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7 残業テロリスト

──二人以上共同して残業を実行した者は、すべて正犯とする。【悪性超過勤務の禁止および健康で人間的な最低限度の生活確保に関する法律(通称:残業禁止法)より抜粋】


「──よし、こんなもんかな」


 数日分の食料品を買い込んだ休恵は、のんびりと家へと至る道を歩いていた。


 労河原と一緒に住むようになってから、必然的に買い出しの頻度も、一度に買い込む量も増えている。お互いにある程度分担しているとはいえ、単純に今までの倍となったのだ。節約のために自炊を試みだしたこともあって、ここしばらく、休恵は買い物の旅にビニール袋が指に食い込むという苦痛に苛まされている。


「ふー……」


 あれから、残業禁止法の撤廃を訴える動画は休恵が思った以上の勢いで拡散されていった。いまやネットニュースでそれを見ない日はなく、賛成意見も反対意見も含めて、どこかで誰かがその在り方について議論を行っている。


 もちろん、公的な見解としては反社会的な内容の動画だ。サイト運営側から削除されるそれが後を絶たないが、同時にまた、その直後に誰かが保存していたそれがアップロードされるといういたちごっこが繰り返されている。動画を一つ消すころには関連動画が三つは上がって……と、その勢いはますます加速しているというのが今の状況だ。


「悪くない……」


 おまけにそんなネットの中だけのお祭り騒ぎが──少しずつとはいえ、現実にも浸食してきている。まだ倫理観に乏しく社会的な責任を負う立場でない中高生は、道すがら大きな声でネットに現れたヒーローを讃えているし、少し前だったら絶対に口にできなかったような残業の肯定を平然と口にしている。それがどれだけ本気であるかはともかくとして、そういうことを普通に口にしても珍しくないこの風潮こそ、休恵が狙っていたものだ。


「あと五日、か」


 計画の実行。すなわち、総理の講演会の日まであと五日。準備は恐ろしいほど上手く進んでおり、あとはもうその時を待つばかりである。いや、今のこの情勢を考えれば、休恵たちがわざわざそんなことをしなくとも、自然と残業禁止法廃止の流れになるのでは……と、そう思うことさえできた。


「……いや、俺たちがやらないと」


 やるのなら、確実に。誰よりもそれを望み、そして始まりを作った自分が成し遂げねばならない。中途半端なところで計画が途切れてしまえば、今まで抱えたリスクも、何もかもが無駄になってしまう。


「上手く言っている時こそ、気を引き締めて……む」


 休恵は、気づいた。


「……そういやトイレットペーパー、買うんだったっけ?」


 買って来いと言われたような気がする。元々大して備蓄は無かったうえに、ここ最近で使用量が倍になったのだ。そろそろ買わなきゃ大変なことになるぞ──と二人ともが自覚しており、じゃあ次の買い出しの際に買ってしまおうと話した記憶もある。


 ただ、労河原の方で買っておくと言っていたような気もしなくもない。


「……切らすのはヤバいよな、絶対」


 荷物はすでにいっぱいだが、幸いにしてドラックストアは帰路の途中にある。どうせ大した手間でもあるまいと、休恵は家にいるはずの労河原に電話をかけた。


「……」


 コールの回数、三回。


 ちょっと長めの間の後に、通話がつながった。


「労河原? あのさ、トイレットペーパーって……」


『──逃げろ、休恵ッ!!』


 電話の向こうから聞こえてくる、切羽詰まった様子の労河原の声。


「はぁ……? おい、いきなり何を……」


『奴らに感づかれた! 家の周りはもう囲まれてる! 踏み込まれるのも時間のもんだ──うわっ!?』


 ──ダダダダダ!


「おい!?」


 電話の向こうと──そして、数百メートルは先であるそこからほぼ同時に聞こえてきた銃撃音。あの日、あのオフィスビルで聞こえたそれと全く同じ音が、再び休恵の元に戻ってきた。


「まさか……! まさか!」


 感づかれた。奴ら。銃撃音。そして、休恵たちの計画。


 ここから導き出されるものは、つまり。


「おい! 返事しろ! 労河原!」


 必死な休恵の呼びかけ。それに対する労河原の返答は。


『逃げろ、休恵……! 残業警察だ……ッ! こいつらすでに、おま』


 途切れる通話。どこか遠くの方で鳴り始めるサイレン。 どことなくあたりがざわつき始め、なんだなんだと訝しそうにあたりを見渡す人間がちらほらと。


「……嘘、だろ? おい、だって、これからじゃないかよ」


 計画は完璧のはずだった。絶対にバレないように工夫に工夫を重ね、事実として今までバレていなかった。もし逮捕されるのだとしたらあの動画をアップロードした【正義の第三者】たちであり、それは決して休恵たちではない。


 休恵たちは動画を作りはしたが、あくまで個人で楽しむためのもので、それをたまたま公共の施設に置き忘れてしまっただけ。ちょっと本格的につくったSF作品であり、決して本当にそういうことを思っていたわけじゃない。つまり、逮捕されるような理由はどこにもない。


 講演会のジャックについても、まだやってない。やってもいなことは犯罪じゃないし、そもそもアレは休恵と労河原だけの秘密である。絶対に漏れようがない話なのだから、やっぱり何も問題ない。


 ──そんな、現実逃避にも似た弁明が休恵の頭の中で繰り返されている間に。


「──我々は残業警察だ! ここに、残業教唆および残業扇動の実行犯……すなわち、残業テロリストが潜伏しているという通報があった!」


「一般市民の方はパーソナルカードを提示のうえ、直ちに避難してください! 繰り返します、一般市民の方は──!」


「!?」 


 それ(・・)を顔に出してしまったのは──明確に反応してしまったのは、休恵の最大の失敗であった。


「いたぞ、あいつだッ!」


「対象を確認! これより確保に移ります!」


 武装した人間が、明確な意思をもって自身に向かってくる。普通に生活していたらまず体験しないようなその場面に、休恵の体は硬直する。唯一にして幸いだったのは、彼らと休恵との間に十分すぎるほどの距離があったことだろうか。


「……くそっ!」


 二拍。日常だったらあまりにも短く、そして今この瞬間においてはあまりにも長い時間をかけて、休恵の脳ミソが立ち直る。


 もう、議論の余地も考える余裕もない。相手は明確に休恵を狙ってきていて、そして腹立たしいことに法的な根拠もあるのだろう。周りにいる人間は残業警察が狙っている自分のことを何か恐ろしいものであるかのような怯えた目で見ていて、そこには間違っても、この歪な社会に真っ向から対抗する気概があるようには思えない。


 わかりやすく言えば──この瞬間、誰もが休恵のことを社会に仇なす危険人物として認識していた。


「捕まってたまるかッ!」


「逃げるなぁッ!! 大人しく投降しろッ!!」


 そんな怒声を背中に受けて、休恵は全力で走り出した。



▲▽▲▽▲▽▲▽



「はあ……っ! はあ……っ!」


 はっきり言って、この現代社会において「逃走」というのは限りなく不可能に近いものであった。


 まず、公共交通機関は使えない。電車、バス、そしてタクシーも。顔が割れているのはもちろんのこと、良くも悪くも決まった通りに動くそれらは待ち伏せされるリスクがあまりにも大きい。どんな時間でも常に動いているというのはありがたい話だが、言い換えれば監視の目も常に働いているということになる。


「探せ! 奴は必ずこの近くにいるはずだ!」


「駅も料金所も全て押さえてある! 少しずつ包囲を縮めれば必ず網にかかるぞ!」


 故に、休恵は自らの足で逃げるしかない。どうにかこうにか最初の追手こそ撒くことができたものの、逃走のためのルートを潰されたとあっては、結局は時間稼ぎにしかならないのだ。


「しつこい、なあ……ッ!」


 逃走開始から、早三時間。休恵は残業警察の姿を見かけるたびに慌てて近くに隠れる……といった、もはや追い詰められたネズミに等しい行為を繰り返し、こうしてどこかの公園の茂みの中に潜んでいる。


 これからますます、夜は深くなってくる。街灯の明かりは煌々としているが、それでも少しは夜の闇がその身を隠す手助けになってくれることだろう。その時が来るまでこうして身を潜め、なんとか隙を突いて包囲網を突破するしか……もうそれしか、休恵に残された手立てはない。


 問題なのは、先ほどから明らかに残業警察を見かける頻度が高くなったことと、夜の闇というあまりにも頼りないものしか希望が残されていないことだろうか。もっと言えば、仮にこの包囲網を抜けられたところで、休恵には逃げる場所も当てもない。


「……」


 喉がからからで、足が文字通り棒のよう。息は荒く、体力もほとんど使い切ってしまった。この状態で見つかってしまったら、とてもじゃないが逃げきれない。


 それでも、休恵は捕まるわけにはいかなかった。


「まだだ……! まだ、始まってすらいないんだぞ……ッ!」


 どうして自分がこんなふうに追いかけ回されなきゃいけないのかと、休恵は心の中だけで呪詛の言葉を吐く。間違っているのは残業を許さないこの社会のはずで、自分は本来あるべき姿を取りもどそうとしているだけだ。みんなの理想が叶うユートピアを作ろうとする人間を、いったいどうして犯罪者扱いするのか。


 休恵は別に、何か犯罪をしているわけではない。正確に言えば、そんなことをするつもりは一切ない。


 盗みをしたわけでも、殺しをしたわけでもない。詐欺をしたわけでも、恐喝をしたわけでもない。ただ、ほんの少し……ほんのちょっぴり、いつもより多めに働きたいだけだ。その行為自体は咎められるどころか国民の義務であるのに、なぜその量が少し多いだけで犯罪者扱いされなくてはいけないのか。


 そう、おかしいのだ。


 ただ働きたいというだけで──なんで休恵は、武装集団に追われる身になっているのか。人を傷つける意思もない、丸腰の一般人が相手だというのに、どうして政府は凶悪なテロリストを捕縛するかのような態勢で動いているのか。


「おかしいんだよ……ッ! みんな、頭おかしすぎだろ……ッ! なんだよ残業テロリストって……! 頭沸いてんのか……ッ!?」


 汗と泥にまみれ、ドブネズミか何かのように茂みに隠れているのは、ただの一般人だ。そんな一般人を銃をもって集団で何時間も追いかけているのが、この国の政府だ。


「くそ……!」


 おそらく。労河原は既に残業警察に捕まってしまったことだろう。きっと無事だ──なんて可能性は休恵はとっくに切り捨てている。そんな小さな希望を信じない程度には休恵は大人で、現実主義者だ。


「助けなきゃ、な……!」


 だけど、労河原は同志だ。腐っても国の機関である残業警察が、労河原を殺すことはないだろう。留置場から刑務所に護送される瞬間などを狙えば、救出するチャンスは決してゼロではない。


 休恵は現実主義者だ。奇跡みたいな希望はばっさり切り捨てるが、言い換えれば勝算があることならやってのける人間であり、そのための意志の強さも持ち合わせている。


「落ち着け……やるべきことを、考えるんだ……」


 まずは逃げ延びる。どうにかして時間を稼ぎ、これからのことを考える猶予を作る。これが喫緊の第一目標と言って良い。


 次に中目標。なんとかして反撃の準備を整える。ここまで事が動いてしまった以上、もう止まることなんて出来るはずがない。幸いにも、例の動画は全国的に拡散しているわけで、表立ってそれを表明していないだけで賛同者──シンパはあちこちにいるはず。彼らを頼って、着実に準備を進めればいい。


 普通だったら、見ず知らずのヤバい奴を匿ったり援助したりなんてしないだろう。だが、休恵が残業テロリストとして全国的に指名手配がされているというのなら、この顔だって公開されているはずだ。政府の動きを、逆に利用してやればいいのだ。


 最後に大目標。自由に残業することが合法化された社会の実現。この実現をもって労河原の罪を帳消しにすることができれば最高だ。もちろん、出来れば労河原を救出してから最後の締めを行ったほうが、やり方としては確実だろう。


 残業警察に囚われながらも生還し、レジスタンスの代表として最前線で戦うリーダー。おまけにバックグラウンドとして、肉親が理不尽な残業罪で逮捕されたともあれば、この戦いにおけるシンボル・マスコットとしての価値は申し分ない。労河原を旗頭にすれば、感化された人間がきっと自分たちに合流して、政府も無視できない一大勢力になることは間違いない。


「そうだよ……! そうだ、それだよ……! もう、ほとんどチェックメイト直前じゃないか……!」


 一瞬の間に休恵の頭の中に広がっていく絵図。全ては何もかも思い通りで、今はほんのちょっとのイレギュラーが発生しているだけ。


「ははは……! 俺の、俺達の計画は完璧だ……! ここまで、誰もできなかった流れを作ることができてるんだ……! この場さえ乗り切れれば、あとはもう……!」


 だから、今この瞬間だけ何とか耐え忍べば。


 休恵の勝利が、揺るがないのだ。


「──誰だ!?」


 運が悪いのか、はたまた運命か。


 休恵が決意を固めたまさにその瞬間──何かに感づいた残業警察が、休恵のいる茂みを真っすぐ見つめてきた。


「……気のせいか?」


 銃口を油断なく茂みに向けたまま、その残業警察は訝し気に首をひねる。この暗い公園だ、自分が感づいたそれが果たして本当だったのか、今更ながら気になったのだろう。大の大人が茂みの中に何て隠れるはずが無いし、鳥か猫だと思うのが普通のはずだ。


「……さすがにちょっと、神経質になりすぎていたか」


「──いいや、良いカンしてるよ」


「!?」


 黙っていればそのままやり過ごせそうだったというのに。


 休恵は、不敵に笑いながらその茂みから姿を現した。


「息を殺して潜んでいたはずなんだけどな。やっぱり、この気持ちは抑えきれそうにない。あんたが感じたのは、きっとそういうものなんだろうよ」


「お前……残業テロリストの休恵だな!?」


 まさか、こんなにも堂々と姿を現すとは思ってもいなかったのだろう。素人の休恵が見てわかるほどにそいつは動揺していて、銃口の先が微妙に震えている。


 あるいは単純に、一見丸腰に見える休恵には未知の脅威が潜んでいるはずだと、理性的に判断した結果なのかもしれない。


「残業テロリスト……ね。そんな名前で呼ばれるのは甚だ不本意だが……まぁいい」


「動くな! こちらの言うとおりにすれば危害は加えない! だが、それ以上動いたら発砲するぞ!」


「へぇ、発砲ねェ……?」


 銃を向けて脅されても。


 今の休恵には、何の恐ろしさも感じなかった。


「──いったい何の根拠を以て人を撃つんだ? なぁ、俺がいったい何をやったって言うんだ?」


「残業煽動、残業教唆、残業テロ等準備罪、その他いくつかの罪状だ! お前があの映像を作った張本人だということも調べがついている!」


 銃を向けたまま、休恵の罪状を事実として告げていくそいつに対して。


 休恵は、表情を変えることなく一歩、また一歩と近づいた。


「……だから?」


「……は?」


「だから、それがどうしたっていうんだ? いったいどうして、俺は銃を向けられなきゃいけないんだ?」


 心の底からの疑問。それをただストレートにぶつけただけの休恵に対し、その残業警察は見るからに困惑していた。


「いけない? なんで? 法律がそうだと決めたから? ……なんでダメだと決めたんだ? その理由は?」


「なんだお前……頭おかしいのか……?」


 呆然と、あるいは困惑しているのがフルフェイスマスク越しでもわかって。休恵はなんだか、可笑しくてくすりと笑ってしまった。


「おかしいのはそっちだろ? なぁ、働こうと……真っ当に社会に貢献する時間を増やそうとしているだけの人間に、お前はいま──何をしているんだ?」


 一歩、二歩、三歩。


 当たり前のようにその距離を詰めて、休恵は自らその銃口を心臓の所に当てて見せた。


「おま──!?」


「ほら、撃てよ」


 文字通り、メンチを切るようにして。


 ぎょっとするほど顔を近づけて、休恵は淡々とその事実を述べた。


「撃てよ。撃ってみろよ。ただ働こうとしているだけの人間に……さぁ、その引き金を引いてみろよ」


「う……」


「無抵抗で、丸腰で、国民の義務を果たそうとしている人間を」


「ひ……っ!?」


「お前は撃つんだ。それがお前らがやっていることだ。それが……お前らが掲げている正義だ」


「や、やめ……!」


「逃げるな」


 ふう、と一息ついて。


 休恵は、そっとその銃身に手をかけた。


「──働いているだけの人間を! 撃って良いワケねえだろうがァ!」


 自分でもびっくりするほどに、休恵の体はスムーズに動いた。全力で銃身を巻き取るようにして引っ張り、その射線から逃れると同時に相手の死角に回り込む。ひっつかんだそれをぐるりと回しこめば、手首が変な方向に捩じれるのを嫌った相手が堪らずそれを離して……気づけば、休恵の方が相手の頭に銃口を突き付ける形になっていた。


「お前らみんな頭おかしいんじゃねえか!? なんで残業しようって考えるだけで銃を持ち出すことになるんだよ!? どうしてそれだけで人を撃とうと思えるんだよ! これはそんなに軽いもんじゃねェだろうが!」


 人を殺した相手に銃を向けるのならわかる。人を殺そうとしている相手に銃を向けるのもわかる。銃に限らず、何か凶器を持っていたり、明確な悪意の元に人を傷つけようとする相手に武力を向けるのなら、休恵にだって理解ができる。


 だけど、休恵は違う。休恵は単純に、仕事をしたいだけ。許されていることを、ほんのちょっぴり長くやりたいだけで、そこに悪意も害意も、危険性も何もないのだ。


 それなのに、銃を向けるという──そうであれば銃を向けても良いと許容している残業禁止法は、やはり休恵にはおかしいと思えてならなかった。


「早まった真似は止めるんだ……! 残業法だけでなく、刑法までもを犯す気か……!?」


「仕事をしようとしていただけの人間を撃とうとしたのは、お前たちの方だ。国民の義務を暴力を以て犯そうとしているのは、お前たちの方だ。俺は単純に……撃たれそうになったから自身の身を守ったに過ぎない」


「そんな詭弁が! 通じるとでも思っているのか!?」


「詭弁じゃない、事実だ」


 武器は休恵の手の中にある。そしてもちろん、目の前のそいつの命も休恵の思いのままだ。


 そう、丸腰で武器の一つもない休恵は──自らのその意志の強さを以て、武器を持つ悪の権化に打ち勝ったのである。


「ええと、なんだったっけな……言うとおりにすれば危害は加えない、だったかな? すごいよな、対等で優しさのある言葉のように見えて……その実、傲慢以外の何者でもない。自分でやってみて、改めて思ったよ」


「くっ……!」


「とはいえ俺は、まともな判断ができる人間のつもりだ。約束が守れる人間であればそれを尊重するし、そうでない人間なら……それ相応の対応を取るつもりでいる。命の保証はするが、危害を加えないってのは……お前ら相手には、保証できない」


「……要求は何だ?」


 両手を上げ、前を見据えたままそいつが問いかけてくる。


 逃走用の車両か、あるいはヘリコプターか。もっとアナログに、このまま身包みを剥いで残業警察として検問を突破するのも悪くない。


 どれを選んでも、どの方法でもメリット・デメリットの双方があるように思えるが、しかし少なくとも、先ほどの追い詰められた状態に比べれば間違いなく今は優位に立っている状況であり──休恵のとれる手段が、選択肢が大いに増えた状況でもある。


 そう、確認するまでもなく休恵には追い風が吹いている。そして、この選択次第で状況が大きく変わることはほぼ間違いない。


「そうだな……じゃあ」




「──護送用の車両を一台、よろしくね」


「ぎゃあッ!?」




 背中に感じた、強烈な痛み。何か太くて鋭い針のようなものが血管に流し込まれて全身に一気に広がったような、そんな耐え難い痛み。


 今まで生きてきた中で一度も経験したことの無い未知の激痛。休恵の目の奥で光が爆発し、腕が、足が、指が脳の制御から離れてびくびくと痙攣する。




「その意志の強さと、土壇場での胆力は好きなんだけどな──休恵ちゃん」




 意識を失い、倒れ伏していく休恵の耳に最後に聞こえたのは。


 どこかで聞いた覚えのある、親しみのある声だった。

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