半月塔の乙女達
「ミランダ・アムバッハ、キサマとの婚約は破棄させてもらう」
「・・・どうゆう事でしょう?」
ミランダこと、鏡宮杏子は、先触れもなく突然やってきて声高らかに宣言した王子様然とした男に、気怠げに痩せ細った身体を寝台からやっと起こし、正しく淑女の礼をとり恭しく頭を下げつつお伺いをたてる。
「なんだとキサマ。身に覚えがないとでも言うつもりか?」
「ありません」
「んなっ!!?」
「お忘れですか? みえてます? コレ」
その着崩れ薄汚れたドレスとは真逆に、ミランダのどこか安穏とした返事に、いよいよ怒りを募らせる王太子様に、ミランダは、自分との間にあるガラスの壁を コンコン と、ノックするように叩いて見せた。
ここは、この国の次期王妃候補が代々居住する保護隔離施設。
女神からの恵みである万物の源となる魔素を、月の光から集めるその形状から別名《半 月 塔》と呼ばれるこの世界の魔法の髄を極めた古の塔の1階フロア。
その伝説的な魔法の道具の数々と、絢爛豪華な装飾で飾られた円形ホールに、1枚の《魔法の鏡》を挟んでこの国の王太子と、その婚約者ミランダが対峙していた。
「私、自分の意思ではこの鏡の中から一歩も出られないんですよ? そんな私に一体何ができるって言うんですか?」
「それが問題だと言っているんだ」
吐き捨てるような鼻息と共に、呆れと蔑みを含んだ言葉を吐いた王太子様曰く。
神殿の信託により、王太子妃候補の1人に選ばれたミランダは、国の巫女として古からの“伝統”と“王命”により、《魔法の鏡》の中で祈りを捧げる呪いを一手に担う役割を賜ったのを言い訳に、この豪華絢爛な塔の中で贅沢三昧を貪り、わずかな祈りを捧げるだけで、日長一日寝台から動かず怠惰に過ごし、王太子の婚約者としての仕事の補佐も、王妃としての仕事も全く何もしていない。
と言うのだ。
あげく、何不自由なく衣食住を提供されているにも関わらず、最近では口を開けば不満ばかり述べ、やれ「喉を痛めた」「涙も尽きた」などとその役目すらもそこそこに、祈りを怠り本来得られる民への恵も日々満足に得られずに、この待遇に不満を募らせている。と、王侯貴族どころか平民達にまで悪評が蔓延している始末。
貴族としての知性も乏しく、国母になるべく気概も、淑女としての嗜みも無い。
この国の同じ年頃の貴族の子女達が、社交を学び、弱者救済のための策を講じ、親の無い子のために涙を流す令嬢までいると言うのに、当の巫女はといえば、己の怠惰のせいで女神の恵みである魔力が滞り、日々の生活に事欠く民草に目を向け見解を広めることも無い。
「なんだそのだらしない見窄らしい身なりはっ! 平民として隠され不遇を強いられていたキサマの妹の方が、今では貴族としての気概を示しているではないか!」
「あぁなるほど、『子孫を残す為には若くて健康な妹のフィオナに乗り換えたい』と言うことでしょうか?」
「聖女に対して下品な物言いをするな!」
王太子の叫び声を合図に、外から王太子専属の騎士や取り巻きの取り巻き達が乱入してきた。
それを必死で止めていたのであろう、この《半月塔》を代々護っている神官達が、床に組み伏せられている。女神の使徒たる神官様方になんと恐ろしい事をするのか。
あ〜あ、やっちゃったね。
「聖女に対して下品な物言いなど、誰もしていませんよ。殿下」
「キサマがフィオナを愚弄するような事をほざいたのだろうがっ!」
「殿下が、私の義妹フィオナをエスコートして、何度も社交の場に出ている事は、そこの神官共から常日頃聞き及んでいます。婚約者のいる相手に、随分な淑女の行いだと、忠告できれば良いのにと思っていましたのよ?」
ミランダは メッ! と一瞬顔を顰め、コツコツ と、ガラスを指で鳴らしながら移動する。
「未来の王妹をエスコートして社交の場に出る事の何が悪い!」
「エスコートは必要でしょうが、同じ女性を“何度も”“連続して”エスコートするのは婚約者の女性に“失礼”ですよ。殿下」
ミランダは「ご存知ない?」と、ガラスを撫でながらゆっくりと横に歩く。まだか。
「婚約者の家族をエスコートする事になんの非礼がある! そのような事、どこの貴族もしている事ではないか!」
婚約者の家族ねぇ。こうやって、都合よく『婚約者』って言葉を使うわけだ。
「殿下、ご存知だとは思いますが、私と義妹フィオナ嬢の間に血のつながりはありません。伯爵位は亡くなった母から私が継いだもので、父にはその資格はございません。まして、フィオナは後妻に入った女の連れ子。青い血の一滴も入っているかどうか」
ミランダは、眉をひそめて目の前の愚か者を見た。
それともコイツ、この王子様? よもやまさか、貴族のノブレスオブルージュを蔑ろにした我が父の不貞を肯定するつもりではあるまいな?
王太子の言葉を遮って、説明を続けたミランダは言葉を濁したが、【鑑定解析】能力の結果、父と継母はどちらも血液型がAB型、それに対してフィオナはモザイクでも無い正真正銘のO型。絶対に産まれない組み合わせで、継母の実の子かですらも疑わしい出生の持ち主だった。
血液型は前世の記憶からだが、流石に見えない相手までは鑑定するに至らず、義妹の本当の親が誰なのかまでは知らんけど。
つまり、現時点でハムバッハ伯爵邸にいるのは、この自分、ミランダ・アムバッハ伯爵の父親(元子爵家3男)と、その嫁と娘(仮)と言うだけで、自分が幽閉、もとい、妃候補としてのお勤めを果たすべく“保護”されているこの《半月塔》に入った事を、まさか命じた王族自らが忘れてしまっているのか。
そもそも母が死んだ時点で、あの家に高位貴族階級者はミランダ以外存在していないと言うのに。
それなのに、当主が幼いのを良いことに、平民の後妻を連れ込むなんて、仮の家の主人である“伯爵の父”としての立場を危うくするような事をなぜ? と、ミランダは父親の浅慮さに呆れながら成長していた。
いや、本当に“ミランダ”がその時諦めていたのなら、唯一の“家族”の裏切りを知って人格が入れ替わるほど絶望する事も無かったろうに。
「キサマ! 何を根拠に!?」
「ABO型検査ってご存知ですか? 人間の血液型にはパターンがあって、組み合わせ次第では絶対に生まれない型があるのですよ?」
「そのような世迷言を!」
「あら、ご存知ない? 怠惰に過ごしていると声高に糾弾なさった私より、学園でご学友と勉学に励んでいるはずの王侯貴族ともあろう者が?」
ミランダが王太子の取り巻き達を胡乱な眼で眺め見る。
揃いも揃って、間近に目にして尚コチラに対する労いも、力ずくで床に組み伏せている神官達に対する敬意も配慮もあったもんじゃ無い。この様子じゃ、この塔の仕組みもしきたりも、アチラ側の王侯貴族達はすべて忘れてしまっているのだろう。
呆れるばかりだが、ここは慎重にその傲慢と愚鈍を利用させてもらう。
良い感じに王太子様がワナワナと震えるほど怒り狂ってらっしゃるわ。ここはもうひと推しと言うところかしら?
ミランダは歩みを止め、神官達にホールから下がるよう手で合図した。
入ってはいけない“神聖”なホールに、自らの足で踏み入った王太子の取り巻き達の事はもう仕方のない事なのだろう。
神官達が抵抗をやめ力を抜くと、王太子の護衛達は拘束を解いたので、ミランダの指示通り急いでホールから出た。
王太子はそのまま護衛達にも退去を命じ、塔の外での待機を告げる。
「そら見たことか! このようにオマエは、その鏡から出られぬことなどものともせず、人心を操りフィオナに嫌がらせの数々を・・・」
ミランダは、片手でガラスをなぞるように歩き、空いた片手のすっかり痩けてささくれた手入れの行き届かない指爪を見ながら、王太子様を更に挑発する。
「あぁ、それと殿下、殿下。私達は婚約していただけで、まだ婚姻していませんのよ? “王妃”の仕事など、そんな不敬な事、私にできるわけもないでしょう?」
誰に何を言われたか知らんが、それがまるで当然の様な振る舞い。いや、この塔に唯一訪う神官共から『フィオナ嬢はすでに王妃のようだ』と囀られていたからだいたい想像できるけど、まあそれはスルーだ。このガラスのアチラ側が日に日に豪華になっていくことで、外での己の扱いなどミランダには解っていた。この国の王侯貴族の堕落ぶりのせいで、真の不幸に気付かぬ愚民達のことなどもはやどうでも良い。
「そもそも、先ほどの殿下のお言葉からすると、『弱者救済のための策を講じ、親の無い子のために涙を流す令嬢』でしたっけ? っフフっそれ、実際は何の救いにもならないですよね?」
お気持ち表明。パンの一欠片にもならない涙を見せ、やりもしない偽善を語るだけって。そしてそれにコロッとしてやられるなんて、将来この国を担う者としての資質を疑うわ。無理だろ。コイツには。
「その上で『社交を学び、外に出て見解を広める』って、もはやただ好き勝手遊び歩いてる奔放な女だわ」
「キサマ! 未来の国母に向かって不敬である! 今すぐこんな関係は終わらせて極刑にっ「殿下。一度口から出た言葉をなかった事にはできないんですよ?」っんぐっ!!?」
「私との婚約をなかった事にすれば『婚約者の妹をエスコートしていただけ』と言う大義名分すら失う事になりますのに。せめて、落ち着いて、ゆっくり、もうちょ〜っとだけ考える事ができれば、それらしい言い訳も出ますでしょうに」
「キサマ! 王族を愚弄するのも良い加減にしろ!」
「何様のつもりだっ!」
「正気か!?」
「コチラは王太子様だぞ!」
火が出んばかりに怒りで頭を沸騰させた王太子とその取り巻き達が、何やら喚いているが、ミランダは無視してさらに挑発する。
宰相の息子、騎士団長の息子、魔術師統括の息子に、後の1人は誰だっけ? とにかくこの国の四侯爵家の次期跡取りが揃いも揃って皆無能とは。この国マジで終わってるな。
ミランダは、こめかみをトントンと指で叩き「大丈夫?」と、その指を頭上で回して囁いた。
正しく油を注がれた令息達は、烈火の如く怒り狂った。
そろそろかしら?
フロア唯一の開口部で、心配そうにコチラを覗き込む神官共を シッシッ と手を払って合図して、さらに後ろに下がらせる。
決して、罷り間違っても、この呪われた塔の全てを熟知する神官共がその瞬間、鏡に僅かにでも映り込まないように。
この計画に一切の憂いが無いよう、強い意志を持ってミランダは目配せする。その視線に神官達は頷いて、お互いを庇うように開口部の壁の陰に隠れた。
目の前のガラス一面を、注意深く確認したミランダは、大きく深呼吸して息を整える。
「なんだその溜息はっ!」
「次期王に対してその態度、不敬である!」
豪華絢爛なホールに、次期王の、次期臣下達の怒号が響き渡った。
「・・・そもそもこの件、殿下のお父上である国王陛下はご存知なのですか?」
ミランダにそう問われて、王太子様はやっと、ニヤリとその口端を上げた。
「これを見ろっ!」
王太子が嬉々として掲げたその手には、確かに現国王の名が明記され、しっかりと玉璽が捺印されている[婚約破棄]を認める書類があった。
「まぁっ! なんてことっ! 私がここに入るようご命令なさった現王ご本人までが、私達の婚約に違を唱えたなんてっ!」
掠れた声をあげ、目を見開いてその書類に釘付けになったミランダに、王太子は口の端をこれでもかと引き上げると、してやったりと言わんばかりに声を上げた。
「王命である! さっさとこの書類にサインしろ!!」
王太子は、ホールの中央、半円型の形が鏡に映り、その1つを共有しているように見える丸テーブルに、婚約破棄の書類を叩きつけて叫ぶ。
「さっさとサインしろ! 婚約を破棄した暁には、一介の貴族令嬢に過ぎないキサマなどっこの場で無礼討ちにしてやる!!」
「・・・そんなっ・・・一体どうやって?」
ミランダが、テーブルの上、ガラスに映った書類を素早く手に取ると、王太子の目の前からは書類が消えた。
この茶番の真の目的である書類を手にして、どこか嬉しげ微笑んだミランダは、再び2人を隔てる《魔法の鏡》を名残惜しげにつぃと撫でながら、ジリジリと悔しげに後退ると、ホールのコチラ側の奥まで移動し長年の思いを馳せた。
アチラとコチラを隔てるこの《魔法の鏡》は、王妃候補の純潔を知るらしめるため、代々王家で受け継がれた魔法の壁。
この鏡の中に、初潮が始まった乙女を婚姻の日まで閉じ込め、なんの因果かその対価として得られる女神の魔素財宝を搾取するための魔法の牢獄。
ミランダは5年幽閉されていたが、この国の王家が始まった当時から、1人の女性を犠牲に国の政を成立させてきた、由緒正しい歪んだ愛と正義の象徴を、今更どう落とし前つけようと言うのか。
「殿下。どうやって、この私を断罪なさるおつもりで?」
ミランダは、ゆっくりと《魔法の鏡》から離れた。
「無駄な足掻きを! こんな物! こうしてくれる!!」
王太子は、帯刀していた大剣を抜き出すと、流石に止めに入った取り巻き達の静止もきかず、鏡に映ったミランダごと叩きつけた。
「ありがとうございます。殿下」
ミランダが、軋む身体に鞭打って渾身のカーテシーを披露した瞬間、《魔法の鏡》に亀裂が入った。
その後光のような眩い光が《魔法の鏡》を中心にフロアを照らす。
王太子達が目をあけると、いつの間にかミランダの後ろ、唯一外に出られる開口部から神官達が姿を現し、自分の背後の開口部には誰もいなくなっていた。
いや、正しくは、部屋を隔てていた《魔法の鏡》を起点に、その立場が逆転したかの様に、王太子達とミランダの立ち位置が反転し、目の前にはただの厚いガラスの透明な壁が広がっていた。
「なんだ!? どうゆう事だ!?」
「鏡が消えたぞ!?」
「閉じ込められた!?」
「魔女め! 何をしたっ!?」
「誰かっ! 衛兵! 衛兵っ!!」
ミランダが手をかざすと、控えていた神官の1人がすかさず駆け寄り、羽根ペンを手渡す。
ペンを受け取ったミランダが《魔法の鏡》から目を離すことなく持っていた書類にサインすると、契約が破棄された印である光を放ちながら、空に浮かんだ書類は青い炎と共に燃え落ちた。
「お二人の婚約は正しく破棄されました」
神官が顔を伏せたままそうつげると、ミランダはペンを懐中に蔵い、瞳から ポトリ と一粒の涙を流す。
《魔法の鏡》を通してしか、人との繋がることのできない孤独な監禁は、その歴代の少女達の健全な精神を蝕むのに十分なダメージを蓄積させ、世界の全てが望む苦痛を与え続けたが、これでやっと、この牢獄は未来永劫、中身を変える術を失った。
豪奢な燭台の灯りが、ひとつ、またひとつと、その光を失ってゆく。
やがて青黒い帳を下ろし始めたホールは、その唯一の開口部から漏れ出るわずかな光でミランダの痩けた頬を照らし、その腑に怨嗟を孕んだ女の表情を露わにした。
「今までここに幽閉された数多の女達の怨念を聞け」
背筋を伸ばし振り返ったミランダは、その背中に浴びせられる断末魔のような叫び声に一切反応する事なく、神官達を伴って颯爽と《半月塔》から出て行った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「なんなんだ!? 何が起こったんだ!!?」
《半月塔》のホールに残され、慌てふためく王太子と、取り巻き達は狂ったように、外界と自分を隔てるガラスを叩く。
つい先ほどまで、ただの鏡に見えていたのに、今、目の前に立ち塞がるガラスは向こう側が見える透明なガラスであって《魔法の鏡》でもなくなっていた。
「演目のように《呪いの鏡》に 魔女 を映して叩き割れば、ヤツを亡き者にできるのではないのか!?」
コチラ側にはアチラ側から見えていたような調度品は一切無く、窓も無い灰色の石壁と床に、粗末な寝台に毛布が一枚。
目の前のガラス壁にめり込むほどくっつけられた半円型の、ディナー皿がやっと一枚乗るテーブルに、かろうじてアチラ側が反射しているだけで、広さは同じく塔のワンフロアを半分にした十分な広さがあるにも関わらず、夜のように暗く鬱蒼としている。
他の4人がガラスを叩いている中、アチラ側では外への通路へ続く開口部があるのを思い出し、宰相の息子が走ってコチラ側の開口部へ向かう。
この開口部から、夜な夜な外の世界を自由に行き来して、その暴虐を尽くしているのが《半月塔》に閉じ込められていてもなお正気を保っている魔女の正体だ。と、巷で流行りの小説に書かれているではないか。
アチラでは、先ほど押さえつけた神官達が控えているはずなのに、コチラではジメジメと湿った石造りの小部屋に、シャワーとトイレがあるだけだった。
「なんだこれは・・・まるで牢獄ではないか・・・」
中に入ると、手前の壁に洗面台と姿見の鏡があった。
だが、それだけだ。外へ出られるような扉や開口どころか、光とりの窓すら一切無かった。
「そんなっ、ウソだ、ウソだっ!」
宰相の息子は真実を知り、ホールに戻るのを拒むようにその場にへたり込み、絶望して床を叩いた。
その様子に駆け寄った魔術師団長の息子が、自分のいる場所を思い出したかのように叫ぶ。
「まさか、まさか本当に伝承通り《呪いの鏡》だったというのか!?」
外界から閉ざされたこの“幽閉”場所では、自らの意思で外に出ることかなわず、婚約者との婚姻の日取りが決まり、婚約者に誘われる事で初めてここから解放されるのだとか。
未だ事態を把握しきれぬ騎士団長の息子が、困惑露わにオロオロと愚昧な言葉を漏らす。
「そんなはず!? ではなぜ聖女は、どうやってミランダはフィオナにあんな無体な事ができたというのだ!?」
学園で聖女から聞かされる義理姉からの暴虐非道の数々を、面白がった生徒達の話を発端に、出版社の一つが玉の輿ストーリーとして小説を出版し、悲劇のヒロインが真実の愛の相手とハッピーエンドを掴む演劇まで上演されると、瞬く間にその物語は事実のようにこの国に定着し国民達を熱狂させた。
「神官!! なんとかしろ! 騎士を! 王を呼べ!! 父上! 母上!!」
狂ったように叫び大剣を叩きつける王太子だったが、目の前のガラスはアチラ側にいた時とは打って変わって薄傷ひとつ負わせる事ができないでいた。
そこに音もなく、先ほど床に這いつくばらせた神官の1人が侍りまかりこす。
「良かった! 灯り、とりあえず灯りをつけよ!」
王太子と取り巻き達は、やっとほっとしたように命令するが、神官は首を左右に振って恐ろしい事を口にした。
「ここは幽閉された者の[契約者]が訪う事で、やっと発動する古の魔道具に囲まれたフロアでございます。人の手では何一つ作動せることはできません」
「ではミランダを呼び戻せ!」
「ミランダ様は先ほど、王命により婚約者の任を解かれました」
「では聖女を! フィオナを呼んでこい!」
神官は、さらにゆっくりと首を振る。
「聖女様とやらは、神殿を介した正式な婚姻の契約してはおりません。結果は同じことかと」
「なんだと!?」
「ご存知の通りこの塔は古の王と女神が結んだ契約の具現化装置。その対価の代わりに望む者が望む物を具現化させる古の魔道具《魔法の鏡》を保管する《半月塔》でございます。皆様が望んだ通り、ソチラ側の皆様には契約者が不在の状態でございます故、この呪いを解く術はすでに潰えておるかと・・・」
仄暗い微笑みを湛え佇む神官の言葉に、いかに自分達が見たいものしか見えていなかったを思い知った5人全員の顔が蒼白とする。
王太子の取り巻き達の元婚約者達もまた、大衆に担ぎ上げられた聖女の甘言に唆された令息達に、婚約破棄を言い渡されたばかりだった。
「では誰でも良い! 新たな契約者を、女を連れてこい!!」
王太子の狂った叫びに、神官は首を傾げて雁首を並べる愚か者達にいつもするように蔑みの言葉を告げたる。
「この国で“真実の愛”とやらを知った女達の誰が、今更この《半月塔》に訪うと?」
唯一の開口部からの光が陰るなか、夜の暗闇が近づくと、ザワザワと何者か得体の知れない女達の囁き声が聞こえ始める。
『今までここに幽閉された数多の女達の怨念を聞け』
最後にミランダが吐いた呪詛を思い出し、王太子は言葉にならない悲鳴をもって絶叫した。
「誰でも良い! 助けてくれっ!! グギャッッ!?」
それは、ミランダを始めとする歴代の幽閉された女達が、毎夜叫んだ虚しい願いと同じ慟哭。
絶叫と共に悶絶した王太子の口から、黄金色に輝く拳大の金塊がテーブルの上に吐き出された。
取り巻き達がその異形に目を見開いているのを尻目に、神官はそれをサッと掴み取ると、恭しく掲げてアチラ側に見せつけた。
「あぁ、良かった。この機能は相手が男でも健在のようです」
今日の分の仕事を終えた神官は、ヨダレに塗れ穢れた金塊をうっとりと見つめると、恭しく一礼してホールからあっさりと出て行った。
「待て! 行くな! 我を助けろっ!! 王太子だぞ! この国の次期王っ うグァゲギャっ!! ガッ! ゲッ! ガガッ!!」
王太子が「助けろ」と叫ぶたびにその喉奥から金塊が、あまりの激痛に涙を流すたびにその眼底から大粒の宝石、財宝が吐き出される。
やがて王太子は助けを乞うのをやめた。
ホールが完全に闇夜に包まれると、これまで狂って死ぬ事でしか鏡の中から解放されなかった女達の囁きが慟哭に変わる。
新たな生贄達の悲鳴に、神官は呟きを漏らした。
「婚約者が幽閉されたその日のうちに婚姻すれば、このような憂き目にあう人間など生まれなかったというのに。まっこと人間の欲望とはかくも度し難い・・・」
《半月塔》を背に、月夜に光り輝く黄金を拭い、神官はニンマリとその口端を上げ、いつも通り神殿への帰路をゆっくりと歩いた。