6 ユートピアを目指して
──人を教唆して残業を実行させた者には、正犯の刑を科する。教唆者を教唆した者についても、同様とする。【悪性超過勤務の禁止および健康で人間的な最低限度の生活確保に関する法律(通称:残業禁止法)より抜粋】
「おつかれさまです、古沢さん!」
「おーう、おつかれ」
馬定時を告げるアナウンスと共に、休恵は古沢に業務終了の旨を告げた。もちろん、定時前には完璧に仕事の片づけを終わらせており、あとはもうカバンを掴んでタイムカードを切るのみである。
「なんか休恵ちゃん、妙にご機嫌? 生き生きしているというか、目に光が宿っているというか……」
「そうですかね? ……しいて言うならちょっとやりたいことが見つかりまして。さっさと家に帰りたい気分なんですよ」
「うむうむ、充実したプライベートを送っているようでおじさんは嬉しいよ……とはいえ、あまりはしゃぎすぎて羽目を外したりするなよぉ? 借金の相談とかされても、俺じゃどうにもならないからね?」
「あはは、そんな心配必要ないですって……それでは!」
スキップしそうなほど上機嫌に退社していく休恵を見て、古沢はどうにも座りが悪いというか、なにかしっくりこない気持ちになった。
ついこの前に残業犯罪の現場に居合わせて以来、休恵は精神的なショックを受けて心ここに非ずという状態だった──というのが古沢の見解だ。この道何十年の自分でさえ少なくない動揺があったのだから、たかが三年程度しか社会を経験していない若造ともなれば、その衝撃ももっと大きかったと言って良い。
なのにこの数日、どういうわけか休恵の表情が輝いている。もしかすると入社してから初めて見せたと言って良いくらいの笑顔を見せている。事件直後は確かに暗い面立ちだったのに、いつのまにやら元の休恵に──いいや、以前よりもはるかに精神的なコンディションが整っているように思える。
「配置換えで仕事のやりがいを感じ出した……ってわけじゃないよなあ」
元々、休恵は現在の仕事に不満を抱いていた。もっと難しい仕事をこなしたい、もっと仕事をやりたい……と、そんなあってはならない意欲を心の中で抱えていた。そんな休恵の姿に危うさを覚えたからこそ、古沢は休恵を半ば無理やり自分の下につけたのだ。ある意味では、今の休恵の状態は古沢が望んでいたものではある。
ただ、それにしてはタイミングがおかしいのだ。いくらなんでも、立ち直るのが速すぎるように古沢には思えてならなかった。
「プライベートの方でなにかあったのかね……それこそ、良き友人が立ち直らせてくれたとか。なんにせよ、休恵ちゃんが元気になってくれてよかったよ」
よかったんだよな──と、古沢は自分に言い聞かせる。以前に比べて少しだけ乱れた休恵の机を一瞥してから、古沢はカバンを手に取ってオフィスを後にした。
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「ただいま、休恵」
「遅いぞ、労河原!」
夜の20:30。あの日と同じく休恵のアパートを訪れた労河原は、部屋の主からかけられたその言葉に、思わずくすりと笑ってしまった。
「羊定時は20:00だぜ? 三十分で来たんだからぼちぼちって感じだろ?」
「ふふん。今の俺達には一分一秒だって惜しいんだ……ほら、見ろ!」
「待て待て、手洗いとうがいをしてからな」
あれから。労河原はこの休恵のアパートに、居候のような形で住まわせてもらっている。元々住んでいた実家周辺では今も休みなくマスコミたちがうろついているため、労河原としても辟易していたのだ。休恵のこの申し出は労河原にはとてもありがたいことであり……同時にまた、これからの「計画」のためにも都合が良いことであった。
「見ろよ、コレ……! やっぱりみんな、この社会に不満を抱いているんだよ!」
「おお……!」
手洗いとうがいを済ませた労河原は、嬉々として休恵が見つめるそれ……パソコンの画面を見る。
そこにはある動画投稿サイトにおけるオススメ動画の一覧──具体的には、注目度が急上昇している動画が大きく表示されていた。
「【残業禁止法は違法!? 矛盾した法律をそのままにしていいのか!? 衝撃の事実を緊急公開!】……たった三日でもう五十万回も再生されてる……!」
「ああ……俺達が作った動画だ!」
画面の中で、シンプルな造りのバーチャルアバターが現行の残業禁止法の問題点を次々に指摘し、そして画面の前の人間たちにその在り方を問いかけている。おすすめの関連動画には、その動画に対する社会派コメンテーターの意見動画や、音声ソフトを用いた動画解説動画などなど……休恵たちが作った動画をもとに作られた更なる動画が、どんどん拡散されていっている。
いわゆる、お祭り状態。話題が話題を生んで、派生コンテンツがどんどんできて。ここまでくるともう、ネットから削除することは永遠に不可能だろう。
「……これ、ちゃんとしたアカウントで正規に投稿していたら、どれだけ広告収入あったんだろう」
「目先の端金に囚われるなよ、労河原。そんなことしたら、真っ先に俺達が捕まっちまう」
センセーショナルでショッキングな、タブーを犯していくその動画。内容が内容だけに、白か黒かでいればグレー寄りの黒と言ったところで、本来ならば投稿しただけでアウトになりかねない代物だ。少なくとも、子供のいたずらで済まされるレベルのものではなく、だからこそ──そんなリスキーな魅力に惹かれ、ここまで再生回数が伸びたのだろう。
「勇気ある政府関係者からの内部告発……だっけ?」
「ああ。そういう態にして、この動画が入った記録メディアをあちこちにバラまいた。駅のロッカーの中、本屋の雑誌の中、デパートのベンチに、ポストの中……それこそ、善意の第三者が上手く回収してくれるというシチュエーションらしく、な」
偶然それを見つけた第三者。普通だったら怪しげなそれをわざわざ手に取ることなんてないだろうが、もしそこに助けを求めるメッセージが付いていたら。「匿名で内部告発をしようとしている、大っぴらに動けないからどうかこれを公開してほしい」……そんな、ドラマや映画のワンシーンみたいなメッセージが添えられていたら。
「本来だったら良くて無視、悪くて通報ものの怪しいデータを……正義の代行者として、俺達の代わりにアップロードしてくれるってか。……すげーよな、よくこんなの考えついたよな」
「どうせみんな暇で退屈な日常に飽き飽きしているんだ。そんな中で降ってわいた非日常で、やっていることが【正義】だ。誰か一人は必ずそれに食いついて……」
「……」
「最初の一人が現れれば、一歩を踏み出せなかったやつもそれに追従する。一人でやるのは怖くても、他の人がやってるなら怖くないってやつだな」
そうして休恵の目論見通り、ネットで動画が拡散されたというわけである。
「だけどな、労河原。そうはいっても内容がお粗末じゃ拡散までには至らない。みんなが共感しているからこそ、こんなにも話題になっているんだよ」
「残業禁止法の問題点か……正直、働きたくても働けないってことくらいしか、今まで考えたことも無かったよ」
休恵のパソコン画面では、ちょうどその問題点が簡素なアバターにより解説されていた。
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まず第一に、勤務区分制度──いわゆるタイムシフト制における扱いの違いが挙げられる。我々は二十四時間の内、たった六時間しか働くことを許されてなく、そしてその働いていい六時間も原則的には指定されている。龍定時の人間の勤務区分は08:00~14:00までの昼間であるのに対し、犬定時の人間の勤務区分は20:00~02:00の深夜であるなど、その処遇に歴然とした差があるのは明確だ。
このせいで、勤務区分が異なる人間とはあらゆる意味で交流を持つことができない。友人同士であっても勤務区分が異なれば会うことすら難しく、また夫婦、恋人であっても勤務区分が異なればすれ違いの生活となる。健康と発達・成長の観点から学生は原則的に龍、馬定時相当のいわゆる昼シフトで学業に勤しむが、親の勤務区分までそれに合わせてくれるわけではない。雇用の場面でもこの問題は顕著であり、募集している勤務区分と自身の勤務区分が合わないため、そもそも応募条件を満たせないという差別も発生している。
これに派生した類似の問題として、人材確保の困難が挙げられる。特にこれは医師、技師といった高度な技術・知識を要する専門職について、勤務区分による縛りのせいで安定したサービスが提供できない・サービスを受けることができないという問題である。高度で専門的な技術であるほどそれを有する人間は少ないため、全ての勤務区分において穴が無く人材確保をすることは困難であり、サービスを提供する側はもちろん、サービスの需要者でさえも、時間という物理的な理由でサービスを受けられないという差別である。
そもそもとして現行の六時間八分割制のタイムシフトは、二十四時間連続して安定した経済活動を行うために考案されたものである。また、一人が働く時間を制限することで、より多くの雇用を生み出すという目的がある。割り当てについても然るべき申請を行うことで自由に変更できるため、不公平・不平等はないということになっている。
しかし事実として、前述のとおり当初の目的が達成されているとは言い難く、このタイムシフト制は崩壊していると言わざるを得ない。また勤務区分の変更についても、人気のある区分への変更が殺到し、年単位の順番待ちとなっている例が後を絶たない。
指摘されるべき問題はまだまだあるが、ここで一つ、実際の事例からその問題点を洗い出していく。
これは平誠三十年に実際に起こった残業法違反事例である。当時三十五歳だった製造工場に勤めるAは、客先からの要求納期に応えるべくシフトの範囲内での業務を行っていた。定時間際になって引継ぎ準備をしていたところ、製品を運ぶコンベアの部品が長時間稼働および過積載により滑落していることを発見。放置すれば損害および作業員の安全に関わり、しかし対応をすれば残業となる場面で、Aが行ったのは──
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「……この短時間で、よくもまぁこれだけちゃんとしたのを作れたよな」
「それだけこの残業禁止法には不備があるってことだ。……見ろ、俺が挙げた問題点以外にも、いろんな問題点がどんどん挙げられている。この流れはどんどん加速していくぞ」
画面を真っすぐ見据えたまま、ギラギラした瞳の休恵は言い切った。
「おかしいんだよ。どんなに能力があっても、どんなに意欲があっても、たったの六時間しか働けないだなんて。その時間まで指定されるだなんて」
「……そう、だな」
六時間しか働かせてもらえないことの弊害。それを実現するために整備された仕組みの数々。元々が歪だからこそ、無理やり帳尻を合わせようとして……それが余計に不便や不平等を引き起こしているのだと休恵は主張する。
労河原自身は、正直なところ残業禁止法についてそこまで深く考えたことは無かった。生まれた時から決まっていたことだから、それの無い社会がどうなっているかなんて、想像したことすらなかった。動画で指摘されているタイムシフト制の問題点だって、言われてみれば確かに頷けるものの、元々がそういうものだから今まで疑問に思ったことすらなかった。
「やっぱ休恵、お前ってすげーのな……物の捉え方が全然違う。当たり前のことに疑いを持つって、相当難しいことだぞ」
「よせよ。たまたま今回が俺だったってだけで、きっかけさえあればみんなすぐわかることだ。それどころか、実際はわかっていて言えなかっただけのやつもいるだろう。それよりも……」
「うん?」
「これは計画の第一段階に過ぎない。次こそが一番大事だって言うのはわかってるな?」
「ああ──そりゃ、もちろん」
残業に関する疑惑を広げ、現行の体制に疑問を抱かせる。今回の動画が拡散したことで、計画の種まきが終わり、そしてその芽が出たと言っても良い。 世の中全体にそういう風潮が広まってしまえば──少なくとも、今までにない価値観を植え付けることができたのなら。
次こそが、本番。その考えを少数意見から多数意見へ昇華させる。
「この日本で一番偉い人──そして、四十年前に残業禁止法を制定した張本人。勤堂総理大臣に直々に間違いを認めてもらう」
勤堂総理大臣。四十年前に史上最年少の若さで総理大臣になって以来、そのままずっと日本の総理大臣を勤め上げている傑物だ。彼が推し進めた数々の革新的な政策は、そのどれもが目覚ましい成果を上げ、この国の人間の暮らしを確実に良くしているという──言い換えれば、今の日本を形作った、誰もが歴代最高の総理大臣と認める人物だ。
そんな素晴らしい総理大臣が主体となって残業禁止法が制定されたことを、休恵は最初は信じられなかった。
「二週間後に行われる講演会。高級ホテルのホールを貸し切った、マスコミも大勢呼ぶかなりの規模のやつだ。この講演会で──」
「──講演会をジャックする。放送機材も何もかも。始まるのは総理の演説じゃなくて、俺達からの質疑応答……いや、場合によっては詰問になるのかな?」
休恵たちの計画。それは総理の講演会に乱入し、総理演説の場において直接残業禁止法の撤廃について訴えるというものだ。回り続けるカメラの前で、残業禁止法を制定した本人に直接矛盾点や問題点をぶつけ、その在り方について問いただすというものだ。
「顔と顔を合わせて。みんなが見ている前で、はっきりと。俺たちの問いに即答できなければ……即答以外のそれを選択してしまったら。そのときは、もう」
「残業禁止法が間違っていると、自分で認めたようなものだってか」
「ああ。国民だってバカじゃない。そんな姿を見てなおこのふざけた制度をそのままにする理由なんてない。どういう形であれ、確実に残業禁止法は廃止される」
「……都合よく、マスコミが全国放送してくれると思うか? 例え総理に認めさせられたとしても、途中でカメラを切られたら意味が無い。よくあるじゃないか、放送事故で画面が切り替わるやつ」
「余計な心配だな、労河原」
休恵は、せせら笑うようにいった。
「マスコミだぞ? ──数字が取れそうならそれ以外を一切無視してカメラを向ける生き物だっていうのは、お前が一番よく知ってるはずじゃないか」
「……たしかに」
「そんなことよりも、今はこの流れを維持して加速させることが大事だ。仕込みの方だってもっと進めないと。こればっかりはお前にしかできないんだからな」
「あいよ。俺の取柄は体力だけ……いや、それこそが俺の武器だ。お前が考えて、俺が動く。俺たち二人ならきっと、何だってできる!」
「ああ、そうだとも」
どこにでもある安アパートの小さな一室。そんな場所から、この日本の将来を大きく変え得る力が生まれようとしているだなんて、いったい誰が想像できることだろう。
大いなる自信と、肯定感。崇高な理念に心地よく酩酊した休恵は、ここにはいない同志たちに向かって宣言するように呟いた。
「絶対に作るぞ──好きなだけ残業ができる、俺達のユートピアを!」