プロローグ 【鉄拳】のレイモンド
この日の晩はいつもと変わらず、なんてことのない平凡な暗闇に満ちていた。
朧げな月明かりが差すだけの、常人ならばとうに睡魔の囁きに身を委ね、夢の中の安寧に休息を見出しているであろう時間帯。
その中で、とある目的のために常人ならざる職に就かざるをえなかったこの俺ことレイモンドは、馬乗りになった相手の顔面へと目掛けて幾度となく拳を振るっていた。
引き倒した敵の胸部を自重と地面との板挟みで圧迫しつつ、さらには抵抗が出来ないようにがっちりと両腕を膝で押さえながら、合間合間に聞こえる助けを希う声を無視して、淡々と――殴る。
「ごぁっ、ぐぎゃっ、がっ! が、がふっ……! や、やめっ……助けっ、ごふっ」
「なんだ、よく聞こえんな」
肉が潰れ、骨がひしゃげる。
その醜い水音の奥から慈悲を求めて泣き叫ぶ敵の姿は、人のそれではない。
見るも悍ましい紫色の肌に、爬虫類の如く瞳が縦長に細まった三つの眼。
側頭部には山羊のようにねじれた一対の角を生やし、外側へと反り返るような異形の牙を伸ばしていた――元々は。
だが、既にそれらの特徴的な部位は、俺の拳によって散々に叩き折られていた。
今のこいつは潰れた瞳と砕けた歯の隙間から様々な体液を駄々洩れにしつつ、馬車の轍に轢かれた蛙のような悲鳴を上げるだけの状態になっていた。
それでも俺は容赦なく、また油断することなく、固く握りしめた拳を執拗に振るい続ける。
「あがっ、げふっ、ごぶはっ! がっ、ぐっ、げぇっ……ぐふっ!」
「その程度で音を上げるとは情けないぞ、悪魔。貴様の犯した罪によって被害を得た人々の苦しみに比べれば、まだこの程度生易しいものに違いない。違うか、ン?」
――がん、ごん、がん。ばきっ、ぐじゅり、がこっ、べきんっ……。
情けも憐れみもない瞳でただひたすらに、夜の冷たさを纏った両拳を唸らせる。
その動作に戦闘の熱などは一欠片も存在せず、ならばこれは、そう、作業と呼ぶ方が相応しいのかもしれない。
事実、俺にとってこれは害虫駆除も同然なのだから。
悪魔。
それは人の心に巣食う悪意を糧として成長する、異界の化物。
人類の発展にとって百害あって一利なく、万人が異を唱えず排除を唱えるべき災いであり、人類史を侵食しようとする汚点であり……今の俺の敵。
そんな奴らに対する同情してやる暇など、あるはずもない。
「げぇっ、ぐじゅっ、ぐぼっ、ごぱっ……あがっ……、……」
「ふん、情けない――」
やがて喉が潰れ意識が途絶え、一声も発さなくなった悪魔。
重なる打撃によって肉体のみならず心までもが磨り潰され、死体に等しい状態になったそれを、俺はそれでも更に殴り続ける。
そうしているとやがて、悪魔の身体が徐々に崩壊を始める。
奴の現世の依り代たる肉体を形作っていた、人々から徴収された悪意のエネルギーが俺の与えたダメージによって消費し尽くされ、その中に留まっていた魂が本来いるべき世界である魔界へと帰還を始めたのだ。
塵となって散っていく悪魔の骸。
その最後の一片を殴り潰したところで、ようやく俺の仕事は終わりとなる。
それと同時に――がちゃん! と重い扉の開く音がした。
続けて、よく知った騒がしい足音が次から次へと乗り込んでくる。
「あーっ、見つけたっすよレイ先輩!」
一番に飛び込んできたのは、身に纏うぴっちりと張り付くような漆黒の衣の上から更に白銀の軽鎧を装着した、子猫のように小柄な少女だった。
彼女はその第一声の通り俺の後輩であり、そして俺と同じく悪魔の討伐を専門とする、教会所属の聖なる暗殺者――伐魔官の一人だ。
「アイリか。残念だが遅かったな、目標はたった今あの世に送り還してやったところだ。お前たちに任せられるのは残った後始末くらいだな。俺は疲れたし、もう帰る」
そう言ってやると、彼女は心底残念そうに口を窄めながら、俺の身体をポカポカと叩き始めた。
「ええーっ、そりゃないっすよ先輩~! あたし達の任務だったのに、やることが後片付けだけなんてそんな殺生な~」
「知らんな、勝手にここの入り口で足踏みしていたお前たちが悪い。悪魔を相手に待つなぞ、俺には考えられんのでな。その間に次なる犠牲者を防ごうとした俺が責められる謂れはあるまい」
「そう簡単に言わないで下さいよ~。ここはお偉いお貴族の土地だったんすから、突入にも上での複雑なやり取りが必要で……」
「その間に逃げられたら元も子もないだろう?」
「そりゃぁそうっすけど……はぁ、分かったっす。先輩の独断専行は今に始まったことじゃないっすからね~。そんじゃ皆、記録とか諸々よろしくっす! あたしは討伐の報告に、先輩と一緒に戻るんで~」
何故か呆れたような顔を浮かべながらも、引き連れていた部下たちに残りの仕事を任せて、アイリは帰ろうとした俺にぴょこぴょことついてくる……そんな顔を向けられるような覚えはないんだがな。
今回の悪魔の巣は、古臭い建物の地下に隠された秘密の部屋に存在していた。
日の光を忌避する傾向にある奴らのそんな黴臭い根城から、外へと続く石階段を昇りながら、俺たちは話を続ける。
「そう言えば、これでやっと千体目か」
「あーっと、ひーふーみー……うん、そうっすね。あたしたちみたいな血生臭い戦闘系から普通の神父に転向する条件、それが百体の悪魔をぶっ殺すこと……今夜ので先輩はそれを満たしたことになるっす。――それでレイ先輩、本当に神父になっちゃうんすか?」
「そうだ。元々それが俺の目標だったからな」
俺が強く確固たる意志を以て頷くと、アイリはぷくーっと頬を膨らませてこちらを見上げてくる。
「……【鉄拳】のレイモンド、なんて物騒な二つ名を持つ先輩には神父なんて似合わないと思うっすけどね。大人しく教会で説教だとかやってる姿なんて、正直似合わないっすよ。それよりもずっとあたしたちと一緒に、伐魔官やってましょうよ~」
「嫌だ。俺をお前たちのような戦闘狂と一緒にするな」
可愛い子猫のように擦り寄って、甘い声でねだってくるアイリ。
しかし、その背に覗く巨大な三日月の如き大鎌が、彼女の物騒な本性をしっかと俺の瞳に映し出していた。
その大鎌は決して、単なる飾りではない。
数多の悪魔の血を吸い続け、果ては柄を握れば殺された悪魔の恩讐の声が聞こえてくるとまで噂されるほどの超絶ヤバい武器――それを高らかに哄笑しながら振り翳す、悪魔にとっての悪魔のような女。
それが俺の目の前で猫の皮を被っっている、我が末恐ろしい後輩の真実なのだ。
そんなものを持ってる同僚がそこかしこに平然と歩き回っている血生臭い職場が、俺ことレイモンドの今までの居場所だった。
――だが、これでようやく、こんなロクでもない職場から離れられる。
元より俺の目的は、あいつらのような殺伐とした空気とは正反対に位置するものなのだ。
じゃあなんで、好きでもない伐魔官なんてやっていたのかって?
そんなのは単純だ。
俺はちらりと、傍の後輩を見やる。
「なんっすか先輩?」
「なんでもないさ」
戦場においては小猫どころか獰猛な雌獅子と化す後輩だが、その見た目だけは本っ当に愛らしい。
しっとりとした黒色の衣装からは、少女の細身かつ年相応に成長した肢体の輪郭を明瞭に覗くことが出来る。その内々に散りばめられた金と白地のアクセントは、女性の清楚なイメージを引き立てることこの上ない。
更に胸元に下げられた銀の十字架が、彼女の信心深さ、可憐な真面目さを神々しく示していて――つまり、端的に言えば。
「……お前は可愛いよな、とふと思っただけだ」
「にゃっ! にゃにゃにゃ、なにを急に……まあ、先輩にそう言われるのは嫌じゃあないっすけど、あたしたちまだ十代だし、そういうことは早いというか……」
急に俯いてぶつぶつと何かを呟き始めたアイリを尻目に、俺は思う。
――修道女は可愛い、修道女は正義。
そう、修道女こそが――真に俺の愛すべき、エロティックな存在なのだと。
一見してそういった観念とはほど遠い彼女らだが、だからこそ、その奥に隠れる未知の神秘的な花園が蠱惑的に男心をくすぐってくると言えよう……この俺の考えは間違っているだろうか?
男子とのお付き合いなどお断り、清貧にして禁欲的な少女たち。
手が届かない、伸ばしてはならない――だからこそ、触れてみたくなる。
なんとももどかしい想いを抱かせてくる彼女と、是非お近づきになりたい。
そしてあわよくばイチャコラしたい。
その揺るぎない信念があるからこそ、俺はこんな殉職率の高い悪夢のような職場で頑張ってこられたのだ!
しかし、その野蛮な聖職も今日で終わりだ。
神父ともなれば、一つの教会の主となれる。
そこに好みの美少女シスターたちをこれでもかと集め、俺は念願の幸せを手に入れるのだ――ふ、ふははっ、ふははははっ!
え、それなら最初っから神父を目指していれば良かっただろうって? ……仕方ないだろ、平民出身の学のない俺にとっては分厚い聖書をちまちま一頁ずつ勉強するよりも、それで直接ぶん殴った方が効率的だったんだから。
そんなことよりも、シスターのハーレムとは実に素晴らしい響きではないだろうか?
俺は心の底からそう思うね。
そのためだけに一日一悪魔討伐をモットーに頑張り続けた俺にとって、実に相応しいご褒美と言っても過言ではあるまい。
だらしなく歪みかける頬を必死に引き締めながら、俺は建物の外へと出る。
まだまだ外は開けておらず、暗闇の中で月が天上に美しく輝いている。
突入した時からほとんど経っていない様子から、今日の悪魔は大した相手ではなかったのだろうな。
たった一、二時間程度で音を上げるとは下の下もいい所だ。
……だがそれでも一体は一体だ、きちんと討伐数に数えてくれなければ困る。
「おい、アイリ」
「ひゃっ! ななな、なんっすか先輩?」
「報告しておいてくれ、今日の悪魔はそれなりに強くはあったとな」
「え、まあ良いっすけど……そりゃ最低五人は喰い殺したって奴ですし、強いのは当たり前っすよ……?」
「ならば良い」
頷きを返してくれた素直な後輩に満足しながら、俺は彼女と別れ、薄暗く陰気臭い建物を後にした。
最後になにやらごにょごにょと言ってたのはよく聞こえなかったが、まあ、なぜかは知らんがやたらと俺に忠実なあいつならば変に報告を捻じ曲げることもないだろう。
これから先は二度と関わることがないであろう元仕事場のことなんかよりも、今は輝かしい未来に思いを馳せたくて仕方がない。
「さあ、これからが本番だ――」
待ってろよ、麗しのシスターたち。
俺の、いや俺たちの聖なる道はこれからだ――!