4 残業警察
──残業を行った者は、死刑若しくは無期若しくは五年以上の懲役またはそれに準ずる刑罰に処する。【悪性超過勤務の禁止および健康で人間的な最低限度の生活確保に関する法律(通称:残業禁止法)より抜粋】
「これはこれは、古沢さん! どうもお久しぶりです!」
古沢に指示されてやってきたオフィスビル。休恵の会社のそれとは違い、全体的に造りが新しくておしゃれで小奇麗な感じがする内装。通された応接フロアのソファの柔らかさに驚いていた休恵の意識を現実に戻したのは、人のよさそうな笑みを浮かべた眼鏡の中年の声であった。
「やあやあ進藤くん、キミも元気そうだねえ!」
あえて確認するまでもないが、古沢と進藤はサプライヤと顧客という関係である。特に今回は古沢の方がサプライヤ側であるため、本来であればここまで来やすく声を掛け合える立場にない。それを可能にしているのは、古沢がこれまでに積み上げてきた実績と人柄の成せる業だろう。
「ほら休恵、お前も挨拶だ」
「あっ……休恵と申します!」
「はいはい、ご丁寧にありがとうございます……はじめましての方ですよね? 古沢さんもとうとう後継者を探す年ですか」
「あはは、そんなところ。結構見どころがある有能な若人だからさ。これからちょっとずつ鍛え上げて、次の世代のポスト俺に仕立てようって寸法よ」
「なるほどなるほど……」
数か月ぶりとなる名刺交換を、体をガチガチに固まらせたまま休恵は行った。名刺入れから名刺を取り出すのに少し手間取り、そしてたどたどしい手つきで進藤の名刺を受け取ってから、そういえば名刺を掴む指の位置ってあっていたっけ──と、今更なことを思い出す。
休恵にとっては幸いなことに、進藤はそういったマナーにはうるさい人間ではないらしい。むしろ、場慣れしていない──初々しさを感じる休恵の動作を、にこにこと懐かしそうに眺めている。
「見ての通り、まだまだこういう場には慣れていない……というか、実はついさっき配属されたばかりでね。ここなら肩慣らしにちょうどいいかなって、連れてきたんだ」
「ちょ、古沢さん!?」
「ははは、光栄ですよ。古沢さんの期待の若手の成長の助けになるのなら。……ここだけの話、実は僕も若い頃は古沢さんにだいぶお世話になってねえ。ちょうど僕があなたくらいの年齢で、古沢さんが僕くらいの年齢の時だったかな。……あはは、なんだか懐かしいや」
「そういえば、もうそんなに経つのか……おっ? もしかしてこれって、熱い世代交代のワンシーンってことになるのか? ほら、マンガとかでよくあるじゃん。主人公がさ、師匠や恩師の孫の先生になるってやつ」
こういうくだらない話をできる程度には互いに信頼感がある。そして古沢は、他社の人間であろうといろいろ気にかけていたらしい。いろいろミスをフォローしてもらっただとか、こっちが悪いのに融通を聞かせてもらって助かっただとか、あるいは最近は問題が起きないせいで会えなくて寂しかった……などなど、井戸端会議のおばさんも真っ青な勢いで話の花が咲いていく。
「あの、その、ここって一応取引先ですよね……? グループ会社とか、関連子会社とかじゃないですよね……?」
「そうだねえ。正直、相手が進藤くんじゃなきゃ俺だって余所行きの顔をしてるよ」
「私も相手が古沢さんじゃなきゃ、もっとこう……威厳を醸し出すようにしますね」
「言うねえ、若造が。初めての時はガッチガチで噛み噛みで、おまけに新城のスーツにお茶ぶちまけたくせに」
「ふふん、今となってはそれすら懐かしい思い出として笑い飛ばせますからね」
結局のところ、ビジネスに大事なのは信頼関係とコミュニケーションなのだろう。お互いに腹を割って話し合えるからこそ、より良い取引ができるのだ。お互いに気心が知れているからこそ、何かあった時の多少無茶なお願いというのも聞き入れる余地が生まれるのである。
こういう、仕事とは直接関係ない部分での振る舞いこそが、自分が古沢から学ぶべき本当の能力なのだろうな──という休恵の想いは。
「全員その場で手を挙げろォ!」
「!?」
──フロアになだれ込んできた集団により、強制的にかき消された。
「少しでも怪しい動きをしたものは即座に捕縛対象とする! どうか我々の忠告に従っていただきたい!」
丁寧な言葉遣いとは裏腹に、語気そのものは荒く、そして雷のようなその怒声はフロア全体にびりびりと響き渡っていく。
あまりにも突然な事態に、休恵には何が何だかわからなかった……否、パニックになって冷静な考えが出来なかったと言っていい。
それもそのはず。扉を蹴破ってこのフロアになだれ込んできたその集団は、誰一人の例外なく全身を武装している。機関銃のようなものを構えているのはもちろん、おそらくは最新科学の技術の粋を集めたプロテクターもばっちりと。頭に装着しているフルフェイスのヘルメット──こちらからではその素顔は見えない──も、きっと見た目通りのそれではないのだろう。
ありていに言って、その集団は……そう、よく言えば機動隊、悪く言えばテロリストのような様相をしていた。
「な、なんだよこれ……」
「休恵ちゃん! 言うとおりに!」
休恵よりも早く冷静さを取り戻した古沢が、休恵と進藤の腕を掴んで万歳のポーズをとる。傍から見ればボクシングか何かのジャッジのような姿となっているが、その滑稽さを笑うものはここにはいない。
「ほら、もう片手も!」
「は、はい……!」
三人で万歳。そんなことをしている間にも、その武装集団はフロアを突き進み、どよめきながらも両手を上げる社員たちを半ば無視するようにして、奥の階段へと消えていく。
先に進んで行ったのは、だいたい三十人くらいだろうか。このフロアには五人ほどが残っていて、油断なく銃を構えて両手を上げる人達を監視していた。
「な、なんなんですかコレ……! あいつら、銃で武装して……! どう見ても強盗の範疇を超えてますよ……!」
「──いいや、休恵ちゃん。彼らは強盗じゃない。よく見て、体のあそこ……ほら、あの紋章は」
古沢が休恵の疑問に答える前に。
フロアのど真ん中にいたそいつが、大きな声を張り上げた。
「我々は残業警察だ! 【悪性超過勤務の禁止および健康で人間的な最低限度の生活確保に関する法律】──通称、残業禁止法の違反行為がこの会社にて行われている疑いがあり、強制捜査に踏み切った次第である! これは捜査令状も発行されている、正式な捜査であることをご理解いただきたい!」
「ざ……残業警察!?」
残業警察。その存在自体は、休恵も知っている。むしろ、この日本で生きている社会人として、知らない人間なんているわけがない。
ただ──本来であれば、一生関わることの無い存在だ。その実態は謎に包まれていて、あるのはただ、【残業犯罪を取り締まる】というその使命と、【残業犯罪を取り締まった】という結果のみである。国がその存在をあまり大っぴらにしていないため、誰もその詳細を知らないというのが現状であった。
「我々は残業犯罪を取り締まるにあたり、必要に応じて武器の使用を認められている! ただし、これはあくまで残業犯を無力化するために使用するものであり、無関係な人間はもちろん、残業犯であろうと投降の意志が認められれば振るわれることはないだろう!」
テロリストではなく、国家権力。それもきな臭いヤバい国家のそれじゃなくって、一般市民の味方である警察だ。
その言葉にほっと安心した人間……なんているはずがない。どんなに言い繕ったところで、相手はテロリストと見紛うばかりの様相で、猛々しい雰囲気を隠そうともしないまま、こちらに銃を突き付けているのだから。
もし。
もし、両手を下げて少しでも動くそぶりを見せようものなら。
次の瞬間、きっと無事ではいられないのだろうな──という奇妙な確信が、休恵にはあった。
「それでは、これより残業禁止法違反行為に関する捜査を実施する! この場にいる人間は全て、社員、非正規、請負、来訪客を問わずゆっくりと片手だけを……いいか、ゆっくりとだ! 片手だけを降ろして、パーソナルカードを提示してほしい!」
どうか、捜査に協力願いたい──という、残業警察の言葉を誰が信じたことだろう。もしそれを拒みでもしたら、次の瞬間にお縄にかかるのは誰の目にも明らかだった。
「──なあ、ちょいと質問」
「むっ!?」
(ちょ、古沢さん!?)
(だいじょぶ、休恵ちゃん)
いつもより少しだけ声を震わせた古沢が、いつもの気さくさをなるべく崩さないように声を上げた。
「俺とそこの休恵は来訪客でさ。パーソナルカード、懐じゃなくてバッグに入ってるんだ。……取っていい?」
「……許可する! ただし、監視はつけさせてもらおう!」
現場指導官と思われるそいつが目配せした瞬間、残業警察の一人が駆け寄ってきて古沢に銃を突きつけた。
「──業務執行上、形式的とはいえこういった対応をとらせて頂きますが、どうかご容赦ください。怪しい真似さえしなければ、私は何もいたしません」
感情がまるで消え去った、冷たい機械のような声。同じ人間が発しているとは思えないほどゾッとするものだったが、しかし古沢は緩く笑って言葉を紡いだ。
「あいあい、わかってる……休恵ちゃん、みんな。残業警察ってのは言葉通り、残業犯を取り締まるための存在だ。確かに見た目は物々しいし行動も荒っぽいけど……間違っても、それを一般市民に振るうことは許されていないし、できない。変に緊張せず、そのまま指示に従えばいいんだよ」
銃を突き付けられたまま、ゆっくりと。その場の誰もが……古沢の声が震えていることにも、体が震えていることにも気づいていたが、ともかく古沢は自分のバッグの中からパーソナルカードを取り出して、正面を見据えたまま背後にいる残業警察に提示した。
「あなたは──勤務区分:馬。現在時刻……12:58」
「その時間なら、龍定時か馬定時だろ? ちなみに属性区分としては、企業間取引を目的とした来訪客だ」
「……ずいぶん詳しいですね」
「おうよ。こう見えて残業監督官ほか関連資格持ちだからな。嘘だと思うなら、そのパーソナルコードを読み取ってみるかい?」
「いえ……勤務区分が馬である時点で、現在時刻におけるあなたの勤労は認められております。捜査にご協力いただき、誠にありがとうございます」
機械的な口調を崩さないまま、その残業警察は古沢に突き付けていた銃を降ろした。すでに古沢への興味を一切失ったらしく、今度は休恵に油断なく銃を突き付けている。
「ふー……よかったら、捜査に協力しようか? 残業監督官の果たすべき使命の一つに、残業から派生する全ての悪影響への対処ってのがあるだろう? こうやっておっかない連中に銃を突きつけられているこの状況だって、悪影響の一つだ」
「お構いなく。あなたがこうして率先して捜査に協力してくれた段階で、その役目は果たせたと考えます……ですよね、隊長?」
「うむ! 古沢監督官のご協力に感謝を申し上げたい! 彼が今実際に見せた通り、諸君らはただ、パーソナルカードを提示してもらうだけで構わない!」
「ちぇ……なんだ、お見通しってわけか」
そうして、残業警察によるパーソナルカードのチェックが始まった。
「休恵良助。勤務区分:馬。現在時刻……13:01。良し」
「進藤洋二。勤務区分:龍。現在時刻……13:01。良し」
「笹川美穂。勤務区分:龍。現在時刻同上。良し」
「諏訪かおり。勤務区分:牛。シフト時間外。ただし、来訪目的がカスタマーサポートへの相談であり、属性区分が消費者であることは明らか。良し」
「諏訪裕太。未成年および学生。残業法規制対象外。良し」
基本的には、パーソナルカードを提示してその勤務区分を確認してもらうだけ。この時間であれば、馬か龍シフトの人間の就業時間であるため、その一文字さえ書いてあればあっという間に確認作業は終わる。
稀に、そうでないものもいたが……そちらは単純に、仕事ではない理由でここに居合わせてしまった人間だ。誰がどう見てもこの場で違法な残業をしているようには見えず、二、三の追加の質問に答えるだけで、問題なしとして開放されていた。
「ふー……」
背中を冷や汗でぐっしょりと濡らしたまま、休恵はそのふかふかなソファに身を預けた。一応はもう自由の身とはいえ、まだこのビル全体の捜査が終わっていない以上、外に出ることは許されなかったのである。
ざっくりと、身元確認が終わったのは全体のだいたい半分ほど。捜査が進むにつれ、最初にあった物々しい雰囲気は和らいできたとはいえ、劇的にスピードがあがったわけではない。他のフロアでも同じように捜査がされていることを考えると、休恵たちが本当の意味で解放されるにはまだ時間がかかることだろう。
「お疲れだね、休恵ちゃんに進藤くん」
「古沢さん……」
同じく、疲れたように笑う進藤が、身体を投げ出すように深くソファに腰掛けた。
「は、はは……この会社に勤めてもう二十年ほどになりますが、残業警察なんて見るのは初めてで……まさか、あんな機関銃まで持ってるとは思いませんでした」
「真っ当に働いていたら、見ることなんてないからね……かくいう俺も、実物を突き付けられたのは初めてだよ」
撃たれるはずがないとはいえ、それでも銃口を突き付けられるというのは良い気分はしないものだ。休恵に限らず、古沢と進藤も冷や汗、あるいは脂汗で額を濡らしており、良い運動をした後かのように息が荒い。
「でも令状付きのガサ入れってことはさ……割とマジな確信があって来たってことだろう? ここ、優良認定企業だってのに……」
「ええ、本当に……弊社で残業なんて、やるはずがないのに。何かの間違いだと信じて──」
──ダダダダ!
進藤の言葉を遮った、その特徴的な音。ドラマや映画の中でしか聞いたことの無いそれは、典型的と言って良い程の銃撃音だ。何かうえで大捕り物でもしているのか、天井からぱらぱらと何かが降ってくる。
当然、このフロアにいる人間たちにも少なくない衝撃が走った。
「どうか厳粛に! 落ち着いて!」
訓練を受けた軍人ならともかく、すぐ近くから銃声が聞こえているのに落ち着けるわけがない。事実、今まさにパーソナルカードを提示しようとしていたその男は、手の震えからカードを取り落としてしまっていた。
そして。
「──むっ!?」
「ひっ!?」
そのカードを拾った残業警察が──その男の体から十五センチは離していた銃口を、文字通りぴたっと体に密着させた。
「一辻慎吾。勤務区分:龍」
「も、問題ないだろう……? 頼むよ、銃は離してくれないか……?」
「──これが正規のパーソナルカードだったら、な」
「!?」
次の瞬間。
気づけばその男の天地が文字通りひっくり返って──一拍の後、何か大きなものが床に強かに叩きつけられた音が、フロアに響き渡った。
「が、はァ……!」
「確保ぉッ!!」
ほんの一瞬。瞬き一回程度のその時間で、残業警察は一辻と呼ばれたその社員を見事に投げ飛ばし、そして完膚なきまでに組み伏せて見せた。体はしっかり押さえつけられているし、頭には銃口が付きつけられていて……そしてそもそもとして投げられた時の衝撃が強すぎたのだろう。抵抗するとかそういう話以前に、取り押さえられたその対象は完全に気絶してしまっている。
「一辻慎吾。本来の勤務区分は……兎。現段階で約二時間の残業。残業法違反の現行犯で逮捕する」
「加えてパーソナルカードの偽造、すなわち公文書偽造も追加だ。……まさか、施されている偽造防止技術が公開されているものだけだと本気で思っていたのか?」
休恵の目の前で、社会人として普通に働いていたはずの人間の手に手錠がかけられた。ほんのついさっきまでは社会の一員として活動していた人間が、残業したという罪で犯罪者となった。
その光景は妙に生々しいものであり、また同時に、どこか非現実感をも孕んでいた。
「隊長! 被疑者を確保しましたァ!」
「む」
周囲が呆然としている中で、しかし残業警察だけはどこまでも冷静に仕事を進めていたらしい。いつのまにやら上の階での動きが収まっていたようで、今はもう銃撃の音は聞こえない。その代わり──階段を下りてくる、妙に騒々しい人の声が近づいてきていた。
「被疑者は三名! 一名は残業の現行犯で逮捕! 残り二名は残業隠滅、残業幇助、残業教唆、その他関連するいくつかの容疑により、令状通り身柄を確保しました!」
三人の男が、残業警察に拘束されたまま引きずるように連れられていた。無駄な抵抗でもしたのか、三人ともスーツがボロボロになっていて、顔には青痣や腫れた個所が何か所もある。一人は、鼻を強かに打ち付けたのか結構な量の鼻血を吹き出していた。
「──え」
「ビル内全ての確認を終えました! 検挙対象の身柄の確保は完了です!」
「ご苦労。ひとまず我々の仕事はこれで終わりだ。残りは現場検証の人間に任せるとして──皆さん、捜査にご協力いただき、誠にありがとうございます! これにて捜査は終了になるので、自由にされて結構です!」
ホッと息をつく古沢の表情にも、信じられないとばかりに震える進藤の顔にも、休恵はまるで気づかなかった。残業警察の言葉だってろくに聞こえていなかったし、連行される残業犯の言葉にならないうめき声も、まるで聞こえていなかった。
ただ、一点。
休恵が見ていた──目が離せなかったのは。
「……嘘、だろ」
連行される残業犯の最後の一人。その左胸に掲げられた社員証にある、「労河原」の三文字であった。