった。思考がうまく回らなかったのだという。
やがて、身体が叛乱を始める。
髪が抜ける。今まではそんなことなかったのに、やたらとフケが出る。
歯がぐらぐらして歯茎から血が出る。煙草も吸っていないのに唾液が臭くなる。口内炎が複数できる。
残り物の惣菜の油に当たったのか、脇の下や内股に蕁麻疹が出て、それがずっと消えない。
胃が固形物を受け付けなくなる。薬を飲んでも二回に一回は嘔吐してしまう。胃が空っぽなのにげっぷが出る。
いつの間にかすべての爪に縦線が入っている。
変な痩せ方をする。
生理が止まる。
そして3月11日が来る。
その日の午後、C子さんはいつものようにスーパーで品出しをしていた。即席麺のコーナーで最下段の補充を終え、立ち上がったときに目眩を感じた。思わず棚に手を付く。それでも目眩は収まらず、立っているのも困難なほどになる。棚から袋麺やカップ麺が飛び出してきて床に散らばり、ほどなく棚自体が倒れてきて店内のそこかしこから悲鳴が聞こえたあたりで、やっと目眩ではなく地震だということに気づいた。それもとても大きく、長い地震だと。
混乱しながら店の外に出る。揺れがやっと収まり、パートの同僚や客たちが不安げに身を寄せ合いながら、子供や夫に電話をかけている。C子さんも実家に電話したが、留守電になったのでとりあえず無事だ、大丈夫だということだけ吹き込んだ。まだときどき揺れてるし、店内は棚も倒れて危険なので本日は閉店します、片付けの応急処置は社員でやるので、パートの皆さんはもう帰宅してください。店長にそう告げられ、現実感の湧かないまま家路についた。途中、アスファルトに大きなヒビが入り、そこから泉が湧くように真っ黒な泥が溢れてきている場所をいくつも見た。液状化現象だ。
真っ黒な泥が溢れる。
ほとんど荷物のないマンションの部屋は、それほど地震の影響はなかった。のろのろと片付けて、ベッドに寝転び、天井を見つめる。鼓動だけが速い。何も考えていない。実家から折り返しの電話がきた。上の空で応える。こっちは大丈夫、そっちは大丈夫? 大丈夫、大丈夫。こっちはぜんぜん揺れなかったんだけど、東北のほうがたいへんなことになってて、そっちもけっこうたいへんなことになってるみたいだけど、大丈夫? 大丈夫、大丈夫。
真っ黒な泥が溢れる。
小さな音にしてテレビを見る。目に映像は流れ込んでくるが、それが脳にまで届かない。真っ黒な濁流が家や車を飲み込んでいく。コンビナートが燃えている。原発から煙が出ている。いつの間にか朝になっている。
真っ黒な泥が溢れる。
以後、C子さんは部屋から出なくなった。パート先からの連絡も無視した。というか、携帯電話は充電せずに放置していたので、連絡が来たのかどうかもわからない。
地震から二三日たち、少しは何かを考えられるようになると、また強い焦燥感と不安感に苛まれる。
ベッドに寝ころんで天井を見ていると叫び出したくなる。
膝をかかえて座っていると部屋の隅の暗い部分が気になってしかたがない。
部屋の隅を照らすために蛍光灯を点けると、部屋中の家具が床に茫とした影を落とす。
そこから真っ黒な泥が溢れる。
なぜかそれが怖くてしかたがない。
怖くて怖くてどうしようもなくなり、毛布をひっつかんでベランダに出た。
春の訪れが近いのかもしれないが、風は冷たい。風。そういえば、放射能、セシウムが風に乗ってどうこうということをテレビで聞いた気がする。だがそれがどういうことで、自分にどう関係するのかはわからない。太陽が照らしているベランダには真っ黒な泥が溢れないので大丈夫だ。
日中はとにかく部屋の中の暗がりが怖いので、なるべくベランダで過ごすことにした。
毛布にくるまって空を眺めていた。時々は遠くの街並みを見ていた。夜になると、電力不足への対応で街中の照明が自粛され、東京とは思えないほど暗い風景が広がった。真っ黒な泥が溢れてきそうなので部屋の中に戻ってすべての照明を点け、ベッドにじっと横になり、小さな音にしてテレビを見る。途切れ途切れに眠ったかもしれない。いつの間にか朝になっている。
部屋から出ず、そうやって過ごして何日目のことか。
C子さんは夕焼けに染まる街並みを眺めていた。周りに背の高い建物がないので、マンションの十階からはかなり遠くの風景まで見渡すことができる。夕焼けを浴び、遠くのビル群の影が濃くなっていくのを見ていると、また少し怖くなってきた。
と、C子さんはビルの隣に妙な影が立っているのに気づいた。
「影……うーん、もうちょっと実体があるように見えたかな。雨雲が集まって人の形になったような感じ。色はないっていうか、灰色、モノトーンで」
しかも、とても大きい。かなり遠くにあるのでぼんやりとしているが、のっそりと立ちつくして、時折ゆらりと左右に傾いでいるように見えた。
「ちょうど同じくらいの距離にスカイツリーがあって、その頃はまだてっぺんまで完成してなかったんだけど、だいたいそれの三分の一くらいの大きさだった」
夕日が落ちて夜になると、その大きな人型の影はいつのまにか消えていた。
次の日も、その次の日も、C子さんは人型の巨影を見た。必ず夕方になってから現れるようだ。
そして影は、徐々にC子さんの住むマンションへ近づいてきているようだった。
「怖かった。怖かったんだけど、その影が何なのかを確かめたい気持ちもあって」
がたがた震えながら、C子さんは影が来るのを見つめた。
近づいてくるにつれ、雨雲というよりは高圧縮率のJPEG画像に現れるブロックノイズやモスキートノイズが集合して人の形になっているように見えてきた。相変わらず色はなく、灰色の像のままだ。輪郭は周囲の風景に溶け込み曖昧だったが、少し猫背気味の姿であることは見てとれた。
それはたまに一瞬だけ、低解像度から高解像度の画像に変換されたように鮮明になることもあった。もう少し近くなれば、何なのかが分かりそうな気がした。
「たぶんそのうちもっと近くに来る、これ以上見ていると何か良くないことが起こる、って思った。でも何なのか知りたい。それが抑えられなくて変になりそうだった。夕方になるのが待ち遠しかった。考えられるのはそのことだけだった。そしたら」
次の日、影は一気に距離を詰め、C子さんのマンションのすぐ前に現れた。そろそろ夕方かなと思ったら、すでにそこに立っていたという。
ほんとうに大きな人影だった。
十階のベランダから見てもなお、ほとんど見上げるほどだ。
巨大な存在に対する純粋な恐怖が、身体の奥から湧き上がる。
C子さんは激しい震えを抑えきれず、それでも目は巨大な人影から逸らすことができなかった。
「その影がなんなのか、そのときやっと見えてきた」
燃えるような夕日に照らされた逆光の中、小刻みに揺れていたモノトーンのノイズがゆっくりとチューニングを合わせるように振動を止め、像を結ぶ。
白黒の、巨大な中年男性の姿が徐々に具体を帯びる。
髪を綺麗に撫でつけ、眼鏡をかけて、口ひげをたくわえ、正装をして。
(え、誰?)
どこかで見た。
どこだ。
だれ……ああこれは
人影は、教科書や記録映像で見た姿を、今やはっきりと現していた。
それは、巨大な昭和天皇の像だった。
マッカーサーの隣に立つ、あの姿だった。
白黒のその輪郭から、真っ黒な 泥が
真っ黒な泥が溢れる。
そこで意識が途切れる。
次の日、隣室の住人からの苦情で渋々部屋に入ったマンションの管理人が、ベランダで呆けているC子さんを保護した。
隣の人が一晩中外で何かの歌を唄っている、泣いているようだが、時々げらげら笑っていて気味が悪い、との訴えだったようだ。
「管理人さんがすぐに親に連絡入れてくれた。まあ他にどうしようもないよね」
しばらく入院する必要があったが、退院してからは実家の家事手伝いをしている。
「最近になってお母さんから聞いたんだけど、管理人さんの話だと、わたし『君が代』唄ってたみたい」
今でも、夕暮れ時はあまり外に出ないようにしているという。




