3 訪れた転機
──この法律は、十四歳に満たない者、および就労していない者については適用しない。ただし、事実上の就労と認められる場合はその限りではない。【悪性超過勤務の禁止および健康で人間的な最低限度の生活確保に関する法律(通称:残業禁止法)より抜粋】
「──休恵。新城部長がお呼びだぞ。時間になったら会議室に来いってさ」
労河原との飲み会から、休みを挟んでちょうど三日。いつも通りの馬定時出社──10:55に自席へとついた休恵は、帰り支度、および引継をしている兎定時の同僚からそんなことを告げられた。
「珍しいな、会議室に呼び出しなんて……なにかあったのか?」
「さあ……」
新城部長。ほかでもない休恵の上司だ。当然、面識はあるし軽い雑談ならもう何度もしたことがある相手だが、しかし直属の課長を飛ばして直接仕事の話をしてくる相手ではない。ちょっとした雑用程度の仕事ならばともかく、会議室に呼び出すレベルともなればなおさらだ。
心当たりがあるとすれば──先週末のあの一件くらいだが、昨日も一昨日も、古沢はいつも通りの様子で、それこそ何事も無かったかのようにふるまっていた。実際、休恵でさえ今この瞬間までそういったことがあったということをすっかり忘れていたのだから、いまさらそんな話を蒸し返すということもないだろう。
「まあ、何だって良いさ」
ひとまず同僚に礼を述べてから、休恵は今日のスケジュールに「部長と面談」を付け加える。予定時間として一時間を仮で設定したが、それでなお業務負荷としては余裕がある。せいぜいが明日の予定の確認が出来なくなるくらいで……それさえも、別に取り立てて問題があるわけじゃない。
この間、たったの五分。ぴったり11:00になったのを見届けてから、休恵は同じフロアにある会議室へと向かった。
「失礼します──あ」
「よっ、休恵ちゃん」
横に長い会議室。奥にある大きなモニターの前に陣取る部長のその隣。
いつも通りの気さくな様子で、古沢が休恵に笑いかけていた。
「えっと……」
「いきなりの呼び出しだもん、そりゃ面食らうような。まま、とりあえず座りなって」
広い広い会議室の中。今この場にいるのは部長、古沢、休恵の三人だけだ。いったいどうして古沢がこの場にいるのか、どうして部長そっちのけで古沢が取り仕切っているのか、部長の前であまりにも態度が適当過ぎないか……などなど、いろいろ気になるところが多いものの、とりあえずは言われるがままに休恵は椅子に座る。
「新城ぉ、お前もちっとは気ぃ効かせろよ。役職持ちがそんなむすっくれたツラして構えていたら、若手が震えあがっちまうだろうが」
「……そういうお前は、もう少し威厳というものを考えろ。いつまでそんな学生みたいなチャラチャラした態度をとるつもりだ?」
「お生憎、生まれ持った性質はもう変わりようがない……っと、休恵ちゃんが面食らっているからそろそろマジ話にしようか」
たとえ部長が相手でも、例え自身は平社員の身であろうとも、古沢はそのマイペースを崩さない。下からは慕われる人間であっても、上からしてみればさぞや扱いにくいだろうな……という休恵の考えを証明するかのように、新城は小さくため息をついた。
「休恵くん」
「は、はい」
「──今日この瞬間から、キミはこの古沢の下で業務についてもらう」
「え」
開口一番。新城は結論だけを簡潔に述べた。
「もちろん、業務命令とはいえ……拒否したいというならそれでもかまわない」
「い、いえ! むしろ願っても無いことですけど……なんで、急に」
古沢の下で働く。それはつまり、古沢の補佐として今までよりも難しい案件に関われるということだ。今担当しているようなつまらなくてやりがいの無い案件ではなく、やりがいがあって自分のスキルアップにもつながる──もっと言えば、高い評価を得られて賃金も上がることがほぼ確定している案件に付けるということである。
それは休恵が心から望んでいたことであり、断る理由なんてどこにもない。どこにもないのだが……あまりにも急なタイミングであるということが、どうにも休恵には気になって仕方が無かった。
「……一部の社員から、業務負荷や後継者育成に関する陳情があってな。部内全体の業務状況や、これまでの実績評価からキミが適任であると判断した」
「それって……」
「早い話、俺が上層部に土下座してかけあったってわけよ」
「このちゃらんぽらんの手綱を握れそうな人間を、早急に育成したかったと言ったほうが正しいかもわからん」
新城の疲れた顔を見れば、「一部の社員」の正体なんて簡単に推測できるものである。まさか本当に土下座したわけじゃないだろうが、こんないきなりの辞令……それも、本来であれば等級的に明らかに力不足な人間を無理やりにねじ込んだのだ。「適任であると判断した」という新城の言葉は明らかにただのポーズであり、裏では相応のやり取りがあったのであろうことは想像に難くない。
「古沢さん……!」
「面倒くさい若手育成を任されちゃったなぁ……ホント、弊社は人使いが荒いっての」
「……休恵くん。気づいているだろうが、私の言葉は割と本気だぞ」
休恵が今の業務に不満を抱いていると言ったのは、先週末の話だ。それから稼働日にしてわずか二日間の間で、古沢はこれだけのことをやってのけてみせた。言葉では適当な態度をとっているものの、それをそのまま受け取る人間なんているはずがない。
「ともかく、休恵くんの方に不満が無ければ本決定だ。業務調整はこっちでやっておくから、今日はこのまま……古沢と一緒に外回りに行ってきてくれ」
「は……はい! 承知しました!」
「本当に、よろしく頼むよ……なるべく早く一人前になって、一刻も早くこのちゃらんぽらんを隠居に追い込んでくれることを期待している」
そんなんだから若手に怖がられてるんだよ──と古沢がニヤニヤ笑い、そして休恵の肩をポンと叩く。話は終わりだと言わんばかりに新城がしっしっと手を払ったので、休恵は今にも舞い上がりそうな気持を必死に抑え込みながら、一礼をして会議室を後にした。
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「ご機嫌だねえ、休恵ちゃん」
「ええ、それはもう!」
初めて握った、社用車のハンドル。少しばかり車内がヤニ臭いものの、それが気にならないくらいには休恵は舞い上がっていた。
助手席では、古沢がのんきにポチポチとスマホを弄っている。お互い気心が知れている関係だからか、一応は業務中なのに堂々と最近流行りのソシャゲを楽しんでいた。
「あのつまらない業務から解放されて、古沢さんの下で働けるんですから……! これで喜ばないはずがないですよ!」
「おーおー、若いパワーってのはすごいねえ……一か月もすれば、こんなクソ面倒くさい仕事は嫌だ、元の仕事に戻りたいーってなると思うけど」
「言いませんよ、そんなこと!」
退屈で退屈でつまらない仕事よりも、難しい仕事の方がやりがいがある。挑戦してスキルアップができるし、時間の進みが遅く感じることなんて絶対ないだろう。そのうえ給料まで上がるとなれば、休恵に不満なんてあるはずがなかった。
「古沢さん……! 本当に、本当にありがとうございます! わざわざかけあってくれて……」
「──そのことなんだけどさあ」
スマホから目を離さないまま、古沢は告げた。
「休恵ちゃん……まさか、マジに人手が足りないから任命されたとは、思ってないよね?」
「……」
古沢が動いて、休恵をこの仕事に就かせた。それ自体は紛れもない事実だ。ただし、後継の育成や業務負荷云々については、はっきり言ってただの建前である。それそのものには休恵も気づいているわけで、そうまでして古沢が休恵を自分の下に置いておきたかった理由は。
「……先週の、あの件」
「そそ。安心してくれ、上には言ってない……尤も、新城は感づいているだろうけどね」
休恵が、もっと働きたいと言ったから。法律を犯してまで──殺人と同等レベルの罪である残業をしたいと、たとえ本気でなかったとしても口にしたから。だからこそ古沢は、そんな危うい若人を自分の下へ置いておこうとしたのだ。
「さすがに未来ある若者が道を踏み外そうとしているのに、模範となるべきジジイが黙って見ているわけにもいかないからね。……その自覚だけは忘れないようにな」
「……はい」
「よし! 辛気臭い話はこれでおしまい! 言っとくけど、休恵ちゃんなら任せられると思った気持ちはマジだからね! そうじゃ無ければもっと別の対応になっていたから!」
もっと別の対応。今の休恵にできる仕事なんて、ベテランたちからしてみればたかが知れている。社内全体の人員と実力、そしてシフトがきっちり管理されている以上、休恵に任せられる仕事なんてそう多くはない。もし古沢が……あるいは新城がもっと短絡的な考えをする人間であれば、冗談でも犯罪を犯そうとした人間なんて、適当に理由でもつけてクビにしたほうがはるかによかったことだろう。
それをわざわざ、古沢は骨を折ってまでこういう形に落とし込んでくれたのだ。どこまで本気で、どんな手段を取ったのかはわからないが……休恵は、古沢に頭が上がらない気持ちでいっぱいであった。
「……古沢さん、本当にすごいですよね。こうやって俺達若手のことを気にかけてくれるばかりか、結果として人事異動までやってのけるなんて。……どうせなら、古沢さんが部長だったらよかったのに」
なんでずっと平社員のまんまなんですか──と休恵が続ける前に、古沢の方が答えを口にした。
「それなぁ……実は俺、本当は平社員じゃないんだよね」
「えっ!?」
「休恵ちゃん、よそ見しない。ちゃんとハンドル握って」
今明かされる衝撃の新事実。重大なことをさらっと口にした古沢に、休恵は開いた口が塞がらない。
「えっ……えっ? それっていったい、どういう……!?」
「実は俺、こう見えてさ。残業監督官、業務管理士、残業指導労務士……などなど、残禁法関連の国家資格、メジャーなものからマイナーなものまで一通り持っているんだよね」
「お、おお……?」
残業禁止法に関する国家資格については、休恵だって知っている。社内にはその辺の諸手続きを担当する部署があるし、このご時世、絶対に食いっぱぐれることのない安定した職業ということで資格取得の人気も高い。もちろん、国家資格だけあって合格率はかなり低いが……合格さえしてしまえば、それこそそれだけで食っていくことが可能であるくらいだ。
「そういう人って、労務とかの所属じゃありませんでした……? 古沢さん、俺と同じ部署ですよね……?」
「うん、普通の会社だったら労務関係の部署だろうね。その手の部署だったら大抵入社後に資格を取らされるし、そもそも資格持ちじゃないと雇ってもらえなかったりする。そういう人たちが残業なんてさせないように社内の業務状況に目を光らせていて、違法労働とならないように業務時間の管理、申請などをやっているわけだ」
でも、と古沢は続けた。
「それでも、残業をやらかすバカがいる。殺人が無くならないのと一緒で、残業犯罪も未だに根絶できていない。……この前の休恵ちゃんのも問題だけど、中には部下や同僚に残業を強制させようとする──いわゆる、残業幇助や残業強制といった明らかに悪意のある残業犯罪もある」
「……」
「休恵ちゃんも知っている通り、ウチは優良企業認定を受けている。その条件は──」
「──残業犯罪をさせない、出さないことが明らかであること。そして専門の担当者を配属し、明確な社内規定の元に確実な管理ができていること」
「そう。有資格者と明確な管理規定と運用実績。これが国に問題ないと認められてようやく認定が得られる。かなり面倒くさいけど……国のお墨付きだからね。真っ当な企業ってことで信頼が得られて、取引だってしやすくなる」
別に、優良認定を得ていない企業が悪だというわけではない。しかし、優良認定を得ている企業であれば国が認めるほどに管理がしっかりしていて、信頼ができるという話である。それは当然、残業だけの話に留まらず、製品やサービスの質、保障体制と言ったすべての面に通じるところだ。もしスペック的に全く同じ製品があるのなら、たいていの人間は優良認定企業が出している製品を選ぶことだろう。
「デカい企業ならこの手の資格者が絶対一人はいて、残業犯を出さないように目を光らせている……けど、それでもカバーしきれないから残業犯罪が起こる。そこで優良認定企業である弊社は独自の残業犯罪防止対策として、残業管理能力を持った人間をこっそり平社員に紛れ込ませているってわけ」
そうやって紛れ込んでいるから──裏の顔があるから、表向きの役職が無い。親しみやすく職場に溶け込むことで、上司や担当部署の監察官の目の届かない場所での状況も把握できる。社員が持っている本音を聞き出し、残業犯罪を未然に防ぐべく行動することができるのだ。
若手のことを気にかけるのも。若手と同じように上司に対して愚痴っぽいのも。ベテランなのに一切の役職無しで同じ目線で会話ができるのも。振り返ってみれば、全てのこのためだったのだと説明をつけることができた。
「要は、俺はみんなの飴ちゃん役だよ。役職無しなのに他のベテラン連中と同じくらいに金を使えるのは、もう一つの仕事の金があるからってわけだ。今回のこの配置は、残業指導労務士として休恵ちゃんの意識教育をすることも目的としている」
「……いいんですか、俺にそんなこと話して」
「ホントはダメさ。だけど、休恵ちゃんだから言ったんだ。休恵ちゃんの場合、下手に隠すよりも正直に言ったほうがむしろ効果があると俺が判断した……あと」
「あと?」
「俺の裏の顔まで知っているのは一定以上の管理職……要は、部長以上だけ。休恵ちゃんもいずれはそこまで上がるだろうと期待されているわけで、遅いか早いかの違いでしかない。だったら、今のうちにこういう経験をしておくのも悪くないだろうなって」
「……マジっすか」
「うん。休恵ちゃんは休恵ちゃんが思っている以上に、ちゃんとその丁寧で確実な仕事が評価されているからね。先週の件は報告してないって言っただろ? そうでもなければ……いくら俺でも、こんないきなりの配置換えはできなかったよ」
残業をしたい。ほんの出来心からの反社会的なつぶやきをきっかけに、希望通り古沢と一緒に仕事ができるようになったばかりか、上層部から期待されていると将来まで確約されたような状況にまでなった。先週までは鬱屈した気持ちで仕事をしていたというのに、次から次へと飛び込んでくる嬉しい情報に、休恵は頬のゆるみを隠せない。
「だから裏の公的には、今回のこれは次世代管理職のための研修さ。適正次第では次世代の俺……裏の残業指導労務士への足掛かりともなる。新城の野郎は、替えの効かない残業指導労務士の道に進んでほしいと思ってるだろうけど……こればっかりは、休恵ちゃんの頑張り次第だな。……残業指導労務士としての休恵ちゃんへの指導は、会社は知らない。俺と休恵ちゃんだけの秘密だ」
バックミラー越しに、古沢は器用にウィンクをする。定年間近の爺に片足を突っ込んだ人間のウィンクなのに、今の休恵にはそれが人気絶頂のアイドルのそれよりも魅力的に映って見えた。
「ま、階級的にちょっと早いってのは本当のことだから、最初は結構きついと思うけどさ……無理せず気張らず、そこそこで頑張っていきましょうよ」
「はい! ぜひともよろしくお願いします! ……ウチの会社って裏でそんなことやってたんですね。なんかちょっと見直したというか……すげえなあって」
「内緒で頼むよー? あんまり大っぴらにすると、俺のキャラが崩れちゃうじゃん? 知ってる人だけが実はすごい奴だと知っている……ってほうがカッコよくない? もしくは、いなくなってからすごい人だったと判明するやつとか」
「うーん……それはちょっとわかりませんが。もしかして、新城部長とも実は仲がよかったりするんです?」
「月一でサシ飲みするくらいには仲がいいかな? 同期でもう四十年近い付き合いになるわけだし」
「めっちゃマブダチじゃないですか」
詰まらない退屈な業務の裏で、身近だと感じていた人がいろいろ動いていた。自分が知らなかっただけで、会社はかなり周到に残業犯罪が出ないように手を打っていた。何より驚きなのは、古沢は今まで全くそんなそぶりも見せず、そして会社全体としてそんなことをしているだなんてまるで誰も気づいていない──気づかせていないことだろう。
やっぱり自分はまだまだ未熟だ、もう少し意識して仕事をするべきだ──と、休恵は考えを改める。古沢の言う通り、よくよく考えて観察していれば、ヒントはいくらでもあったのだ。この件に限らず、休恵が退屈でつまらないと認識している業務の中にも、何かしらの気付きや発見があってもおかしくない。
「早速ですけど、古沢さん。今日これから行くのって……」
「ん。昔から付き合いがある取引相手だよ。なんだかんだで今日は初日だ、まずは慣れていくところからだね」
「了解っす!」
「良い返事だねえ……おっと、そういえば企業名を言ってなかったね。正式名称は──」
古沢の口から告げられた、その企業名。何の因果か、休恵はその名前に聞き覚えがあった。
「おや。休恵ちゃん、知ってるの?」
「いえ……知っているというか」
脳裏に浮かぶのは──先週末に家で見た、疲れたように笑う労河原の顔。
「そこ、友達の親が勤めているところなんですよね」