湖の街にて。
長い長い汽車の旅を終えて、風の街と海の谷を越えるとそこは大きな湖の広がる街であった。
錆びた鉄橋のかかる川と、高い緑の山に囲まれたこの街は、どこか懐かしさの感じる美しい自然が溢れていた。
私は大阪という街で作家をやり始めてもう15年が経つのだが、仕事の合間にはやはり緑を見に行きたくなってしまう。
高くなった空と差し込んでくる日差し、音を立てて揺れる木々は、眺めているだけで心が落ち着いてくるような気がする。
浜大津の駅を出て石山へ向かう、列車の車輪が音を出して進むたびに街の景色は落ち着いていき、膳所を通り過ぎると先ほどの湖は見えなくなり、人々の生活する住宅街へと姿を変えた。
列車の扉が開くと蝉の声が聞こえ、子供たちの笑い声と、コツコツと鳴り響く靴の音が遠くから聞こえてきた。
こういう風景や音を聞くと、休暇で来たはずの場所でも新しい話を思いついてしまう、いわゆる職業病と言うやつなのだろうか。
私は幼いころから一つに熱中してしまうと周りが見えなくなり、そのせいで様々な人を傷つけてきた。
そのくせ困っている人や苦しんでいる人を放っておけなくて、余計に振り回してしまうような人間だ、それならばいっそのこと、人と関わらないようにしたいと家に籠って本を書くことが増えてしまった。
人の温かさもろくに知らずに。
石山の駅で降りると、大きな川が見えた。カモやサギが悠々と泳ぎ、鵜は魚を捕えようと空から、土手から狙っている。私は持ってきたパンの欠片をそこにいた鳩にくれてやった。鳩は礼を言うようにクルックーと鳴いて見せた。しばらく鳩と触れ合っていると、スズメやセキレイなどの小鳥も寄ってきた。もうパンはないので離れようとするが、やはり鳥たちの声に惹かれて食パンを買ってきて与えてやった。スズメは飛び跳ね、セキレイは白い羽を広げた。鳩は相変わらず鳴いている。
太陽がちょうど真上に来た、私の知らぬ間に時間はずいぶん経過しているらしく、影も短く、そして近くで私を映していた。
昼食をとろうと飲食店に入るが、これと言って食欲はないので冷たい蕎麦を食べるだけ食べて次の場所へ行くことにした。
来た道を戻り、坂本へと向かった。とりあえず街から離れて、自然に触れたかった。
路面電車とケーブルカーを乗り継いで坂本寺へ向かうと、木々が歓迎するように私を呼んだ。
大きなクスノキが、風に揺れている。それに合わせるように、周りの木々たちも揺れている。
合わせなくたって、君たちは美しいのに、そう声をかけて境内へと足を進めた。
赤色に目立った鳥居は、過去へタイムスリップさせるように、神秘的な力を持っていた。
そこへ入れば、千年前の風景とつながる。
まるで、タイムマシーンのように。歴史がこちらへ手を伸ばして、近づいてこようとする。
こうして考えているうちに坂本も観光し終わり、次はどこへ行こうかと考えていた。
やはり湖だろうか。
私は湖の見れる場所へ移動した。
風が私の袖を揺らし、あたりを悲しそうに走り去っていく。彼もまた、過去に見た街を求めているのかもしれない、私たちのような身勝手な生き物に作られた街に、怒りを覚えたかもしれない。
すべては私の空想だが、なぜか聞こえてくるのである。
世界を見渡すと、声が。生き物たちの、恨む声、悲しむ声、泣き叫ぶ声。
私たちは、私たちのために生き、私たちのために様々なものをこの手で失わせてきた。
その代償と言うのだろうか、世界は今苦しみに満ちている。
聞きたくない声も、見たくない事実も。心に刻み込まれているのである。風がそう教えてくれた。
楽しい時間と言う物はすぐに過ぎていく、先ほどまで真上にあった太陽も、今は私の後ろで笑っている。ちょうと向かいにいる月と、短いひと時を楽しむように。
オレンジに飲まれた街並みを歩き、土産にかんざしを一つ買った。
家で一人待っている彼女に渡すために。
帰りの列車に乗り込む前、一人の少女に出会った。手には私が昔書いた「レルピュード」と言う本を持っていた、見た感じ小学校の低学年くらいだろうか、人生に思い悩んでいたころの私が書いた本なんて、このくらいの年の子供にとっては面白くないだろうと思ったが、少女はその本が気に入っているらしい。
「まともに育つんだよ」そう声をかけた、私のようにならないように。
少女は恥ずかしそうに頷いて、「あなたのような人になる」と、そう言った。
伝わっていないようだが、少女がそれで良いなら強制するものでもないな、と思い、それ以上は言わなかった。少女もそのうち気づくだろう、今は難しくても、中学生かその辺になれば、きっと正気に戻るだろうと思い、帰路についた。
私はこの街で気づかされた。
風の街にも、海の谷にもないものが、この湖の街にはあったことを。
それは、過去の栄光に色ずく者たちの儚さと美しさ。
そして、美しく純粋な人々の心である。
美しい以外で表現できないほど、この街は素晴らしい。
私には、まだその心がない。