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8 討論

──残業によって生じ、若しくはこれによって得られた物または報酬は、残業を行った人間に正当に支払われるものとし、他者がこれを没収することはできない。ただし、他の法律に抵触する場合については、この限りではない。【悪性超過勤務の禁止および健康で人間的な最低限度の生活確保に関する法律(通称:残業禁止法)より抜粋】


「──ろ! 起きろよ、休恵!」


「ううん……」


 ゆさゆさと体をゆすられて、そしてゆっくりと休恵の意識が眠りの淵から浮上していく。なんだか瞼が妙に仲良しで、そして体のあちこちが凝り固まってミシミシと音がするのがいただけない。ついでとばかりに背中の方には鈍い痛みというか、妙にそこだけ張っているかのような奇妙な違和感もある。


「……労河原?」


「よかった……! お前、体は何ともないか?」


「……なんかめっちゃギシギシする」


 例えるなら、お酒を飲んでそのまま寝落ちしてしまったかのような。硬い床でそのまま熟睡した翌朝のそれと、今の気分は非常によく似ている。二日酔い特有のあの頭痛がないことだけが、唯一の違いだろう。


「……!?」


 ここで、ようやく休恵は気づいた。


「労河原……! 無事だったか!」


 目の前にいるのは、残業警察に襲撃されて連絡が着かなくなっていた労河原その人だ。パッと見る限り、ケガをした様子もなく、そして顔色も悪くはない。これだったらむしろ、休恵の方がよっぽど心配されるべき状態と言って良いだろう。


 問題なのは。


「よかった、心配したん……あ?」


「……気づいてなかったのか」


 休恵にも、労河原にも。手錠と足枷が付けられていて、体を自由に動かすことができそうにない。幸いにして全く動かせないというわけではなく、大股でなければ普通に歩けそうなくらいのものではあるが、腕を開いたり走ったり……そういったことは一切封じられている。


「なんだろうな、この……手錠の長いやつっていうの? 足用のもあるなんて初めて知ったよ」


「待て待て……それもそうだが、ここはいったいどこだ?」


 休恵も労河原も残業警察に捕まった。そこまでは間違いない。あの状況で正義のヒーローが現れるだなんて都合の良いことあるはずが無いし、もしそうだとしたらこうして手足を封じられているはずがない。


 だから、おそらくここは留置場か何か……つまりは、牢屋の類であるはずなのだが。


「……わからない。俺も気づいたらここにいた」


 飾り気のないホワイトボード。部屋の半分ほどにはちょっと届かないくらいの大きさの一体型のシンプルな机。いかにもそれらしいオフィスチェアは机にはもちろん、壁際の方にも数脚ほど折りたたまれてまとめられている。近くには、ハンガーラックとカレンダーも見て取れた。


 そう、端的に言うならここは。


「……会議室、か?」


「たぶん。窓が無いから外の様子はわからないけど……どこかのビルか何かだと思う」


 豪華すぎず、かといって簡素過ぎるということもない会議室。どこの会社にも一つありそうなそれだが、手錠と足枷をつけた人間を転がしておく場所としては不適切だ。


「俺が目覚めたのは一時間くらい前で……たぶん、変な薬を嗅がされた、と思う」


 労河原は、ぽつりぽつりと語りだす。


「本当に、本当に一瞬のことだったんだ。インターホンが鳴ったと思ったら、既にもう周りに武装した奴らがいて。咄嗟にお前に電話して窓から逃げようとしたけど、足を撃たれて。なんとか三、四人くらいは倒したけど、そのまま取り押さえられて……変な車に乗せられたところまでは覚えている」


「おい、撃たれたって……!? お前、そんな呑気している場合じゃ──!?」




「──大丈夫だよ。あれはゴム弾だ。当たり所が悪ければ骨が折れるかもしれないが、人を殺せるほどの威力はない」




 よく通る、はっきりとした声。あまり大きな声ではなかったというのに、その威厳と迫力のある声は確かにこの部屋の中に響き渡った。


 慌てて休恵たちが振り返ってみれば、いつの間にか閉ざされていた会議室の扉が開かれており、そこには一人の老人が凛とした佇まいで立っている。


「な、あ……!?」


「あん、たは……!?」


 真っ白になった頭。顔中に深く刻まれた皺。老人らしく体は枯れ木のように細く、手も指も、あちこちが節くれだっていて骨と皮のよう。体格で言えば間違いなく休恵達よりも劣っており、身長で言えば頭半分ほどは小さいことだろう。


 おそらく、筋力も持久力も。およそ身体能力と呼べる一切合切において休恵たちはこの老人に勝っている。取っ組み合いのけんかをしたのなら、まず間違いなく一分と経たないうちに叩きのめすことができるだろう。


 だというのに。


「──おや。私に会いたかったんじゃあないのかな?」


 休恵は、この人には勝てないと思ってしまった。


 労河原は、この人には逆らえないと思ってしまった。


 老人なのに、その人の背筋はしゃんと伸びていた。目には確かな意志の光が宿っていて、若者のそれよりもはるかに強い輝きを放っている。ともすれば獣の眼光のように強いそれのはずなのに、ギラギラしているわけではなくむしろ理知的な何かを感じさせるところが、休恵にはどうにも不気味に思えてならなかった。


「自己紹介が、必要かね?」


 静かな低い声──だけど、心臓を鷲掴みにされたように、心に直接びりびりと伝わってくる声。ただそこに立っているだけなのに、形容しがたい迫力が重圧感となって休恵たちの体を圧迫し、声を絞り出そうとしても奇妙な呼吸音が漏れるばかりで、どうにもならない。


 ──本当はその老人の後ろに武装した残業警察が数人、秘書のような出で立ちの男が二人ほどいたのだが、そんなことにすら休恵たちは気づけなかった。否、気づこうにも、本能的な何かで老人から目を離すことができなかったのだ。


「こういう風に名乗るのは、ずいぶんと久しぶりだが……」


 休恵は、休恵たちは知っている。その老人が誰なのかを知っている。


 いや、休恵に限らずこの日本に生きている人間なら誰でも知っていることだろう。下手をすれば幼稚園児でさえも知っているほどの有名人で、毎日のようにテレビや新聞にその顔が載っていて──そして、休恵たちがどうしても直接対面したかった相手なのだから。


 唖然としている休恵たちをよそに、老人はテレビの中のそれと全く変わらない顔で、ただ事実だけを述べた。


「私が今のこの国の総理大臣──勤堂(きんどう) 剛一郎だ」


 勤堂総理大臣。忘れるはずもない。だって休恵たちは、この人に直談判するために今まで活動をしていたのだ。


「さて。せっかくの機会だ──ここはひとつ、お互い本音で話し合ってみようか」


「総理!?」


 休恵たちが唖然としている間に。秘書の静止の声を一切無視して、勤堂総理はその高そうなスーツ姿のまま、床に腰を下ろして胡坐をかいた。


「な、な……?」


「どうした? 私に言いたいことがあるからあんな真似をしたのだろう? 本人が目の前にいる、今が絶好のチャンスだぞ」


「ほ、ほんもの……?」


 休恵も労河原も、今目の前で起きていることについていけなかった。


 甚だ不本意ではあるが、今の自分たちは反社会的な存在ということになってしまっている。だから、残業警察に追われる身になって──そして捕まってしまった。そこはまぁ、わかる。


 そして奇しくも、この謎の会議室で拘束された状態とはいえ再会できた──これもまぁ、わかる。休恵と労河原はコンビで活動していて、もはや運命共同体なのだから。


 だけど、だけどだ。


 いったいどうして、そこからいきなり総理大臣と対面することになるというのか。しかもそれだけでなく、総理大臣という国の顔とでもいうべき偉い人が、スーツが汚れるのも構わずに、はいつくばっている自分たちと同じ目線で──全く同じ目の高さで、自分たちの前であぐらをかいている。


 総理大臣と残業テロリストが、これから酒を片手に愚痴でも語り合うかのような雰囲気で、同じ空間にいる。それがどれだけ異常なことなのか、子供でさえもわかることだろう。


「ふむ。なるべく話し合いやすいように砕けた雰囲気にして見たつもりだったが。キミたちは、むしろ堅苦しいほうが好みなのかな?」


 しかし手枷足枷は解くことはできないと、勤堂総理大臣は淡々と告げる。


「私もあまり時間はないんだ。自らの意志もないただの目立ちたがり屋だというのなら、ここで失礼させてもらうよ」


 その物言いが、休恵の心を焚きつけた。


「……待てよ」


 睨み殺すような鋭い目つき。もはや憎しみも憎悪も何もかもを超越した、物理的圧迫感すら覚えるほどのギラギラした視線。関係ないはずの秘書の方がたじろぐほどの、休恵の気持ちの全てが詰め込まれたそれを受けた総理は。


「聞こうか」


 たった一言。そう答えた。


 たったそれだけで、会議室の中に重苦しく、そして肌がひりつくほどの緊張感に溢れた空気が満ちた。


「今すぐ……今すぐ! 残業禁止法を撤廃しろ!」


「なぜ?」


 問いに対する、至極尤もな返答。それが休恵の神経を逆撫でした。


「あんなものは間違ってるからだ! 働くことは国民の義務なのに、なんでたった六時間しか働けないんだ!? どうして残業することが殺人と同等の犯罪になるんだよ!? どう考えてもおかしいだろ!」


「……」


「現行のシフト制だってそうだ! 働く時間の長さばかりか、その時間帯さえも法律によって縛られている! 総理、あんたはおかしいと思わないのか?」


「なぜ? 働ける時間が定められている以上、社会経済を回すためにコンスタントに誰かが働いていなくてはいけない。だから法律で働く時間帯を定めている。理に適っているじゃないか」


「どこがだ! 二十四時間常に活動している生物は地球上で人間だけだぞ! 昼行性なら昼に活動して夜に休む! 夜行性なら夜に活動して昼に休む! それが自然のルールで、あるべき姿だ! どう考えても今の社会は生物として歪だろ!」


「客観性に欠けるな。二十四時間機能する便利で豊かな社会を築けたのが、我々のほかにはいなかったというだけの話だ」


「じゃあ、シフト制を採用したせいで起きている諸問題については……ッ!」


「それを採用する前は、もっと深刻で重大な問題が起きていた。欠陥があるとわかっている制度に戻す理由がどこにある?」


「でも……ッ!! かつては【九時五時】……! そういう制度だったって……!」


「それでは良くないから、私が変えた。いや、なるべくしてそうなった……淘汰されたというべきか」


 ”第一ラウンド”は、誰がどう見ても休恵の負けだった。話の内容も、その雰囲気も、何もかも。客観的に見て、今の休恵はわがままを言って喚き散らしている子供に等しく、そして勤堂総理はそんな子供を冷静に窘めている祖父のそれと非常によく似ていた。


「もっと簡単に話をしようか。私が残業を禁止しているのは──」


 しゅる、とネクタイを緩めて。表情を一切変えないまま、勤堂総理は休恵の目を真っすぐ見据えて言い切った。


「残業とは、危険思想そのものだからだ」


 自分の言葉に一切の疑いを抱いていないその姿に、休恵は何か末恐ろしいものを感じた。


「はぁ……? 危険思想? 残業が?」


「その通りだ」


「……さっきまでやっていたことを、ほんの数分長く続けることが、危険思想?」


「そうだとも」


 勤堂総理は、休恵と労河原のそれぞれと目をしっかり合わせてから、淡々と事実だけを告げるように述べていく。


「キミたちは明日を考えたことはあるかい? 生きてやりたいことはあるのかい? ……残業はね、そういった未来を全て奪う行いなんだ。だから私は、それを禁じている」


「そこだよ……!」


「そこ、とは?」


「やりたいことがあるか、だって……!? そんなのあるに決まってる! 当然だ! だけど、あなたが残業を許さないせいで全然できないんだろうが!」


「キミの言っていることが、よくわからない。残業禁止法が禁じているのは残業だけだ。個人のプライベートな行いについては、それが倫理道徳人道および法律に反しない限りは、制限されていない」


「だから、そこなんだよ!」


 上手く動かない手足を必死に動かして。何とか普通に座る体勢を整えた休恵は、噛み千切らんばかりに総理に顔を近づけて、そして言い切った。


「映画も見たい! キャンプにもいきたい! 欲しいものだってたくさんある……けど、金が無い! 金を稼ぐには働くしかないのに、法律がそれを許さない!」


「もっと賃金の良い職場に転職すれば解決する話では?」


「仮にそれができたとしても、それでみんなが救われるわけじゃない! 結局はパイの取り合いになる以上、そんなのは応急処置にすらならない!」


「……」


「なら! 一番手っ取り早いのがもっとたくさん働くこと……残業だ! どのみち金が無くて暇な時間を弄ぶくらいなら、働いた方が生産的だろう! 総理、あんたは若い貴重な時間を、ただ無駄にして過ごすことを是とするのか!?」


「その貴重な時間を、有効活用できていないだけにしか聞こえない。まさか物事の何もかもが自分の思い通りになるとは思っていないね? 時間は金に換えられ得るが、金で時間を買うことはできない。どちらが貴重で大事なのかは、説明しないとわからないかな?」


「だから! それが極端だって言ってるんだよ! 時間だけあっても、金が無ければ何もできないんだろう!」


「……金さえあればいいのかい? 金さえあれば……キミの言う、健全な明るい未来──希望に満ちた、やりたいことができる理想の社会になるのかい?」


「そうだ! 誰がどう考えてもそんなの明らかだ!」


 ”第二ラウンド”は、いくらか休恵が善戦していたのかもしれない。少なくとも第一ラウンドよりも休恵はしっかり話が出来ていたし、総理も耳を傾けていた節がある。普通の人間からしてみればかなり突飛なことを言っているかもしれないが、話としては真っ当で、筋もしっかり通っていたと言って良いだろう。


「であれば、やはり残業とは危険思想そのものだ。到底認められるものではないな」


「な……!?」


 だからこそ、そう言い切った勤堂総理のことが休恵は本気でわからなかった。


「なんで……どうして? どうして今の話で、残業が危険思想だってことになるんだよ……?」


「それに気づいていないから……と言っても、今のキミには通じないのだろうね。言わなきゃわからない、言ってもわからないとなれば……やはり、実際に」


「あの、すみません!」


 総理の話を遮って、労河原は大きな声を上げた。総理大臣の話を途中で邪魔するなんて、労河原の中で発揮した勇気の中では一番の物であった。


「どうしたのかな、労河原くん」


「総理……ひとつだけ。ひとつだけ、教えてほしいんです」


「……聞こうか」


 休恵に向けていた体を労河原の方へと向けて。勤堂総理は、視線で続きを促した。


「俺の親父、この前残業法違反で捕まったんです」


「聞いているよ。それをきっかけに、キミたち二人は私に直接残業禁止法を否定させようと画策していたんだろう?」


「……それもあります。けど、俺の場合は──もう一つある」


「ふむ?」


 それは、同志であるはずの休恵も初めて聞く話であった。


「総理。俺はあなたに聞きたかったんです。……俺の親父は、弟たち(こどもたち)へのプレゼントを買うために残業したんです。決して悪意や疚しい気持ちがあったわけじゃない。ただ単に、子供にプレゼントを贈りたかった……本当に、それだけなんです」


「……」


「横領だとか詐欺だとか、悪いことをするために金を稼ごうとしたんじゃない。ウチは子沢山で貧乏だから、せめて一回くらいはちゃんとしたクリスマスプレゼントを贈りたくて残業した……その気持ちが。どんな親でも持っているであろう、子供を愛する純粋なその気持ちが」


 労河原は、絞り出すようにして言った。


「……そんな気持ちは、悪なんですか? 人殺しと同じ罪なんですか? その気持ちの元に残業した親父は……法で裁かれるほどの悪人なんですか?」


 それをあなたの口から聞きたいと、労河原は黙したまま表情だけで語る。


 それに対する総理の答えは。


「──その気持ちは、素晴らしいものだ。純粋で美しい、尊ぶべき気高いものだ」


「……だったら!」


「──だが、残業は悪だ。決して許されざる罪だ。そして残業禁止法を犯したキミの父親は、紛れもない極悪人だ」


 総理の顔は、一切変わっていなかった。労河原の話を聞いても、眉の一つも動いていなかった。親が子を思う気持ちは純粋で尊いものだと言ったその口で、しかし残業をする人間は極悪人だと言い切ったのだ。


「そん、な……」


 この段階で、もう。


 この総理の口から残業禁止法を否定させることなんて不可能ではないかと、休恵はほんのちょっぴりとは言えそう考えてしまった。


「さて。言いたいことはもう十分に言えたかな?」


「ま、待ってくれ……! いや、待ってください……! まだ俺達には、やるべきことが……!」


「──それはキミたちの都合だろう? 私には関係ない」


「ぐ……ッ!」


 正論。誰がどう言い繕っても、今の休恵たちは法律を犯し、社会に混乱を持ち込もうとした残業テロリストだ。本来であれば問答無用で豚箱にぶち込まれているはずの人間なわけで、こうして総理が直々に会話をしてくれるだけで奇跡的なことである。


 ちょっと意外だったのは、そんな「奇跡」がまだ終わっていないという所であった。


「なんだかんだ言ったがね。明るく楽しい、希望のある未来──キミたちが目指そうとしているその社会そのものは。その方向性だけは、私と同じなんだよ」


「……」


「その点だけを鑑みれば、私とキミたちは同志だ。仲間と言って良い。それどころか、こうして実際に行動に移す行動力と積極性、その意志の強さには好ましいものを感じている」


「……え?」


「最近の若者にはないその気概は──これからの時代を引っ張っていくに足り得る新たなる力だ。手段ややり方こそ誤ってしまったが、逆を言えばそれだけでしかない」


 故に、と総理は続けた。


「──キミたちに、チャンスを与えよう」


 総理の目配せ。後ろに控えていた残業警察が休恵たちの体を引っ張り上げ、そして椅子に座らせる。当然のように総理も席について、そして秘書が何やら書類を机の上に置いた。


「言わなきゃわからない、言ってもわからない。だから行動に移したのがキミたちだったね──私も、それに倣わせてもらうよ」


 言わなきゃわからない、言ってもわからない。


 ならば。


 実際に体験すれば、その危険性がよくわかる。


「これ、は……?」


「──残業社会シミュレーションプログラム。この日本で唯一残業が特例的に許されているその疑似社会空間で、シミュレーションとして実際に働いてもらおうか」


 残業社会シミュレーションプログラム。休恵たちの目の前に置かれたその書類は、そんなプログラムの説明が記載された資料と、それに参加することに対する同意書と誓約書であった。


「そしてこのプログラムを終えた後──残業のある社会を体験した後、もう一度同じように話をしよう。このプログラムを体験して尚キミたちの意見が変わらないというのなら、この生き永らえてしまった老いぼれの最後の仕事として、より素晴らしい別の未来を実現するための力になろうじゃないか」


 どうして残業が危険思想として扱われているのか。


 どうして残業禁止法が制定されることになったのか。


 残業のその意味を、その真実を。


 勤堂総理は、実際にその眼で見て来いと言っている。


「こ、れは……残業が許されている社会? 俺達が理想とした社会を、疑似的とはいえ体験できる?」


「ああ。だけど、引き返すのなら今の内だ。プログラムが始まったら、終了するまで途中退場は認められない。給金は相応の物が支払われるが、泣こうが喚こうが、逃げることは許されない」


「いや……! いやいやいや……! 逃げる理由なんてどこにもない……! まさに理想としていた社会だ……! まさかこんな、ここで残業が体験できるだなんて……!」


「……これは純粋に、心からの忠告(・・)だけどね。あんな地獄(・・)を、キミたちみたいな若い世代が体験する必要なんてない。後悔したくないなら、今すぐこの紙を破り捨てるんだ」


「はぁ……? たくさん働けてたくさん稼げる社会が地獄……? 総理、あんたいったい何を言ってるんだ……?」


「そ、そうですよ! 好きなだけ稼げるんですよ!? お金がたくさんあるのなら、それでもう幸せじゃないですか。それこそまさに、俺達の求めていたユートピアですよ!」


「……そうか、ユートピアか」 


 はあ、と悲しそうにため息をついて。


 そして総理は、宣言した。


「──そんなに言うなら、キミたちを招待しよう。キミたちの理想が行きつく、その果てに」

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